3倍の敵に8時間も戦った武田軍の真相 両軍徹底検証 長篠設楽原合戦【合戦解説】

1575年6月26日早朝、三河国設楽原において織田・徳川連合軍3万1千と武田軍1万1千ほどが激突した。
3倍の兵力差にもかかわらず、武田軍は14時まで、およそ8時間ほど織田・徳川連合軍に挑んだ。
両軍の違いを徹底検証して長篠・設楽原の戦いの明暗を分けたのは何か
3倍の相手に8時間も戦った武田軍の真相を解説する。

●目次
00:55 長篠・設楽原の戦いに関する史料
03:26 織田・武田氏の鉄砲
05:12 織田・武田氏の鉄砲隊
07:01 織田・武田氏の鉄砲玉
10:35 織田・武田氏の軍役
13:30 織田・武田氏の馬
16:50 織田・武田氏の騎馬隊
19:29 陣城
22:10 武田軍の高名
26:08 設楽原決戦の真相
28:17 まとめ

※季節感が分かりやすいよう新暦を採用しています。
※長篠・設楽原の戦いの経過と原因はコチラ↓
 https://youtu.be/mnieqjmehcU

●参考資料
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『織田信長』池上裕子
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『信長軍の合戦史』日本史史料研究会
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『徳川家康』柴裕之
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『明智光秀と近江・丹波』福島克彦
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●画像提供
イラストAC

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#長篠の戦い
#織田信長
#徳川家康
#武田勝頼

15 Comments

  1. 初見です! 凄い労作ですね。堪能しました!!
    数多くの資料を対象に、合理的基準で読み解かれており、内容に納得度が高かったです。
    戦の推移は非常に納得できるものですので、一つ質問です。
    織田軍(しかも圧倒的数の!)出現当初に、勝頼が撤退しなかった理由を如何お考えでしょうか。
    軍事よりは政治になるか、と思いますが、お考えをお聞かせください。

  2. 現地で柵を作れるほどの幹を持つ樹を伐採していたら、枝を落とすのも運ぶのも大変だと思いますが…少しならともかく数キロに渡る三重の柵となると相当な分量が必要で、当時はチェーソーもトラックもないので、いくら戦国期の人が強靭でも、そんな重労働をしたら戦う前にヘロヘロになってしまう。敵が間近にいて急襲の可能性もあるのに前線でそんな悠長なことはしないかと思います。3万の兵力を活かして、それぞれに丸太を持たせて運び込んだ方が妥当に思えますが。

  3. 武田家への鉄砲伝来が信虎の代の1526年で、種子島での伝来が1543年ということは、火縄銃とは仕組みの違う鉄砲が1543年以前からあったということでしょうか?

  4. 日常で馬に接する事がなくなった我々が戦における馬の使い方を理解するのはやはり難しい。多分非常に多様な使い方があったのだろうと最近は考えています。

  5. あんまり言われていないのですが、晩年の信玄は本気の城攻めをほとんどしなかったのに、勝頼は大軍で囲んで落とす事に固執する(ただしこっちが普通の正攻法)タイプだったんですよね。
    信玄は5000ぐらいの別動騎馬を幹部に率いさせ、敵地を疲弊させて国衆を略奪で満足させるいわば高機動カバディ的な方法論を確立させ、それで駿河を北条との優位講和で掌握でき、これが「人生でたどり着いた戦略」でした。
    信長は畿内の流通網を絞り、東国の鉄砲を干上がらせ、槍足軽同士のまともな戦いを否定して陣城戦にした(これは賤ケ岳でも山崎でも羽柴明智柴田全員に模倣された)のが「人生の戦略」だったのだと思います。

    やはりそれに対して勝頼はあくまで士気高く槍の差し合いをすることに重きを置いた戦術論にとどまったところがあり、いろいろと惜しい部分はあります。
    上杉景勝よりは大分センスあったのも確かなんですけどね

  6. 嫌 沢山鉄砲弾薬があっても勝敗は分からなかった。酒井忠次の進言の鳶ヶ巣山の奇襲攻撃が成功して、武田軍が退くも出るも地獄に陥ったからでしょう

  7. 7:38 おお…歷史考古學の成果まで反映されている

    …もしかして史料の殘存狀況しだいでは大名家の戰術敎義(ドクトリン)まで分析可能だったりする? 24:0027:00あたり

     ただ會戰における兵の運用ばかりに氣を取られた昔の戰史硏究ではなく、こういう馬や鐵砲といった"モノ"や軍事組織、平事における軍事訓練などにしっかり地に足を着けた軍事史の視座がもっともっと日本の方々にも普遍的に受容されればよいなと思います。

  8. 当時の鉄砲と弓では、威力としてはやはり鉄砲の方が高かったのだろうか。
    弓矢は資源=資金が抑えられる。連射が出来る。故障が少ない。雨天でも使える。
    鉄砲は、射撃体制のまま待機出来る。比較的習熟が容易。狭隘場所でも使える。発射音による威嚇効果。
    かなと想像する。

  9. 一般的に忘れ去られた鉄砲の産地として、近江日野がある。この土地は蒲生氏郷の故郷であり、この鉄砲鍛冶を取りまとめていたのが氏郷の父親である。
    織田信長は足利義昭を奉じて上洛した結果、泉州堺・近江国友・近江日野の当時の日本における鉄砲主要生産拠点3か所を一挙に抑えた。その後浅井朝倉両氏を滅ぼし、六角氏を抑え込んで完全に支配下に置く。
    支配領域の拡大と税制の再編、経済活動の活発化に伴い鉄砲・弾薬両方を抑えることに成功する。
    武田は駿河を押さえているので海路から鉄砲弾薬の調達は可能であったものの、経済力が伴わない、個々の武将らに独自に調達をさせていたのか
    兎に角、鉛玉は手に入らず、鉄や銅などで弾丸を製作。鉛であれば低い温度で弾丸製作が可能で、家内製で調達できたものの
    鉄の鋳物では生産性は低下する。
    織田勢は、弾薬の調達も組織的に行っていただろう。弾丸や藁縄も各武士ら家内での製作が十分可能であった。

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