【ゆっくり解説】織田信長に関する一考察(美濃攻略戦編)

皆さん接してますか織田信長に関する1 考察実況のパチュリーノーレッジです皆 さん地名という校内ですか解説の フランドールスカーレットですということ で今回は織田信長に関する1考察第8回 今回は通りの攻略戦です 年から1567年っていうことは5年分 一気に説明するのかそうなりますね織田 信長の人生そしてこの動画の解説速度を 考えるとかなりの速度です逆に言うとこの 5年間はあんまり事件とか戦役が起こって ないってことなのか信長さ視点だとそう なりますね前回ご説明した清洲同盟の成立 が1562年1月頃そして本能寺の編が 1582年ですのでそこから信長さんの 活動は約20年ということになりますが その1/4がここで費されたということに なりますそれを1回で説明とかこの シリーズ大丈夫なのあと3回で終わっちゃ うってこともちろんそんなことはありませ んまあ人生山あり谷ありでイベントが連続 する時期があれば暇な時期もありますこの 時期信長さ的には身の一刻を征服すると いうものすごく大きな出来事はあったん ですがその過程が結構地味なんですよね いやもちろん大きな成果を地味に出すと いうことは非常に重要です同じ成果なら かかるコストは少ない方がいいに決まっ てるからね本当それでもそれだと解説映え しないんですよねやっぱりハとか長野 みたいに大戦役があってそこでものすごい 戦略や戦術が実行されて大きな敵を少数の 味方が破ったみたいなことがあった方が話 として面白いですからねそして歴史は捏造 されていくのであったこれ本当ぜ保安の 気持ちが分かりますいやそこを嘘なく 面白く説明するのが解説者の仕事でしょ 素人の解説動画でも一応解説なんだから 間違いはあってもいいけど嘘はつくなよ 前書しますとまあそんな感じで信長さん 回りは地味なんですがこの頃には戦国と いうか日本史的にはかなり大きな事件も 複数きていますなので信長さんだけでは なくその辺りの動きも含めて詳しくご説明 していきたいと思いますまあ5年もあれば いろんなとこでいろんなことが起こってる よねなんと言ってもこの頃は国中で戦争し まくってた戦国時代だからそういうこと ですではここから解説です前回のおさいも 兼ねて清同盟締結の1562年からだ ねということで若干前回とかぶりますが これが1562年頃の機内及び関東の外教 ですの都合であとか朝倉とか六角死は入っ てないよ彼らについては次回以降順次出て きますし配役も決まってますのでご安心を あとまあその辺はともかくまずは終わり 伊東の各国につい てまずは狭で実質投手が打ち取られた今川 けと打ち取ったおけそして今川の一部将で あった徳川家康についてこれは前回ご説明 済みなので簡潔にご説明しておきますが 織田信長川羽の後にそれ以前から取り合い になっていた終わり頭部を選挙そのまま進 するかに見えましたが色々岡崎に逃げ込ん だ徳川家康と同盟し移行投身を停止して西 のみの機内方面へ向かい [音楽] ますこれがいわゆる清洲同盟ですね詳しく は前回動画をご参照いただきたいのですが こうやって戦略マップで見るとその理由は よく分かるかと思いますまあ東側は怪獣大 戦争状態だからね武田と北条っていう2大 国が戦争橋の上杉に絡まれる形で大戦争し てるわけだ東に行ったら遅かれ早かれこの 戦いに巻き込まれるのは確実だからね しかも当時の人は京都だからそっちから どんどん離れちゃうそういうことです一見 すると創業者権実質投手だった今川吉本と その側近がまとめてハまで亡くなってます ので東方面を攻略するのが戦術的には合理 的ですがそこで買ったとしても得られる ものよりも失うものの方が多い可能性が 高くなりますさらにこれも前回ご説明し ましたが三河は長年織田と今川という大国 に挟まれて戦場になり国中が織田派と今川 派に別れて戦うような状況が長く続いた ため国内が後輩して非常に収めにくくなっ てますしかもこの頃一光臭が入り込んでて この後一期祭りになるんだよねそうですね そういうのを総合すると駿の途中である 三川すら領有する価値は乏しいわけです からそこを名刺である松田元康に与える形 で恩を売りつつ東の抑えにした上で何か あった時には援軍として呼びつけるという 自動を掃除と援軍機能付きエアバッグとし て利用するというのが当時の織田信長視点 での清同盟ということになりますそう言う と信長さんだけ得してるみたいに見える けど当然松田元康からしても悪い話じゃ ない元康からすると今川よ元のついでに 信長さんにしかれてもおかしくないって いうか普通ならそうなるところを責められ ないどころか一応対等という名目で大国 終わりに同盟してもらえたわけだこの同盟 関係がなければ彼が今がけから独立するの は不可能だった可能性が高いだろうねま この辺りは色々あったみたいですけどね 前回もご説明した通りこの同盟は狭の戦い から1年以上後になって締結されてます 松田元康も最初から独立するつもりでは なくそもそも岡崎にたどり着いた時には切 publicしようとしていたという話も あるぐらいですしかしそこがたまたま秋代 だったのでそこを占拠しつつ今川内実に 吉本のト合戦を打身したりしていたよう ですがこの時の内実の対応がグダグダだっ たのも今川を見限る理由の1つにはなって そうですあこれはもう今川はあかん創業者 は死んじゃったし後次は無能で頼りない っていうかまともな指示こないからこれ 独立するしかないやろみたいな感じかね この辺りは北上でUFが惨敗した後の関心 に近い状態だったかもしれませんがそんな 感じになんとなく独立状態になってそこ から付近の勢力やら織田軍ともしたり色々 あってその辺の戦いや接で実力のある ところを周りに見せたというのも大きいと 思いますこいつ人してのボンボンだと思っ てたらなかなかやるやんけそれに三河の 名刺でこの辺りに顔が効くみたいだから こいつならドンバス状態の三河も統制でき そうだなみたいなのもあったかもだねそう ですねそしてこれも前回ご説明しましたが この清同盟に先立つこと半年ほど1561 年の5月にミノの斎藤立が止し ますさん結局一言もセリフなかったね シーンは諸説あるようですが拍子なのは 間違いないようですねまだ30代半ばで 斎藤道産を滅ぼして国手の座を奪った ぐらいなのでそれなりに有能でしたがこれ はミノにとっては非常に大きな板でそして 信長さんにとってはまたとない後期という ことになりますしかも後との斎藤達きは まだ14歳な上にアホの子で有名と来てる これは清洲同盟の一員にはなってただろう ねでしょうねまこの辺りについては前回も ご説明済みですのでこのくらいでそれと もう1つこれは投獄の話ですが吉が止した 4ヶ月ほど後の1561年9月ここで有名 な川中島の戦いが起こりますあこれここ だったのかそうですね正確には第4次 川中島の戦いですがちなみに川中島の戦い はこの後の1回分も含めて前後回発生して ますそんなにここで戦争やってたのかまあ 戦闘が行われていなかったり場所が川中島 ではなかったりするのも入ってるので長野 盆地付近で行われた武田と上杉の構想の 総称というのが正しそうですこれもあまり 詳しい説明は省きますがまずこの川中島と いうか長野盆地はここにあり ますああこれ見事にエゴと海の中間にある ねしかもかなり広いボチになってるその 意味ではまず関ヶ原とか静ヶ岳によく似て ますしかもその上この辺りには前光寺と 言ってものすごく大きな寺院があるんです 終わりで言うところの津島とか厚田みたい なもんかそれがこんなところにあったら そりゃもうここで戦争してくださいって 言ってるようなもんだねそういうことです なので武田と上杉が高層になった際には かなりの確率でこの付近が戦場になるわ わけですがしかしそこは武田信玄上杉剣身 という達人同士の戦いですのでむやみに 戦闘を行うようなことはなく両軍退治した まま戦闘には発展せず引き上げたり第3者 が仲介して和僕みたいになることが ほとんどでしたしかしこの第4次では 極めて大規模な戦闘が発生し武田軍は総勢 2万のうち4000が上杉軍は 1万3000のうち3000がそれぞれ 支障するという大規模戦役となりました どっちも壊滅に近い損害だねこれってあれ だよね山本カスが考えたキ戦法を上すぎ剣 が見破って八幡原にいた武田軍を吸収した 上で上杉検身本人が武田本人に突撃し たっていうこれも一昔前まではそう言われ てましたが最近では否定的な意見が多い ようですねあこれもそうなんだなんか狭も 流しのもそんな感じだし最近そういうの 多いねこの川中島も羽と同じで紅葉軍官 っていうほぼフィクションの資料が元に なってるみたいですね羽の奇襲説と同じ パターンですよああ三国支演技の内容を実 と勘違いしちゃいました的な話だねこれに 関しては身長後期みたいに信用できる資料 があるわけでもないのでかたることは言え ませんただし先ほどご説明したように両軍 大損害を出しているのは間違いないようで 特に武田軍は武田信玄の弟で副生の武田信 が戦死してます復讐が戦死ってのは大変な ことだねこれ橋で言えば秀永が死んじゃっ たようなもんでしょこれは色々な意味で そうですねこの武田のは能力人格的に非常 に優れており彼が生きていれば後の吉信 事件はなかったのではないかとも言われて ます秀長が生きてればひつ事件はなかった みたいな話だねなので詳細は分かりません が両軍大激戦になったのは間違いない でしょうただ最近ではきつ戦法みたいな かっこいい戦術はなくて両軍切りの中を 皇軍してたら待ち合わせになってわけも 分からずそのまま乱闘になったって説も ありますがウプ主的にも真相はそんな ところではないかと思いますということで この戦い詳細は不明ながら戦術的には上杉 の勝ちと言えるでしょうただし上杉軍が 攻撃目標としていた武田の拠点である海津 城は防衛できたので戦略的には武田の勝ち という評価が一般的みたいですねとはえ これで両家のパワーバランスが大きく 変わったわけでもなくその後もこの川中島 がまた戦場になってますので戦略的に勝っ たと言っても武田の得たものはさほど 大きくはないかとなのでこの戦いは実質的 には引き分けないし両者負けというのが 妥当ではないかというのがう主の見解です 個人の感想ですということで川中島で 大きな戦闘がありましたがしかしそれで 関東の状況に大きな変化はなく北条武田が 上杉を南北から挟み撃ちにするという三国 定率状態は継続されていますまた先ほどご 説明した通り三河からするが方面では今川 けがスタン状態プラス三河は松田元康が 独立からの三河一行一期というカオス状態 になっておりここがある意味巨大な干渉 地帯になっていますそしてそこへ持ってき て身の斎藤家もアホがきに大変わりしたの も先ほどご説明した通りこや西に向かう しかないでしょってことで信長さんは以降 全力で西へ領土拡張を行っていくわけです がこの身の先に何があるかと言うとこれは もちろん機ないですね正しくはその前に 大味があるのですがこれは戦略的価値と尺 の問題で今回は省略詳しくは次回以降ご 説明しますのでそれは一旦置いておいて その先には機ない特に当時の人である京都 がありますまこっちの方がどう考えても 土地の価値は高いよね当時の先進地域は機 ないとそれと今の感覚では違和感あるかも ですが中国地方とか九州も症候用が発展し ていたようですねあっちは民とか南蛮貿易 が盛んだったみたいだからねいやハバ ヨーロッパから日本まで来てるのに広島も 江戸も似たようなもんでしょって思うかも だけど瀬戸内会から東の木半島から先は海 の南緒が多いんだよね瀬戸内会と違って金 半島から東は全部むき出しの太平洋です からね熊のなやらイゴと豪とかの南緒を 超えないといけませんし定期圧は直撃し ますし沖に流されたらその先はアメリカ 大陸まで全部海です実際大黒や高田優 なんかするが沖で遭難してアラスカまで 流されてますからねひえそらまあ大阪より 先はいかんとこってなるよね瀬戸内会なら 四国が低気圧の防壁になってくれるし万一 ナパしても陸地が近いから助かる確率も 高いからね当時の投獄が遅れていた理由の 1つは間違いなくこれでがそれはともかく ではその先進地域である機内では何が 起こっていたかというと四国から進出して きた美義長良が自分で両立した足が将軍と ムキムキやってましたいやなんだよムキム キュってまあなんというかこれ以外に表現 が難しいんですよね具体的には両者が争っ たり仲直りして別勢力とも戦ったりを 繰り返していたんですそして美家の勢力 範囲はこの頃が再生期でありながらこの頃 から見よ長良は打つ状態になり始め急速に 勢力を衰退させていくことになります半島 明になってるのはそのせいかいやなんで 自分で両立した将軍と争ってんだよとか せっかく機内手に入れたのに支配できなく なって自滅とか一見すると見よ長良は無能 に見えるかもしれません無能っていうか なんか到とか基礎吉中とかと被るよね田舎 門が武力に物言わせて人占領したのはいい けど身た以上の領地とか権限をうまく扱え ず周囲の勢力に袋叩きにされて滅亡みたい なその評価はその評価で間違いないと思い ますがしかしこの後信長さんもほぼ同じ目 に合うんですよあそれは確かにそのだね そしてさらに言えば下の乱以降こういう ことは何度も繰り返されているんですこの 時に足吉典が殺されて以降足政権は崩壊 状態になり部下である有力守護を頼ら なければ将軍としての地位を保全できなく なりました実質的に中央政府を運営する 能力をなくしちゃったんだね普通ならそこ で足に変わって中央政府を運営する勢力が 出てくるものですが周囲の勢力が利行して いたためか突出した強者が現れず中堅大名 クラスが将軍を担ぎ上げようとしては別の 勢力にそれを邪魔されるまたは担ぎ上げた 将軍と喧嘩し始めるみたいな足の引っ張り 合いが機内周辺で繰り返されることになり ますそういう意味では大人の乱もこの見よ 長良と周辺勢力との争いもそしてこの後の いわゆる信長法意もも構造的には同じでは ないかとここのう主は考えていますなので この後信長さんが機内を制圧した後も国内 の人間の多くはまたなんか自由に乗った だけのおりさんが現れたぐらいにしか思っ てなかったはずですし実際信長さんも過去 に何度も現れたおりさんと同じ目に会い ます1つ違ったのは信長さんが彼らよりも 格段に有能だったということそのため周囲 の勢力との構想に勝利してそれら勢力の 大半を撃たまたは吸収士機内だけではなく 日本全土の統一を現実的なところまで持っ ていくことができましたそれって逆に言え ば信長さ以前には日本全国レベルで政治と か統治を考えてた人がいないってことかま 考えたことぐらいはどこかの誰かがしてい たかもしれませんがしかし少なくとも実行 できた人はいませんでしたおそらくは足が 吉典依頼でしょうねそしてさらに逆に言え ば機内を支配していた見よ長良も単純な 領土拡張の延長戦場でそうしていただけ ですいやまあこれも構想ぐらいはしていた かもですが少なくとも実行に移せていない のは間違いありませんそしてそういう人に とって機内というのは手に余るものだと いうことではないかとまあ時国領内の水 争いとか少領主同士の喧嘩の仲裁とかとは 別次元の話だよねそうですそしてそういう ノりのまま機内を領有するとどうなるか 当然ですが機内には足が将軍がいるわけ ですがまずは彼をどう扱うのかを決め なければいけませんまあただのおっさん じゃないからねそれなりに待遇しないと 色々な人に怒られちゃうよねそれはそう ですがではそのそれなりの待遇とは具体的 にどういうことなのかいやでかくて綺麗な 家とかに住まわせていいもの食わせてれば いいんじゃないの偉いとは言っても実験 ない人たちだし会社とかにもよくいる窓際 は役員みたいなもんでしょ適当にお立てて 祭り上げときゃいいんじゃないのま普通に 考えればそうですし大体機内に入った有力 者はそうしますそもそも将軍が機能して ないから戦国時代になってるわけですから ねあんたら無能なんだから大人しくしてて ください我々が全部やりますからってな もんですしかし当然ですが党の足将軍は それでは納得できないというか納得しては いけないんですよなぜなら足が将軍本人 からすれば自分はこの国の立法行政司法の 最高責任者だと思っているからです将軍 からすれば現在国が乱れているのは将軍の 命令に従わないふらち者がいるからでそう いった逆賊どもが全員成敗されれば世の中 は良くなるはずですまそう考えないと自分 の存在意味なくなるもんねしょうがないね しかしそう思っているのは本だけで周りの 人間からすればそんなわけはなくお前らが 無能だから戦国時代になったんだよ人の せいにすんなぐらいに思ってる人が多かっ たはずです特に実力で機内に進出した人は そう思うだろうね本当それ自分は有能だ から機内を制圧することができた無能な 将軍は有能な自分に従っとけぐらいに思う のが自然ですよねまあこれも間違いないね そして将軍の方はこう思うわけですえお前 将軍敬わないの俺の命令聞かないってそれ 無本無本ってこと無本はいけないなと お父さんは思いましたそして機内に入った 有力者と幕府の間で争いが起こるのかこ れって戦国の世の中で機内に入ったものの 宿命というかそういう状況が発生する構造 になってたってことだね元々がこれは かなり不変性の強い話で早々が検定を ないがしろにして国性を私物化してるも 全く同じ話ですねそして身長良はそれに はまってこの後信長さんも同じ状況になる のか東に行けば怪獣大戦争西に行けば将軍 の相手とかしないといけなくなるとか戦国 時代て大変だなまそれは現在でも似たよう なものというか事業拡大に伴う困難という ものですよ会社とかでも部下が10人なの と10万人なのとでは何度も必要とされる 能力も異なります部長が役員になった瞬間 無能になるとかよくあることですし事業が 拡大して部下が増えればそれまではやら なくて良かったことをやらないといけなく なったり今まで必要ない能力が必要とさ れるようになるのと同じです係り長が課長 になるとかでもそうなんですから一領が 幕府補佐になれば全く別の能力がなければ 勤まらないのも当然ですそれで失敗したの が見よ長良ってことかま彼については研究 があまり進んでないみたいですしう主も あまり詳しくはないのでこれぐらいにして おきますここで重要なのはこの時機内を 支配していた美義が幕府と一緒に半島明に なっていたという点ですそしてこれが キヨス同盟の要因の1つになっていたと いうのは前回動画でもご説明した通りです ということでキヨス同盟が正式に締結され たのが1562年の正月これが結ばれたと いうことはそれすなわち が東へは向かわないことを決めたという ことでそれはつまり逆方向である西へ 向かうということでもありますがここで さらに彼の注意を西へ向ける事件が起こり ましたこれは具体的な月日が分かりません でしたが1562年に終わり西武の織田の 武器よこれは以前の動画でも少し出てきた 信長さんの従ですが彼がここで信長さんに 反抗し彼の巨匠である犬山近辺の学年場を 強奪しますここで久々の終わり国内での 戦いになるのかそうですねなのでここで 久々に終わり国内の戦術マップに戻ります ということで自系列的には少々前後します が時は1561年の5月11日ここで斎藤 吉立が亡くなって息子の斎藤達がみのの 斎藤家投資となり ますこれは今まで何度か説明あった通りだ ねそうですねそしてこのタオが14歳の アホがきということとそのため身の攻略の チャンスゾーンであることも何度かご説明 してきましたがこれを受けた信長さんは このわずか2日後にミノを攻撃しています 早すぎこれ情報が伝わるだけで1日ぐらい かかるだろうしその後動員するだけでも また1日ぐらいはかかると思うんだけど これは斎藤義達が死にそうって情報を すでに入手してて本当に死んだらすぐ攻撃 できるように準備してたんだろうねその 可能性は高そうですがしかしこの頃の身 攻めというかそもそも信長さんに関する 記録は質量ともにいまいなんですよね身長 後期の記述もこの辺りは時期が明記されて なかったり自警列が変だったりその他の 文献などを見てもあんまり面白い情報が 見つかりませんでしたなので日付の情報が 間違ってる可能性もありますがそれは ともかくこの時信長さんは木川を超えた 守部に進出しそこでミ勢と交戦ここで斎藤 家の6宿ろと言われる日々の清実や長い 森安などを打ち取っていますが特に周辺の 地域を占領したりはせずにそのまま 引き上げていますこの森ベって大垣のすぐ 近くなんだよねってことはこの時の信長 さんは稲葉山じゃなくて大垣を攻撃しよう としてたのかなこれもよくわかりません今 ご説明した辺の戦いはウに生地も作られて いないのであまり資料が残ってないん でしょうね一応身長後期に記載はあります がその背景などについては特に説明もなく なんかここで出版していた前田都家が手柄 を上げて復帰を許されたとかそういう話が 主で戦略的な説明はほぼありませんそして この戦いの直後と思われますが同月のこと これはどちらかというと対抗機の方で有名 な話ですが信長さんは素股を経由してまた ミノ西武を攻撃しそこを迎撃してきたと 思われるミノの斎藤勢と戦闘になりこれを 撃退しますこれが世に言う重視場合戦で あるまあ言うほど世には言わないんです けどねこの戦いも浮で記事化されてません し一応身長後期には記載がありますが情報 量少ないというかこの戦いで何かが大きく 変わったという記載がないのでここでは 詳しい説明は省きます実はこの頃に小規模 な戦いが何度かあったようで身長後期にも 記載があるんですがどれも小規模なためか 全然地名度ないんですよねまた戦略的に 突起すべきこともないのでここでの説明は これぐらいにしておきますまあ野選で勝ち はしたけど大垣の守りが意外と硬いとか ミノ勢の繊維が意外と高かったとかでそれ 以上の進行は諦めたとかかねそこは資料が 見つからなかったので何ともですがここで 重要なのは信長さんが稲葉山ではなく大垣 方面に進出したということではないかと どういうことだってばよ信長さんは身の 一国という領土拡張よりも機内方面への 経路を確保したかったんじゃないですかね あこれは今まで何度も説明あった通りだね 大垣まで行けばその先は関ヶ原だからね そうですそして信長さんはこの後北大のあ 長と同盟しますしこれはこの後説明します が斎藤氏とも停戦して機内へ直行しようと してるんですよねなので身を時刻にする よりは機内への経路を確保しようとしてい た可能性が認められますだから北の稲葉山 じゃなくて西の大垣方面を攻撃したって ことねちなみに一夜城で有名なスノマです が正確な場所を知らない方多いと思うので ここでお見せしておきますGoogle マップ中央やや左上の赤いピンのところだ ねこの素股一般には身の攻略の全身基地と して作られたと思われてますがこの場所を 見るとそういう感じではありませんねこれ だけだと分かりにくいと思うから情報追加 明らかに稲葉山じゃなくて大垣に近いよね っていうか稲葉山攻略の全身基地にする ならこの辺でしょう普通う主はずっとこの 辺だと思ってましたうん稲山攻撃したい けど途中の木川邪魔でうまくいかへんせや 木川の対岸に全身基つくってそこに軍隊 上中させたろそれで当時したっぱだった 豊富秀吉が命がけで工事したって話だよね 大体ですがこの辺りの話は全部 フィクションでこの工事を秀吉がやったと いう記録はありませんしそもそも今お話し した通り稲葉山攻めのためでもなくまた 素股に白とか砦が作られたかどうかも かなり怪しいようですなんやそれ全部捜索 やんけその辺りがこの地図で一目瞭然って 話ですねなお素股に関する記述は身長後期 にもありますがそれは こちらこれは先ほどご説明した重視場活線 に関する記述です上部の赤字プラス下線で 強調している部分にある通り素股に陣地を 作ったとはありますがよく見るとその前に 西見の戸攻め込んで放火してますそして その後迎撃に出てきた身勢と戦闘になった というのは先ほどご説明した通りそして これもご説明した通りですが資料の1番下 の河川付き赤字の部分活線終了後に信長さ は素股を引き払ってますつまりここを拠点 にして稲葉山を攻撃したって話じゃないん だね一応ここに砦があってそれが後の細 長手の戦いで利用されたという記録はある そうですが稲葉山攻撃で素股が利用された という記録はないようですちなみにこの時 戦闘があった重視場はこの辺りですこの1 関係を見てもこの時の信長さんの攻撃対象 は山じゃないねまあ大きでしょうねなので この辺りの情報も当時の信長さんが身ので はなく機内方面への寝室を狙っていたと いう裏付けになるのではないかとこういう 位置関係とかを確認するのって本当大事な んやなって本当それウプ主的には今回1番 衝撃的だったので少々長くなりましたが ここでご紹介しておきましたということで この時点で信長さんの最優先攻撃目標は 斎藤家ではなかった可能性がありますが しかしここで斎藤家の優先順位が少しずつ 上がり始めますこれも説明が前後しました が先ほど話に出た織田のよの離反 ですこの人終わり統一戦の動画で一瞬出て きた人だねう主ももうなんで出したのか 忘れてたぐらい一瞬だけどこの人は信長 さんの父親である信秀さんの弟の息子 つまりいですね岩倉城の戦いで大の神を 信長さんが攻撃した時に協力してくれて その後なんとなく信長さんの部下っぽい 感じになってたんですがその後両地分配を 巡って信長さんと険悪になっておりそれが このタイミングで斎藤家と手を組んで信長 さんを攻撃犬山近隣の学年などを強奪し ましたいやこのタイミングってタイミング 的には最悪じゃないのこれ具体的な日付は 分かってないみたいだけど前回説明あった 清洲同盟成立がこの1562年の正月だ からま普通に考えたらその後だよね明らか に信長さんが精進しようとしててその準備 が終わった直後にそれもアホが投手になっ た直後の斎藤家と手を組んで信長さ攻撃 って時期的にはこれ以上ないぐらい最悪 でしょこれやるなら2年前のお様頃でしょ どう考えてもま彼がどの程度当時の情勢を 把握していたかは分かりませんが角当時者 目線というのはそういうものです第3者 目線だと今ご説明した通り最悪の タイミングですがしかし本人的にはこの 直前とかに何か許せないこととかがあった んじゃないですかね元々土地の配分を巡っ て揉めていたようですし前々から不満を 蓄積していたところにちょうど斎藤家から 同盟の打身があってそれが決定打になった みたいなま世の中全体の動きよりは今日 ちょっと会社とか家で嫌なことあったとか そうことで物事決める人は今でも多いから ねそれが彼にとってはこのタイミングだっ たってことかまこれもう主の勝手な推測 ですしかし当然ですがこのタイミングで より具体的に言えば信長さんが終わりを 統一して東の徳川家康と同盟し万全で精進 する状況を整えた上で投手がなくなって アホが継承したばかりの斎藤家と終わり 北部の一上手が組んだところで勝ち目など ありませんそして当然ですが信長さ3には 全力で攻撃されますどれぐらい全力だった かというと翌年の1563年に信長さんは 巨匠を清から小山に移転してい [音楽] ますこれはあかんこの小山移転の理由には 諸説あって当時の清洲は水害が多くて困っ ていたのが理由という説もあります実際 この頃のノビ平野って水害が多かったんだ よね大阪や江戸と同じで現在大都市が発達 している透明班は全ていわゆる中石平野な んですよね元々海だったのが洪水で運ばれ てきた土砂でできた平屋なので治水技術が 進んでいなかった当時は水害も多かった ようです江戸時代に名古屋近辺が東海道 53次から外された理由の1つもこれと いう説がありますがまあ常識的に考えれば 犬山という身の方面を攻撃するため でしょうね気同盟で三川方面に気を使う 必要もなくなりましたしそんな時に空気 読まずに無本起こすアホには教育が必要 ですこれは大変なことやと思うよという ことでこれは織田信と斎藤義達の身体は 極まったかと思われましたがこの辺りから 信長さんに関する情報が減りますまあ信長 さんも遊んでいたわけじゃなくて内生とか 外交とか色々やってたんだろうけどね でしょうね頼りがないのは無事の知らせ って言いますが味方を変えればこの織田の 武器よ以外で終わり国内で無本とか大規模 氾濫は起こってないわけですからねそして これは次回後説明することになりますが 信長さんは機内進出に向けて色々と外交的 工夫も行ってますそういえば妹のお一の方 をあいなまさに嫁がせたりしてるんだよね そうですねこの実現時期についてはかなり 諸説あってこの1562年頃には成立して いたとするもの逆に遅いものでは1568 年とするものもあってなのでウキの長の 記事では1560年代と表記されています がいずれにしてもそういう外交工作がこの 頃行われていた可能性は非常に高い でしょうそんな中で次の身攻めとして記録 があるのはこの翌年の1563年4月この 時は稲葉山から4km程度の新可能という 場所で小田家と斎藤家で戦闘が行われこの 時は小田勢が敗北していますウキによると 小田勢が5700最勢が3500とあり この頃から相手よりも多くの兵力を揃えて 攻撃する信長さんの本領が発揮始めるの ですがこの時は斎藤型にいた竹中反米が副 閉作を用いて織田勢を撃退したと意には ありますねこれは場所的に見て稲葉山城を 攻撃しようとしたんだろうねでもその割に はあっさりと帰っちゃったんだねこの戦い も割と謎というか情報が少なくてなんと なく小田勢が撃退されましたっていうだけ でそれほど大きな損害が出たわけでもない のに小田勢がなんとなく撤退しています この辺りの記録とかを調べているとここ までの信長さんと違って地味な戦いが多い ような印象が非常に強くそしてそのせいで 派手な戦いが少なくそしてさらにそれが 歴史的な記録の少なさとか人気のなさに つがっているのではないかとまあ今までの 信長さんだったらこんなもっさりもっさり やってないで自分で敵勝ぶっ殺したり敵の 兵隊どやしつけたり敵本人教習したりして 一気に勝負決めてたもんね視聴者様の中で も今回の信長さんの行動に違和感を覚えた 方はいるのではないかと思いますがしかし それこそがこの頃の信長さんの懸命さの 現れではないかとああなるほどこれは確か にそうだねではここで導師枠よく戦うもの の勝や致命なく有効なしもうお分かりです ねむしろこれが信長さん本来の戦いなん ですよ事前の準備内政外交で敵よりも多く の兵を集め有利な状況を作った上で戦いを 行うそしてこの有利な状況が消失すれば 無理はせずに撤退するそうして自軍を保全 しておけば後期は必ず訪れますっていうか その後期をまた後で作ってそこでもう1回 戦えばいいんです後でもっと有利な状況が できるかもしれないからね例えば9割 勝てるが残りの1割は再起不能になる みたいなのを避けるようになったという ことですこれ9割勝てる2目がくらんで 勝負に出る人多いと思うけど冷静に考え たら1割の確率で再起不になるってことだ からね戦いがその1回だけで終わるなら まあありかもだけど人生ってのは戦いの 連続だからね10回戦わないといけない人 がそんなことやってたら確率的にほぼ再起 不能になるよここまでの信長さんは状況的 に特に自分が弱小だったためそういった 戦いを強いられてきましたがしかしもう そんなことしなくてもいいんですそれより は勝率は3割だけど最不能になる確率は 1%以下みたいな戦い方にシフトしたって ことかそれを4回やればほぼ脳リスクで 確実に勝てますからね確率的に考えれば こっちの方が良いに決まってるでしょ しかし一方でそういったハリスクハイ リターンな勝負で買ってきた人はもっと 有利な状況で戦えるようになっても同じ ようなハイリスクハイリターンを繰り返す 傾向があります自分がそれで成功したんだ からそのやり方を繰り返すてのはまあ当然 だもんねそして多くの成功者がそのために 再起不能になったわけですがここで彼らと 同じ鉄を踏まず方針転換できたのは本当に 懸命だと思います過去の成功体験を捨て るってのは本当に難しいからねしかもそれ でいて天王寺砦でみたいに他に選択肢が ないと判断したらどんな危険なことでも やるもんねこういう切り替えって本当に 難しいんだけど人間というのはある極端 から別の極端に行くことが多いですからね そうならずに状況に応じて戦い方を 切り替えられるこれも信長さんの長所だと 思いますそしてそうやって戦い方を 切り替えたからこの頃の信長さんはすぐに 撤退してたってことか別に1回の戦いで 決着つつける必要は全くないもんね今まで の信長さんはかなり無茶してたけどそれは 終わりの守護台の過労っていう弱小でそう いう無茶をする以外方法がなかったからで も今は終わりも統一して同盟国もできて 選択肢の幅が広がった自分で戦う場所と 方法を選べるようになったから自分が有利 なタイミングで有効な方法を厳選して戦う ようになったそれで当が外れたりその時々 で設定した目標を達成したら深追いせずに 撤退してまた勝てそうな状況が出来上がっ たらその時だけ戦うっていうのを地味に 繰り返してたんだねおそらくそういうこと ではないかとなのでこの頃信長さんが身の 攻略に時間をかけていたり地味な戦いが 多いのは彼が急に戦争下手になったとか そういうことではないでしょうハイリスク ハイリターンを避けてローリスクロー リターンに方針転換した結果で四国当然 っってことね個人の感想です特にこの頃は 上陸のための工作に相当力を入れていた ようでこれは次回後説明しますがその おかげでミノを征服した後の信長さんは わずか1年で 上落合に80人とかでただ京都に行ったと かそういうのではなく軍隊を引き足が将軍 を報じて京都を制圧していますこれもさも 当然のことのように語られることが多いの ですがそれはそのための外交交渉をこの 時期に前もって行っていたからこそのこと ですなのでこの頃の信長さんも終わり統一 編またはオハ様の戦いの頃と同様または それ以上のパフォーマンスを発揮していた んですがしかしどうしてもドラマ的には 地味で面白みにかけるんですよねまこれは しゃあないそして今回動画ももう30分 超えてますのでここから150067年8 月までの出来事はダイジェストでお届けし ます身の攻略戦に関する1考察まだまだ 続き ますということでこの新可能の戦いの後 しばらくの間大規模な戦闘はありません でしたまあ小規模な戦いは何回かあった みたいなんだけど戦略的には重要でないの でここでは省略だよそしてこの次に大きな 事件があったのはここから約2年ほど後の 1565年5月ここ終わりやみでの出来事 ではなくなんと京都にいる現役の将軍足が よしてるが美義氏に殺害されます無茶し よんな機内が将軍とそれを担いだ美義氏と の争いで色々むきていたお話は先ほどし ましたがま簡単に言うとそれがこじれた末 の3じですねこの状況を作った美義長良は 前年8月にすでに亡くなっておりそれで 両者のパワーバランスが崩れたのも要因の 1つでしょうね将軍側が美義氏を無視して 独自に動き始めたから美義氏が焦ってやっ ちゃったんだろうねこれが直接身の方面の 状況を変えることはありませんでしたが しかし時期将軍候補の1人足が吉明が信長 さんに協力を要請したこともあり結果から 見ればこれが信長さんの落を確定したと 言ってもいいかもしれませんしかしそれは もう少し先の話としてその前この事件の2 ヶ月後犬山城の織田の武器を撃破しますは なんでいきなり これも例によって記録が少ないのですが3 A出版の信長戦機ではにがひが主導で跳躍 を進めていたようですねこれ明記されて ないので微妙ですが身長後期にもそれ らしい記載がありますさすがは何でも こなす米五ザ具体的な戦闘については記録 が見つけられませんでしたがのきの過労の 何人かがすでに買収されていたためかほぼ 無血会場に近い状態だったようですねのき かわいそうしかし彼も命は助けられたのか それともうまく逃げを押せたのかこれも 詳細はよく分かりませんがその後海の武田 氏の元へ逃れそこで犬山裁と名乗ったそう ですなおその後どうなったかはよくわから ない模様ということでこれで終わり国内も 完全というか再統一されこれで精神を阻害 する要因がまた除外されましたじゃあこれ でいよいよ本格的にミノを攻撃できるねが 増えるよやったねたえ ちゃんと言いたいところですが実はこの時 信長さんはこれと逆のことをしますウに よると信長さんはこの年の12月に足が 吉明の将軍就任を支援することそしてその ために自身が上陸することを約束したと ありますそしてその更に半年ほど後の 1566年7月この足吉明の中海で信長 さんと斎藤達の間で輪が成立し ますここで和したのかそういえばさっき 信長さんはのにはそんなに興味ないって話 あったけどそれがこのことなんだねまこの 辺りの話は資料が少ない上に色々と議論さ れているので間違っている可能性もあり ですがこれを受けた信長さんは翌8月に ウキウキで上陸を開始し ます本当にウキウキで草でもこの先には 大味があるでしょミノは素通りできるとし てそっちはどうするのそれはこの上陸が ミノ国境で終わったので分かりませんが 先ほどご説明した北大のあ長とはすでに 河和済みそして南大の六角首とか機内の 美義勢は実力で排除するつもりだったと 思われますま実際それでうまくいってるし 多少はねでも信長さんこの時上陸できて ないよねそれにさっきこの時の上陸は身の 国境で終わるって言ってたけどなんでこれ は先ほどご説明した通り諸説あるのとここ で起こったことがかなりあれなので間違っ ている可能性もありますが信長戦機による とここで木川を渡る小田勢を停戦した ばかりの斎藤タオが突然攻撃したから ですこれが4に言う高野島の戦いである これは ひどいさすがにこれには信長さんもたまら ずちょうどクソ側が洪水だったこともあっ て多数の死者を出して配送したようです これはしゃあないっていう火災到達置きも ひどいことするねまあ何度もご説明する 通りこの辺りは諸説ありますがしかしこの 通りであれば本当に斎藤達はアホですこの 時は将軍にはなっていませんが一応足が一 問の人間の仲介で停戦してその足が吉明を 助けるために上陸する織田軍を締結した ばかりの停戦を破って横から攻撃したた わけですからこれが本当ならひどい話です しかも織田軍にも大した損害は与えられて ませんし信長さんにも逃げられてます戦国 時代の話だし停戦を破るのってのは珍しく ない話だけどしかし次の月にいきなり しかも攻撃は大して効果なくて信長さんは 逃がしてるこれは家臣から馬鹿にされる でしょうねまあ元々馬鹿にはされていた みたいですけどそして当然信長さんは激を よそういうことですこうなると信長さんと して身のと和木するという選択はありえ ませんそして和木ができないなら爆ない わけですがこの時も怒り狂ってイ山城に 押し寄せるようなことはしていませ んこの辺もさすがだねしかしこれは先ほど もご説明した通り信長さんが何もしなかっ たわけではなく身の攻めはすでに着手され 確実に進行していますその手段が目に見え ない類いのものだったってだけの話だね そしてこの高の島から約1年後の1567 年8月1日その時は来ましたこれは身長 後期に詳しい記載がありますのでそちらを ご紹介しましょう まずは1番上の赤字の部分先ほどご説明の 通り8月1日にいわゆる美の3人衆稲葉 一鉄う北前安藤森成ですね彼らは一般的な 知名度もあるのでご存知の方も多い でしょうが彼らが全員揃って信長3に基準 を申し入れました過労閣が3人も一度に 願ったのかこれもう斎藤家もおしまいだね そういうことですねそしてこれこの資料の 文面だけを見れば彼らがいきなり現れた みたいな印象ありますがもちろんそんな わけはなく事前に信長さんが工作していた 結果でしょうそれでその結果がこれでこれ で身攻めの準備完了ってことだねそして これを受けて信長さんは軍を率いて稲葉山 に急行例によって城下町に放火してから 稲葉山城を厳重に放映していますそして これを見た斎藤達はもはやなすべもなく2 週間後の8月15日に城を捨てて伊勢の 長嶋へ逃げ去ったというのが株の赤字の 部分ですねということで稲葉山の攻略は大 規模な戦闘もなく終了信長さんはほぼ無傷 で身を領有することになりましたこれここ には書いてない詳しく説明されることも ないけどこれだけで信長さんは身の一刻を 全部領有したんだよね身のってものすごく 広いのに稲葉山をさえただけで全部領有 できたのこれはミノ3人衆が実質的にミノ の行政権を持っていたのかそれか際到達置 が国内で指示をなくしておりその反動とし て新しい領主である信長さんが身の告中で 歓迎されたかあるいはその両方でしょうね まそのあたりはともかくこれで織田信長は 元々領有していた終わり一刻に身の1刻を 加え複数国を領有する大大名となりました まあとか法とかはもっと大きいんだけどね まそれはそうですがしかしそれらと比較し てもそう大きくは見劣りしないぐらいの 勢力にはなれましたそしてここから信長さ の領土拡張そして日本の歴史は急激に加速 することになりますいよいよ上陸ができる 段階になったんだねそういうことです そしてスライドでも表示している通り稲葉 山をギフト解消身長後期に記載はありませ んがここから天下フという印象を自身が 発行する文書に使い始めますそして実際 ここから短期間で織田信長が室町幕府の 将軍を包帯して勢力を拡大します織田信長 の波動はこれより始まる俺たちの戦いは これからだというところで宵はここまでに いしとございます次回織田信長に関する1 考察 天それで [音楽] はぶっ殺してやるってセリフは終わって から言うもんだぜ俺たちギャングの世界で はな

織田信長に関する一考察。
第8回は美濃攻略が行われる1562~1567年まで。
半分ぐらいは川中島とか三好長慶とかの話です。
やっぱり善く戦う者は智名も勇功もないんやなって。

■前回(清須同盟編)

■配役表
————————-
織田信長  :霊夢
斎藤龍興  :てゐ
織田信清  :響子

斎藤義龍  :輝夜
松平元康  :橙
上杉政虎  :寅丸
武田信玄  :神奈子
北条氏康  :幽香
今川氏真  :屠自古

三好長慶  :妹紅
足利義輝  :衣玖
————————-

■参考文献(アマゾン・インフルエンサープログラム)
信長公記
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戦況図解 信長戦記 サンエイ新書 Kindle版
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虚ろなる光の封土/英雄伝説 空の軌跡SC オリジナルサウンドトラック / Copyright © Nihon Falcom Corporation

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#歴史
#織田信長

28 Comments

  1. 墨俣城の位置は微妙(^3^)╱天正14年の氾濫以前の木曽川の位置を考えるともっと稲葉山城に近く大垣とも近い木曽川長良川合流地点であったと思いますよ😊 現在の墨俣城資料館は実際の位置とは無関係に建てられてますしね🏯

  2. 大垣は美濃の要地でしょうね。父の信秀も美濃を攻めた時、大垣をせめましたからね。だから美濃攻略を諦めたのではないと思いますが。

  3. 祖先が加納城にいたらしいので色々調べたのですが対織田の最前線なのにあまり記述が無いんですよね。。。

  4. 8:15 甲陽軍鑑は山本勘助の実在が認められ、脚色あるにせよ最近は使える部分も多いとされてるかと。また、啄木鳥の戦法はともかくとして、偶然の遭遇戦というのは違うように思います。北条と武田の挟撃・ライヘンバッハプランに業を煮やした上杉政虎(謙信)が、自分を囮に危険な踏み込みをして隙を見せ、武田軍を決戦に誘導した結果として生起した激戦だったのでは。上杉謙信は、村上義清から学んで兵種毎に編成した旗本突撃隊を持っていて、本陣斬り込みに自信があったという説もあるようですし。

  5. 一夜城は大垣と岐阜城の中間点くらいにあって連携を断ち切る感じで配置されてるんよな
    大垣狙うだけなら深入りし過ぎでは?というほど奥なので違和感を感じる人もいるかもしれない
    ただ大垣は岐阜でも岐阜市に経済的にな匹敵もしくは重要度で言えば格上でありますので
    現在においても岐阜市内より大垣市内のほうが発展してると感じる人は多いであろう
    桃鉄でも岐阜市を差し置いて大垣が採用されてたりする
    一夜城の位置に城を作られた時点で大垣と岐阜は分担されており
    経済的には半分を実質的に失ったとみなされるので見放されても仕方ないと思われる

  6. 室町将軍は近畿の商業資本と結託していたようでいて、既に商業資本に超されて天下の社会構造から取り残されていた…のかも知れないなと思いました
    信長だけの強みとは、当時のグローバル商業資本と協力しただけではなく彼らそのものに近いくらい、その内実を理解していたことなかも知れない、この時期はそれを具体化させていく、一番熱い時間だったのかもですね。
    最終的には、急速なグローバリズムではなく圧倒的な中央と地域封建国家の連合体と言う徳川政権で太平を迎えたという辺り、今の日本、もしくは世界が学ぶところがあるのではと思います。
    あちらでショーグンが流行ってると言うのどれくらい事実なのか、あちらの友人に聞いてるんですがあまりドラマとかに興味がない人で中々わからないみたいです。

  7. 墨俣一夜城が想像よりもはるかに西よりだったのは衝撃だわ
    後世の作り話がどれほど罪深い行為かがよく分かるね

  8. 時代も場所も武器の射程距離も違うけど、
    今のウクライナ戦争で侵攻側のロシアが2年経ってもドンバス地方を占領出来ないグダグダ振りをみると
    僅か1年で近江を攻略して京都を占領した織田信長の有能ぶりがよく分かる。

  9. 足利将軍家に力が無い→将軍の代わりに戦ってくれる有力な大名を部下にするぞ→でも有力な大名が反抗してきたら怖いから周辺勢力と潰し合わせて精力削ぐぞ
    これをずーっとやり続けて武家の棟梁が己が権益確保のために世を乱し続けたのが戦国時代
    だから信長が担いだ義昭の異常行動(徹底した反信長)は足利家的には当然の行為、畿内で一番強い大名家を潰すのが足利将軍家の仕事だから
    義輝は三好を叩きながら六角を頼る、でも六角が強すぎると思ったら六角を叩き始める

  10. 墨俣の位置が稲葉山城攻めじゃないってのはちょっとどうかなあ
    水運的には長良川で直通できる位置だし、大垣城との連絡を分断しつつにらみを利かせられそうな位置でもあり、稲葉山城攻めだったとしてもだいぶ重要な位置に見える

  11. 信長さんの凄いところは、時間が経つごとに新しい戦略を手に入れる、じゃなく、おそらく色々な戦略を最初から持っていて、そのタイミングごとに選んでいるってところなのよね。
    え、本能寺の変? あれは信長さんが戦況を選択できる状況にしていなかったのが敗因。

  12. 美濃と尾張の2ヶ国を制覇しただけで、信長が天下布武を唱えたのは凄いって言う人がいるけど、実は今とかなり違って美濃と尾張って日本でも有数の穀倉地帯だったんだよね。逆に今の米どころの東北や北海道なんて当時は全然だった
    今ではほとんどが水稲だけど、当時はまだまだ陸稲や稲以外の雑穀も多かった中、美濃と尾張の濃尾平野は木曽三川のおかげで、広く耕作に適した地形が多く、水も引っ張ってこれたから、陸稲よりも手がかからず収穫も多くて、他の領地よりも石高が多かった。
    更には、今と違い商業ってのは神社と密接に関わっていて、神社の周りに市を出すのが通例だったけど、尾張には日本でも有数の神社である熱田神宮があったから、実際の面積以上に商業と農業が発達してた。
    美濃攻略以降、加速度的に織田氏が発展していくのは、必然だったとも言える

  13. 元は同等かそれ以上の、しかも国主クラスの大名家を単独で征服するのは普通なら一生かけるか、もしくは複数世代かかるような仕事
    それを10年と掛からず、ある程度若いうちに成し遂げたのが異色であったと思います
    こうして周辺から頭一つぬけた存在になってしまえば、あとは戦力優位で・・・とそんな単純ではないけれど

  14. 木曽川とかの流れは今と同じだったのだろうか?木曽川のwikiによると当時は墨俣で長良川と合流していたとあります。
    地図を見ると大垣と稲葉山の分断のための拠点かなあとか思ったりします。

  15. 墨俣は位置的に西美濃への連結を防ぐ楔か、上洛の経路確保のための位置に見えますよねえ、直接の戦というよりは調略を安全にするためっぽい感じ
    まあその時代そこくらいしか水害受けない砦作れなかった、って可能性もあるっぽいし、川の流れの変化で地名も変わるからよく分からない部分もありそう
    秀吉の築城話はこの後突然西美濃の纏め役の一人にのし上がってきたのを、何か理由つけないとって感じで作られた臭いんですよね
    ついでに三人衆の調略とかも秀吉の手柄ってすれば、不自然さ無くのし上がらせれる、って事なんだろうなと
    実際は秀吉って中村の有力豪農の息子なので、普通に出仕して普通に仕事して普通に功績積んでいった可能性が高いみたいですが

  16. 斎藤さんちの、阿保?の龍興君、稲葉山城を叩き出されてからは、しぶとくは生きてた様だけど、その後は、不明なんだ、

  17. 近畿征服を決めての義龍の病死、西上作戦中の信玄および謙信の病死。どれも強敵がタイミングよく病死してる。本当に偶然だったのだろうか?

  18. 播磨にある母ちゃんの実家に帰ったらお寺の看板に嘉吉の乱のことが書いてあってそこで嘉吉の乱を初めて知りました。

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