ああ、何という綺麗な心なのか 世界の三船の 無法松の一生  東宝映画 1958年

あなんという綺麗な心なのか三船の無法松 の一生1958年東方映画無法松の一生の 無法という意味はどうしようもなく暴力的 な人物と解釈できると思いますただしこれ は話の一面に過ぎません喧嘩早く曲がった ことが大嫌いで不器用で常に熱い人力者 引きの物語ですということでこの映画は 荒くれ者の物語なのに涙が止まらないほど 感動する映画です原作者は岩下春作で映画 は4度作られていますが最も有名なのは バド妻三郎主演の1943年版と三船俊郎 主演の1958年版ですどちらの映画も 100本は伊満作監督は稲垣浩で1作目は 白黒2作目はカラーでした今回紹介する 世界の三船が出演した映画は1958年に 作られた作品です1958年のベネチア国 最映画祭でグランプリを受賞するほどの 傑作となりました1897年明治新から 29年後の話ですここは九州の小倉です 人力者夫の富島松五郎三船と史郎は暴力的 なことで有名だったある日彼は入り口で 芝居を見せてくれないかと聞いてみます ちょっと覗いてみるつもりが断られ腹を 立てて力者仲間の熊吉田中春夫とお金を 払って芝居小屋に行き酒を飲みニンニを 炭火で焼きましたそしてニンニの匂いを 遠くまで届かせるために内輪で仰ぎます 完全に嫌がらせです小屋の人々は匂いが きついと松五郎に苦情を言いすぐに喧嘩が 始まった劇場は混沌となり集まった観客を 巻き込んだ仲裁に現れたのは地元を仕切る 人形の男勇気十竜です関係のない一般人に 迷惑をかけたつなをどうするつもりですか 勇気は静かに言った全く気づきませんでし た松五郎の顔が申し訳ないという気持ちを 表していますすみません謝ります松五郎は 素直にその場に土座した松五郎は暴力的な 男だが勇気は松五郎の誠実な人柄に官命を 受けるロシア戦争における日本代勝利の旗 が掲げられた秋祭りの夜のことだったある 日松五郎は木から落ちて泣いている少年を 見かけましたおい坊や泣かないで少年は頭 と足に怪我をしている松五郎は少年を家 まで送ったそこは陸軍大尉吉岡孝太郎の家 だった美しい妻の良子高嶺秀子は息子の年 を見て医者に連れて行ってほしいと松五郎 に頼んだ松五郎と良子は年男の世話をする 介護の大下として両子が松五郎に金を 渡そうとすると松五郎はだめだ商売じゃ ないと言い松五郎は慌てて立ち去ったあ あの松五郎これを両子から聞いた吉岡 孝太郎はあの無法松わははと大笑いした かつて閣下を乗せた無法松はどこへ行くの か知っているのかと問われ俺はお前がどこ へ行くのか知っているよと答えあかも友達 と話しているかのような態度を取ったのは 吉岡の戦友の間では知られた話となった 吉岡孝太郎は松五郎を自宅に招き大歓迎し た松五郎は酔ってお訳を歌う軍人であれば 間違いなく少々の地位に達するだろうと 吉岡は松五郎に言うだめだめ軍人なら俺は 大将まで上がるだろうと松五郎は答え2人 で大笑いした私はこの映画を見てもし 松五郎に良き指導者がいたら少々どころか 総理大臣にもなれるほどの人格者になた だろうと思いましたから雨の中の軍事訓練 が原因か吉岡孝太郎は隊長が悪化し救世し た良子は墓の前で言った私が心配している のは年男は肉体的にも精神的にも父親ほど 強くないということです大丈夫大丈夫と 松五郎は言う彼はまだ小さな子供です時が 来たらこの子を訓練してください良子は 松五郎にお願いしたこうして松五郎はけに 時々出入りするようになった吉岡男も次第 に松五郎に思い入れを持つようになった 年男はいつも泣いていて松五郎は男はお前 みたいに泣くなと強く言われたおじさんは 泣いたことはないの年が松五郎に尋ねると 松五郎はこう答えたわしハボのように泣く 子じゃなかったぞでも小さい頃1度だけ 泣いたことがあるな松五郎は年に昔の話を した朝からママ母にしかられていた8歳の 松五郎は16km離れた山で働いている父 に会に1人で歩いた途中お茶屋の客上田吉 次郎にうどんを進められたので気を 取り戻し歩き続けるうちに暗くなってきた 山の中の道は何か変なものが現れそうな 不気味な雰囲気がありましたついに父親の いる小屋の明りが見えてきた松五郎は小屋 に入るとすぐに父親小杉吉に抱きつき 泣き崩れた今日は小倉小学校の秋の運動会 松五郎も吉岡親子と共に運動会を感染して いた松五郎は500mレースに出場した 人力者で鍛えた足腰は強い年男の大正円に 答え松五郎は1位でゴールした良子は敏男 の幸せそうな表情が微笑ましいと思った 内気な性格だった敏男は小学校の劇で壇上 に立って歌うほど活発な子になったそんな 時両子の兄中村信から良子の再婚の話が やってくる良子は定長に断ったがたまたま 庭に鯉のぼりの柱を立てに来ていた松五郎 がそれを聞き複雑な心境になったそれは 松五郎がほぼ毎日吉をかけに出入りして いるうちに両子への思いが募ってきていた からであった時は流れ1914年小倉中 学校4年生の年を笠原健二は同級生に誘わ れ他校の生徒と喧嘩をすることになる良子 は心配して松五郎のとへ走ったなるほど ようやく戦える青年になってきたな頭に 白いものが見え始めた松五郎は密かに喜ん でいた大丈夫大丈夫彼を傷つけたりはさせ ません松五郎は現場に駆けつける現場では すでに戦いが始まっていた松五郎は木の影 から眺めていたが年男が投げ飛ばされると 思わず年男は立ち去ってしまうあおじさん 助けてと年男に言われこれが俺の戦い方だ と言い松五郎は喧嘩に飛び込みを暴れする 年男は高校進学のためこらを離れた電車を 見送った松五郎に両子は得雄寂しくなって しまいましたと昔は可愛い子には旅をさ せよなどと良いことを言っていましたがと 松五郎は得雄が最も寂しがっているのは 松五郎であるそれはトがいなくなって しまった以上吉をかけに行く言い訳は なくなるからであるこの気持ちはよく わかりますよね松五郎は木から落ちて怪我 をした少年を救って以来吉岡かけにほぼ 毎日出入りするようになり親子以上の接し 方をしてきて将来の年男に大いに期待を 寄せてずっと見守ってきたのですから娘が 嫁いで家に帰っても誰もいなくなって しまった心境とまるっきり同じで胸に とっかりと穴が開いたような寂しさを 松五郎は味わい始めていたのでした時代 背景も大いに手伝っていて無学で暴れ者で 何の教養も持ち合わせていないただの車 引きであったのに怪我をした少年を助けて からは自分が果たせなかった言葉にはいい 表せない夢を年男に託したいという気持ち があったからでしょう年男も父と異なって 自由本法でスケールのでかい松五郎がそば にいるだけで将来への希望が着実に持てた ことでしょうその時代において年男は誰 よりも良い環境で育てられたと言っても 過言ではないと思いますそれだけ周りに どんな人がいるのかによって子供の人生や 夢が決まっていくことは否定できないから ですその良い例として毛母参戦の教えで 有名な文子の母は子供の文子を立派な人間 に育てるために環境が最も大切だからと 言って何度も撤去したそうなのです何かを 学ぶにはその領域の達人に学ぶことが最も 近道でありその達人の持っている理論や 技術を身につつけることができるからです 剣術では野牛神影流という技を持つ野牛胸 のりは徳川幕府の剣術の至難薬となり徳川 家の剣術の技のレベルを大きく伸ばした そうなのですがそれは剣術だけでなく どんな道にも言えることですそのような 意味から何か個人まりしている年は無法末 のような豪快でそこが知れない人が最も 至難役としてふさわしかったに違いないの です年男は父を早く失いましたが最も適切 な師匠に巡り合えたと私は確信しています 1917年の夏休み敏男は小倉で祇太鼓を 聞きたいという先生土屋吉男を連れ帰った 会場にはかき氷やわかしなどを販売する店 が並び多くの人が詰けた未亡人の息子と 師匠と共に祇園祭りを見に来た松五郎は誰 かが祇園太鼓を叩いているのを見てこれは 本当の叩き方ではないと言いながらも ちょっと真似してみようと言いました彼は ヤグの舞台に上がります松五郎は太鼓を 叩き徐々に機嫌が良くなるこれは祇太鼓の 流れ打ちだそしてこれが暴れ打ち松五郎は 八巻をして素肌のまま猛然と町を打ち続け たそこには年男への愛情と良子への憧れが 入り混じった複雑な感情があった人々は 松五郎の太鼓に魅了されました太鼓の叩き 方は時代と共に変化しネロやテクニックも 重要であることが分かりましたがこれには 驚くべきエピソードがあったのです三船と 史郎にとってこのシーンは最も興奮し爽快 なシーンだが三船のバチさきが先に録音し た林と少しでも一致していないと嘘がバレ てしまうこのため三船さんは約10日間 歌舞伎を林の田中電磁さんから義法を本格 的に学び華やぎ面増さからは曲芸も教わっ たということである本番ではプロ顔負けの 歌を披露し500人のエキストラから本気 の拍手をもらい天下の三船は響たい子叩き の修行をしていたそうなのですセリフや 仕草指揮する声もそうですが世界的有名人 になると誰も見ていないところでの リハーサルも尋常ではないのですね稲垣浩 監督はこの映画で車輪が回り続ける松五郎 の人力者をクローズアップして時の流れを 表現していますこれは相馬島と同じ イメージで松五郎が日々人力者を引き年男 が大人になり松五郎の爆発が増えていくと いう時間の経過糸車の美しさと時代の流れ の表現には真に美しいものがありました 三船の松五郎はカラーでであったため人力 者にまばゆい光を当てその光を反射させる 撮影手法に無限の芸術の広がりを感じまし たそれから3年というような字幕で時の 流れを表現する方法が1番簡単で気を使う こともないのですが稲垣監督は時の流れを 人力者の車輪の回転として監修にアピール したのですこれこそ真の芸術の美しさで あると簡単しました花火が小倉の空を逃し た夜松五郎は吉をかけにやってきた良子は 縁側で松五郎の相手をするが松五郎の様子 がおかしいことに気づく松五郎は泣きそう な顔をしていた松五郎は今に飾られた 孝太郎の写真の前に膝まづいたそれから彼 は良子に向かってそれを吐き出すように 言いました奥様これからは寂しくなります ね何が起こっているの良子には分かりませ んまたこの家に来ることができるのになぜ そんなことを言うのですか奥さん俺の心は 汚い申し訳ない松五郎は両子の顔も見ずに ふぶかと頭を下げて立ち去った皆さんこの 俺の心は汚いという意味は想像できると 思いますこの映画における三船の言葉は 汚いと言っていますが私に言わせれば反対 に美しいと思います男性が女性を女性が 男性を恋したうのは自然なのですがその 気持ちをどう説明すれば良いのか分から ない不器用で誠実な無法末は俺の心は汚い と言って自分の思いを表現したのですね この映画では良子が無法末の思いをついに 理解できなかったように表現されています がここは少し不自然な気がしました100 本家の表現1つで決まってしまうのですが 良子がこの場面で無法末の気持ちが分かっ て涙を流すような仕草が1番適切であり それが無法末の心を慰めたかもしれないの ですそしてその日以来松五郎は良子の前に 現れなかったこの時の松五郎の失望は三船 の猫背に現れており白髪も年齢を感じさせ て実に哀れに見えた三船は殺そと大暴れ する正義の味方という役が多かっただけに 背中を丸めて沈黙する演技は涙を誘うもの でしたちなみにこの俺の心は汚いという セリフは山田幼児特の男は辛いよでもトラ さんが他人の妻に恋をした時に引用されて いる松五郎は以前よりも酒を飲むように なった良子への憧れは募るばかりだった 久しぶりに飲み屋で熊吉に会ったら勇気組 の反転を着ており血闘していて子供が2人 いると言っていました松五郎は毎日酒を 飲んで過ごしました彼の父親もアルコール による心臓発作で亡くなったので自分にも 同じことが起こるのではないかと心配し ながらそして雪の日酒に寄った松五郎が とっくりをぶら下げて雪道をよろめき ながら歩きますかつて年男が通っていた小 学校の皇帝で松五郎は倒れたまま動か なかった両子の顔年男の顔人力者夏祭り 喧嘩祇太鼓などが相まとのように松五郎の ノりに蘇る松五郎の心の中ではただ人の ために生きてきた自分の人生を振り返り死 の瞬間に本当の幸せを感じたのかもしれ ない彼は良い人々と交流することができ ましたもう何も思い残すことはないと思っ たに違いない唯一の心残りは両子への恋心 を伝えられなかったこと明治の人は松五郎 のように愛する人に迷惑をかけるのは 申し訳ないと思って我慢して黙っていたの だろうか松五郎の心が哀れでなりません 松五郎は純粋な心の持ち主でした亡くなっ た松五郎の葬儀の際勇気十三は良子から もらった数々の褒美がてかのまま保管され ていることを知りますしかも良子と年名義 の通帳には500円が残っていたのです この光景を見て私は涙が出て止まりません でしたあまりにも美しい心を持っている からです明治時代に500円だったら現代 では200万円くらいですなんという男な んだ勇気は驚きを隠せません覚である勇気 をもしのぐ覚ではありませんか熊吉は こいつはそういう男なんですよと言いまし た勇気は松五郎の人柄に感銘を受け今時 こんな男がいるかと続けました皆さん 松五郎が人のために200万円を貯めた姿 を見てどのように感じましたかそんな人は 本当に存在するのでしょうか彼は今なら タクシー運転手です現在タクシー運転手の 給料がいくらなのかは知りませんが 1900年代初頭ではかじて整形を立てる ことができたかもしれませんそんな中彼は 他人のために黙って貯金をしているだけで なく両子から渡されたお金にも手を出さ なかった彼は現代の国会議員がやっている ことと全く逆のことを黙ってやっていたの です国会議員は国民のために仕事をすべき なのにその影に隠れて代金をポケットに 入れてしらんプリをしていたのですしかも 真実を追求されると法律違反であることを 知らなかったとごまかしているのです自民 党議員の皆さんはこの映画を見て大いに 反省すべきです松五郎は例え他人のために 働き続けてもその人が幸せならそれが1番 の幸せであると感じていたそう松五郎は 崇高な心を持った偉大な人物なのです松郎 が国会議員になるべき人物です世界に向け て恥ずかしくて私なら議員をすぐやめます ね私は無法末は少々や対象どころではなく 総理大臣にまでなれる人物だと前述しまし たその大きな理由は彼が豪気独特尊徳を 帰り見ずにただ人に尽くす人力者の達人 だったからです昭和20年後半から40年 に活躍されたカカ一郎という作家がりまし た彼は国会議員にふさわしい人物として その道において卓越した技術を持つ達人を 挙げているのですどうしてなのでしょうか それは技術を追いかけていく家庭において 人格が大きく向上していくからだと私は 思っていますその例を1人だけあげます NHKで報道していました千のり級をご 存じの方がいられると思いますが佐道浦 千家前家元の15代の戦現出さんです 1923年生まれで現在101歳です彼は 特攻隊に志願したのですが順番が回ってこ ずに抽選を迎えたそうなのです彼は死に 行く直前の特攻隊の方々に必ずお茶を立て て飲ませていたそうなのですもうこれだけ で素晴らしいのですがその道を戦後におい ても追求しており現在も世界平和をテーマ に世界に発信していられるとのことです彼 は国家議員ではありませんが佐道の技術を 追求しながら世界平和を世界に訴える仕事 もされている卓越した方であります詳細は 省略いたしますが彼の言葉を聞いて加勝 一郎が言われていたことに完全に今私は 納得ができるようになりましたさて今の 世界では松五郎ほどの人道主義的な心で 生きている人に出会うのは難しいかもしれ ませんそれだけに三船の無法末の一生は 本当に見る価値のある映画です良子は 掛け替えのない人を失った悲しみに打ち しれ泣き崩れました何かもっと優しい言葉 をかけてやれなかったのだろうかと後悔し たに違いありませんそしてスクリーンでは 年男がいませんがもしこの場に年男がい たら1番涙を流すのは年男ではないかと私 は思いましたそれだけ無法末は年男にとっ て掛け替えのない最高最大の人物だった からです

無法松は、木から落ちて怪我をした少年を助けた。その少年の母親から、お礼としてもらったもの一切に手をつけず、母と少年のためにと思い、現在の金額で200万円もの大金を貯金していた。
こんな人道主義的人間は現代においてはほとんどいなくなってしまったのではないか。

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