【松並松五郎念仏語録 】第47回 松並松五郎念仏語録の味わいと解説です

えーそれでは松波松五郎念仏五6今回はえ 84ページの2つ目からですねえ何もかも 取られて仕方なく南あ仏南あ仏南あ仏え何 もかも取られて仕方なくナあ仏ナあ仏ナあ 仏と そうですね うんこれはまうあれでしょ あの救われていく救われる種となるような ものが何1つうんないとうんこれでいい これでこっちでは私どもの方ではこれで 良いこれがあればと思ってるけどそれも何 の役にも立たないとだこちらからもう救わ れるために持ち出すも報道のものが何に1 つもないと知らされるということが1つま 言えるんですねうんそれとま同時にこっち は空っぽで空っぽのまは救われるともう 空っぽになっていくとまそういうことが1 つあって空っぽほど楽なもんないよねうん うんこうならないかああならないかんて いう何もこうなくないんで空っぽちゅいう のはまあうんうんある意味では悲しいこと であるかもしれないけれども何にも仏に なるような種何にもないんだから本当 申し訳ないということは1つあるんだけど も空っぽゆえに空っぽのまま助けて いただけるとそうなると非常にもうこう ならないかんああならないかも何1つも そういうもののあのあれがあの縛りが なくなって解放されていくという軽やかに ねそういうような感じがありますねうん うん そうですねこっちが00行くですうんだ からあさん生物が100%100%のあ生 編物によってこっちの0のまま救われて いく とまこちらには何も残ってない何もない 握りしめてるものがね何も残ってないと いいもいいもんもないからうんあの誇る種 もないんだけど本怒るたもないうんけども 嘆く必要もないということそうですねこの 何もかも仕方なくてま書いてますけども 決してこれ投げももうどうしようもない しゃあないよなもうこれしかないなという よりもうんちょっとここに明るいものを 見い出したようなねうんそういうあの仕方 仕方なく南仏ナ編物やと うんまそういうのが少し感じられるような まああの仕方ないしっていうことと同時に まこんなものとこんなものとうんいうその ナア打物のありがたさが当時にいいててる そうですうん未主人身のねみたいなとこ ですかね自分の我が身のありよと私には本 ちっとも何も誇っていけるものがないと いうようのを知らされると同時にまたその え法に あさんのお働きの中にこうして あの生かしていただいておるとうんうんま そういうことがあるま私のだから私の荷物 はもう全部取られてしまうわけやから あんま見たうに辛い軽いあのもということ はあるんですねうんあるでょうねうんま こっちはだからまうんにまなんですかね あの私は あの私と他の別に仏法も何もないというか ねそういう人と別に全然変わらんていう うん自分はもう新種のしをいだいて信じた からもうもの特別なことなくてもうほんま にう一般の人とちっとも変わらないうん 仏法の他も何にもないもう本当もうあの人 であるというま単純に人であるというまま でもう あのそれでうん十分だったというかうんだ から人と一緒でもいろんな人とチプ変わら ないところでねうんうんそこにまあのお 助け見出してるというか な特別なもんになって助かるとかねそう いうもんではないわけですよねうん特別 じゃなかったんやとまずっと聞いてたら だんだん特別なような気がねあのしてくる まいろんなことを知っていくとねうん競技 のこととか色々知っていくとだんだんあ俺 は分かってきたぞと色々あの仏教のことも よ新種のことをよく分かってきたぞと思っ て特別なうんうん人よりはよく知ってる ぞっていうようなねうんことが出てくるま そういうことはもちろんあるわけですけど ねいざま この魔法というものにね本当に出会った時 にはあそんなもんはね私の思ってたのはも 必要なもんでもなかったとうんうん何も身 についてなかったといそういうことだね うん本当うんだからもう信者とか信じ屋 さんとか新人してないない人とかもう仏法 に関係ない人とか言っても1つもこうあの 分ける必もないしうんみんな平等なところ で1番底辺で1番底辺でそこであのそこに おらしていただけるしそそういう意味で あるということがまいい知らされてその このままが皆さんのお助けの中だという ことですね うんはいそういう感じでしょうかねうん うんいいです かそうですねだからあの上土新種のおしを も聞いていくいうことは何か自分の中に こうだんだんとこううんあの何か加えると かひけるとか加えるとかそういうことが もうなくなってむしろこう今までこうだと 握りしめて板が全部こう取られてしまって ま裸というかうんもう人間人間であると いうそのプラス何かをつつけるんだもう ボブの人間であるボンブである人間である ともうそこでそこにとるもそうやうんうん 摂取者のリアが来てるわけですうん あいうことでいいでしょうかねですかね はいえじゃあ続きましてえ84ページ3つ 目ですねえ長世の悲願聞き士よりえ我らは 少子のボブ川えこの川というお心は いやいやそうではない ぞうのエシは変わらないどえ真は上土に 遊ぶなり生口とえ長子の悲願利しより我ら はえ少女のボンブ川とこの川はというお心 はいやいやそうではないぞ黒野エシは 変わらねど真は上土に遊ぶなりなつとま こういうとこです ねまこの長世の悲願騎士より我らはえ正の ボ川とまのは変れど心は上土に遊ぶなりと いうまこういうご和さがねま町外の和さと いうのがあるわけですね逆にまその3三条 3条和さっていうのがあってまこれは えま上土和さね高層和さと肖像松和さま3 条和さそれ以外のま和さをねまあの場外 場外和さという風にま読んでおる中のま この1つですよねこれあの晴天には乗って ないんですねこの場外さんうん昔の晴天に はね乗ってる昔の晴天には乗ってたんよう ですけどもま大谷派のからすともこのどう なんですかねあの長田王春先生とかは ちょっとやっぱりうん審議がやっぱり不明 だとあるいはもう明らかにねあのちょっと おかしいんじゃないかというのが混ざって たりまあるいはま少しまそうねあの明院 了承市とかはねそういうのはうんまこれ あの領解っていうね両界しが加えてんじゃ ないかとかねまいろんな説があったりとか はいうんまでもまおにさんとかはどうされ てるんか分からないんですけどあのね西本 の創英っていうねうんあ宗洋宗洋宗洋師 っていう方とかは割にあの行為的にねあの 評価されてるようなとこもあってうんま しかしながらちょっと扱いのまあの難しい ね あのまご朝かなというところでま晴天から は昔の晴天では載していたけれどもま色々 調べていくとちょっと問題あるんじゃない かということでえ現在のえ接点にはま掲載 されていないというようなことがまある ようですけれどもまその中のねえそういう ま場外和算ということでありますけどま ここのまこの1種ですねえま松波先生がお 読みになったところをまところがまこの 部分ですけど もうんうんま教外和さではあるけれども ありがたいうん和さではありますねま診断 侵入の和さとしてはその響きがねちょっと やっぱり信頼商人のおさんとは響きが ちょっと違うんでこれやっぱりどうも信頼 商人のもんではないというのは説が大きい ねうんそうですねうんしかしも非常に ありがたい和さではありますうんま ちょっとやっていきましょうかねえ調整の 悲願聞きしよりと我らは少子のボ川とま この川というお心はいやいやそうではない ぞと うんまこっからですね長これ朝鮮の悲願だ から本願やね本願を聞きしよりと聞き受け たとうんいわゆる本願を信じた身になった ということですよそうですね聞くというね 聞くということです正時のもう本が身に 受けたもんだがもがもうそれ少女の本部か たんなる少女の本部か前の本部かて いやいやそうではないとまいわゆる症状時 のくいというかま上土に生まれるべき身と なったと単なるその生じ点のね水はで あろうかといやいやそうではないぞとま こういうことじゃないかなとうん思うん ですねそうですねまこの川っていうのも あのそうですねいやそうではないぞうん うんでそれはどういう心境かというとウの 絵心は変わらねとと煩悩のみであっても心 真まとまこれ新人ということ見てでもいい んだけどもあの真人においては上土に遊ぶ とうんあ上土に遊ぶていうのも大体元は これ全土大子のうん上土にこすと心は上土 にこすとうんまこれはあの信頼主人のお 手紙にもそれを引用しておられるんでうん うん信人をいだいた人は心があ心はあさん の上土にこううん根拠置くんだというよな ね言い方をしちゃそうですねうんそういう こととつるような言葉で上土に遊ぶなりと [音楽] うんだこれを本当にこう言えるというのは よっぽどこう味わって本当新人の深い人が 信頼書にあたりはこのままそっとあの 読める人だったと思うしあの本当にこう 深くうんあのあさんとの出会いが深い人に はこの和さはこの通りに感じられると思う わけですねだから確かに煩悩のそのボブで 煩悩だらけの身なんだけどもその頂いた 新人のから味わえるのはこの今確かにこの 江戸でありねあの非常にあの女性の世で あるけれどもそこに譲渡の風港うん いわゆるその世界がね非常に広い世界って いうものをこう感じていくと広くてしかし ありがたい不可思議な領域というものに心 がねあのこう味わっていくというかそれを 感じておるというような真事の風向をね うんうん上土にこう単なる エドで終わるんエドに中に降りながら上土 の得というか上土のお上土の姿というか 測りない測りないありがたいなんていうか な不思議な領域というものを感じるとうん そういうようなあのわがあるんじゃないか なと思いますねまこれはありがたいことだ と思う実際そういうことは確かにあのそう いう真理世界真人っていうのによってそう いうのを感じるということは当然あり得る と思うわねそうですね うん我らはま少女の文部化とうんいやそう じゃないとまこれあの調整の悲願をま聞い たとうんま信じたということですからね うんだからただのうんまボンブはボンブで あるんだけど上土に言われる身が定まって おるとうん症状樹の身であるというねこと ですよねだからま少女の身であるけどまま うのエシこれは変わらないとうん変わら ないんだけどまその心というのはま上土の ま風港うんというのをま表し感じておると うんやっぱり心が開かれるから開かれると こう閉じられてるか開かれるからもう完全 に開かれたら上土に くうんだけどやっぱ開かれるわけでそう するとねやっぱりここに単なる 江戸玉成というような世界じゃなくてそこ に本当にこう何かね一切の生きとし行ける ものと心がこう通い合うというか命が 通い合うというようなせ味はいこれは やっぱ起こると思うねうん不可思議な世界 不可思議な 神秘な領域っていうかねそういうものは やっぱり感じることはうんあり得ることや ば確かにうんまそれはやっぱり摂取者に 会うとかねまあ如来まよくそうこの回でも ね申し上げてますけどあの網田さんに抱 れるとかね代表を頂いていくとかっていう のはもうこれ言葉で説明しようがねない ようなあのことですからねうんそういう 部分っていうのがあの単に地面ではなくて ねうん相あの味わっていく部分としてま 開かれるとそれやっぱり上土の働きが生 編物だから生編物に出会いことは上土の 働きと も結結びつくというか譲渡の働きに出会う わけだからそっからちょうどあの窓が部 真っ暗な部屋の中でおったものが1つ窓が 開いてそっから光が入ってくるとそしたら そのその窓を通して向こうの何かねそあの か姿が見えてくるかなちょっとでもその 姿そういうことはね確かにあると思うね うんうんこれはあのえまあのあそうそれは やっぱりあります江戸にねま江戸にい ながらまウのエシをねあのうん保って保っ ておりながらその南ア口に触れていくと 南アに接しておるというのはやっぱこの 不可思議なね不可思議な領域が私に私の とこに届いてくる うんというま事実ですからねうんだから花 一本見てもね花一本にその命の働きうん あのあさんの破壊な命がそこに輝いている と花1つ見てもそういうことは当然ねこれ ありおるわけでねうんだからあの松尾場所 が あの見ればなな花咲かきねかなというねふ 見ればなな花咲かきねうんかなとま松葉 翔こ奥の細道で東北地方こう歩いてる時に 石垣の堀石垣のとこに1本謎なペンペン草 が生えてそこへ履いてたとそこへ花がぴょ 小さなパッと咲いてるとそれ見た時にね 単なる小さな花じゃなくそこに命の働きが 輝いれてるというその心境まうん彼が歌っ てるわけでうんそれはあのそれは上土の 風港に接してると同じだと思うでそういう ことはねま松さんなでも当然あったしうん うん帰るとでも話ができるとかなんか言う て言うてありましたけどね帰ると帰るとか 猫とか犬でもすごいこう心が通い合うと いうような世界がやっぱり開かれてくると これはもう上土に遊ぶというよなことと 関連うん通じたもんがあるねうんうんそう いうだから旦那深くなればなるほどそう いう上土の特っていうのが深くなっていく んでうん対あると思いますうんだからあの 一辺証人かな一辺商人は福風も生みの声の ように聞こえるとかねうんうん海の音もね あのこれも何かね仏の働きのようにこう 感じと言うていうようなこともおっしゃっ てるんだから新なしにも当然そういうよう なねものを持っておられたと思いますね うんまそうですね だからそこで文法の楽しみというのがあっ てやっぱり あの文法し重ねていくとだんだんそういう 領域の中にこう包まれていくというかま あの昔の妙光にささんなんかもそういな 感じでねうんうん非常に 広いそういうあのありがたい世界というか 命の働きとそういうものを感じていくって いうことは当然これあのあの出てくると 思いますうんそうですねまあの今までのね 松波うん先生のこの五6に出てきた言葉と いうのもねそういうの何と言いますかね あのま表現が豊かなねうんそうねうんそう いう言葉がうんたくさん出てきましたんで ね うん何かその罪悪屋とかねまこのここで 言うたらまうの私はもうのエシでござい ますそれに気づかしていただきましたうん みたいなねそこでとまってるわけではなく てもっとうんあの豊かなね明い豊かな 軽やかなねうんまそういう部分っていうの はあのそういう言葉そういう歌とかがま 多く出てきたなっていうのは改めてねうん 感じるとこですよね うんなかなかね このまこのさん自体は あまりなんて言うんですか慣れひししわ さんではねあまり目にすることのない和さ です からま興味がねある方はあの調べて いただいたらねまいいかと思いますけども うんま我ら商事の文部かはねただの少の 文部でないうんそうそうね聞いてこの少子 の悲願を聞いた聞いた聞いたんだからね うんただの少女のボブじゃないぞと いやいやそうじゃないぞという ねまこういうなからこういうあ後半のねう の心は変わるんでここから上土に遊ぶない という心境を開けてくったとそれただの ボブじゃないでしょただのボブじゃないと 本とこですよね うんなまな まこれかか川カっていうねま このまちょっとハゴみたいな感じですね 反語として疲れ少女のボであろうか いやいやしらないというとね言ましてそれ はやぱ新人の力ですわどこです うんそういうとこですかねはい えっとじゃあ続きまして85ページ1つ目 ですね え心に疑わぬをえ疑い晴れたと思っている がそうではないお念仏が出てくだされる姿 を疑い晴れたこと念仏申さぬ申されぬこと が疑いということえ義の真ん中にいるえ仏 せよとある大世にせぬことが聞いておらぬ こと聞くとは今であるえ直である時期で あるかなうん章である え心に疑い心に疑わぬを心に疑わぬを疑い 晴れたと思っているがそうではないと うん心に疑わぬねま私は疑ってませんと うんえそういうことを思ってるのがそれが 疑いが晴れたということでだと思ってる 思ってるかもしれないけどもそうじゃない ですよとうんそううんお念仏が出て くださる姿を疑い晴れたこと難万仏難万 ダブこの一声一声出てくださる姿をえ疑い あれたことことだとうんでそれがえ物申さ ぬ申されぬことが疑いということ義の 真ん中にいるとえ念仏申さぬ申されぬて いうことが疑いまいというまそれがま申さ そうですねままあちょっときましょうかで え念仏せよと えあるせにせぬことが聞いておらぬことと え聞くとは今である時期でである章である とうんなるほどねまそういうことですよね うんこれはねあの松さんはこれ連舞中心に こうおしゃってよねこうん物物を中心に こうこういうであのま私はも信人いただき ましたと疑っておりませんとこう言っても 音物が出てないと出ないということはね もうあの信じてるようで疑ってるのと実は うんとことは1つも言っておられるね私は もううん疑ってるあの人物が出ないていう ことはもう疑ってるんだとこうおっしゃっ ただから念仏がずこう出てくださっておる とおるといことそれがま疑いが張れたこと なんだとま年中心にこうおっしゃってる わけですねだから私はもう信じいただき ましたもってませんと言っても念仏が さっぱり出ないというのはこれはおかしい とやっぱりうんうん本当にいいたとは言い のじゃないかと というのは あのあナあの一声っていうのは安田さんが ここへ出てくださることやからうん何万だ 何万だと一声一声においてあさんが出て くださることやから信人いいたこと網田 さんに出会ったことですわ信でいただいた であさんに出会ったわけでそのねその 出会った印というかあさんそのものは何万 だと出てくださってるね当然それにあの ありがたいとうんうんさんうんまたあの こうこう直接こ感じるわけだからずとお物 というものに親し親しむわけよねうん同お 物がありがたいというにあるわけですよ うんなアブスアブスであさんと触り合う わけやからそれがだからあのあさんに 出会ったことがもう信じてのあさんに 出会ったことだから難万弾物が一番直接的 に合ってる姿なんでうん信人頂いたことは もうお物と出だろせざる得ないというか うんそれで物においてそのあさんの出会が 反復されていくわけですからだからお念仏 してる姿がもうこれが疑いが晴れてると いうことなんだとまこう年中心にこう しゃってるわけですねうんうんでそれが その全般ですわうんそうですね うんだから物がさん物されんとだから人物 が出てこないということがもう疑ってると 姿疑ってるということなんだとこうねも 当然念というのは真人がにおいてはもう どうしてもそれ出ざるを得ないし出てくる んだね当然うんあさんが直接にあの私に 現れるわけですからうんだから物が出ない ことはま疑いの中にまただ中にいるという ことだということです よまそれそれですよそこだから年もそう ですねそのなんか信じた信じてないとか うんそういうことをま晴れた晴れないま あのまそういうこそういう自分のそのなん というかその心の自分のが見た自分の心の まその信じた信じてない疑ったあの疑いが あるや疑ってないとかよりもうんこの念仏 が出てくるっていこの事実において物せよ とうんしてるわけからねもうあのあさん ですよと申してる時自分の疑い持ってるん ですと言いつつも何万ダ仏とうんこの一声 へ唱えてるっていうことはその大勢に従っ てるっていうねうんうんうんだから自分が 疑ってるっていう何を疑ってるんかがもし かしたらはっきりねうんああうんなんかあ 私は疑い深いんですってじゃあ何を疑っ てるんですかって聞いても疑いの内容が よくわからなかったりするような疑いも あるねあるやもですですねだからそういう 疑ってるますと逆逆もしかりですけど信じ てますってじゃあ何を信じてるんですか 言ってもまはっきり出てこないようなね そうそう場合っていうのもあるわけです からだからそういうことよりもそういう 自分の心を云々よりもこの何万ダブ一声出 てくるっていうことの方この事実の方が うんうんま言ってまこっちの方がまはま 分かりやすいて分かりやすいですしうん はっきりしてる事実ですよねうんは大勢に 何々ダブモーセと言うてるわかわけです からそれにそのまま従って難万打物って いうことはその大勢を受け入れてることで もあるし えまここでそのまねちょっと次のとこに なるんますけど今であると時期であるえ章 であるともう本当にそこのあの間髪入れず にねうんうん疑いの余地そういうものが 挟むこともなくね何々ダブと出てくるって いうこの姿その一言 出てくる姿にあそこがその晴れて るっていうことでもあるし受け入れて るっていうことでもあるしまそういう風に 受け取られ受け取ってるんかなっていうの は思いますねうんうんからこれあるせにと せぬことが聞いておらぬこととこせぬこと というのがまあさんの大勢をき大勢を押せ というのが我がの唱よという我がの唱える ばかり助けるというのが念仏王場の大世 ですよだからその大勢を聞いて年しないと いうことは聞いておらへんと聞いてない ことですねだから我がを隣るばかり助ける と聞いて何万だも何万だもと人物もしそれ しかも今人物時期とかあの時期であるとか 章であるとかいうなあのまそのその都度直 にまっすぐとうんたちにまやから我がの隣 ば助けるてはい何万だ何万とこう素直に すっと疑っておることがあの聞いておる ことであり念仏をそう言われても念仏せ ことは聞いておらぬことだとだから今今今 何万ダブとあさんが何万ダブとあので我が の唱えと大勢が来てそして何万だ何々だと そのまますっとこううんあの直接系にすっ と聞いてあの唱えておることがそのまま王 を聞いておることだとこういうことをまこ でおっしゃってるんだとはいとねはいと はいそのまなまなまなとこう言ったらそれ は王をし王に従ってるとうん真事の姿だ それが理の姿だたねそうですよねなから いくらその真がどうやこうやとか言うて おったとしてもあの我が人よ入っとね何万 だつというのにはその前にはまあなんて 言いますかねあのそういうことを前にして は私は新人がありますとかないないですっ ていうことはまあ あまりなんて言いますかね重要なねことで はないというかうんまそういうこと思い ますそのそれよりも我がを唱えようと言っ た時にはいとナダ仏というその姿があの あの新人だとうんうんまここは全体がま 念仏中心にねおっしゃってるお言葉でです ねうんうんからまああのそういうことま 実際にあのそうですさんではうんた人いう のはも物の唱えてるますはうん唱えずに 折れないもんねうんだから真には必ずあの 名語をぐとわねしかしまあの逆にねなんと か新人を言たい思って万だ万だとしてこと あるわけでねうまだいただけどうんその妙 をま妙は必ず しもあのしてるいういうのもあってね確か に唱えとるんだけどまだあにいいてない いう唱えるもあることあるんですこれは うんだその場合あの物はねいやどどうか 言うとなんとか言うてやっぱりこう自らか きりというかなりがこあるその物を申すと いうことに対して何か自分で思惑がある 場合はねうんだから一生懸命あの眠唱える んだと別にこれはあのあさんが申せとね 必ず助けるというかいうところの難物で なくてあうんうんマダ物一生懸命唱えたら なんとかなるはずやとかうんそうそうそう そういえばまそういう場合は決ってる ちょっとねあのそうまあるんだけどねここ はそこそういうことで言ってなしにうん あのまあの疑いが疑あ疑い晴れたと言って も人物が出ないようなうん疑い晴れた本当 に晴れたんではないんだとうんでま本当に あさん出会ったらもう念仏申さずに折れ ないと念仏こそあさんの愛うんこで出会っ てくださってからそうね自分私との出会い ですから常にこう回何々なでほあ皆さんと の出会いがそこでいつも回復されてると いうかねそ味われるだからお物せずにおし 念仏が皆さんだからうんだからあのそう ですねうんそういうことね年必然的出て くるわけですよしかも非常に軽やかに出 るっていうかな うんまそんなことでちょっとねもう1個 確認しようかなこの義の真ん中にい るっていうのがその真ん中の行のうん中の 行のね義のま疑いの真ん中にいると物もし てないことは念仏申さぬこと申されぬこと がお互いということとねお互いの義の 真ん中にいるという申さ申されぬうんって いうことはもうねそれがもうお互いのど 真ん中だとうんそういうことですねうん いくらね真がありますと言っても うん松ね先生たそれはもう互いのど真ん中 にということなんですよねうんま田さんと ねあのま この五6のね えま過去もそうです過去の動画でもそう ですけども田さんと実際ね私が具体的に 1番でる出会うというのはこの何々打物に おいてその他にあのないわけですからねえ ですから申され申されるっていうことはね やはりまこういうことを問題にしていか ないとやっぱあさんに出会うってどういう ことやっていうのを問題にするとね人物を 申すということがあの必ずそのま重要なね あのもんとなってくるはずですからねうん だからあのよく新人とは何ですかとか 助かるとはどういうことですかって言うて ま1回そこはもう1回通ってみないいかん ことですね疑いて言って何を疑ってんのか とうん信じてますと何を信じてるのかと そうですうん案外これはねうんきしてない 場合があるそうねどっちの場合もね何を 本当に疑ってんのかで逆に信じてますと いうね私は真がありますて何をじゃあ信じ てるんかそこはうんそううん本当にあの 突き詰めていかないといけないですで私は 助かりましたでどういうことと助かったい かねうんそことこやっぱり何度も聞かない かとこですよ助けていただいもっとあの 助かっておりますとかいうことでもまあ何 でもそうですけどもうんそれ案外透明な こと多いからうん多いですよねその部分ね そから身の本願と本当本願って何なんかと うんなんかお助けとはどういうことかとね 真数とはどういうことなんかとそこは やっぱ何度も性格に行かないと案外ね あそこはぼやっとしてるとただそう イメージだけでね語る とちとろしてしまうそうですね うんうんそれはあんでしょう ねまこういうね五6を通してねあの まあ自分自身が思ってる思ってること あるいは思っていたことそうやと考えてい たことていうのをもう1ぺ点検し直すと いうかねうんだから真人いやあの都新主は ねあの地を知らしてもらうんだとうんって いうものを知らしてもらうことは上土真摯 だというな話もあるけどそれも非常にね あのぼやっとしたことだと思ううん事故を 知るともいろんな事項があるでで知たとも 何を知るのかとそう単にその罪が深いこと を知るなら単なる自己反省ではないかと いうこともあるしねうんうんだからあの 上土真士の真理とは何かと本当こ突き詰め てあるで考えないとうんあのなんかねあの 普通自分を自分だ自分が悪いやだと分かり ましたという場合も色々あるからねこれも 自分が罪の深い人間でありましたと知らし ていただきましたてほなこれが本当に信人 かどうかいうのはねやっぱそこはねよく 突き詰めてみないとうんうん案外あの新種 と違った受け取り方もありんでねうん正確 に聞かないといけないんですようん そうですね うんまそういうね あの何か自分の中で あの気づい気づきとなっていくようなうん まそういうあのまこの56がねうんそう いう風なその自分の気づきとなってくる ようなあの言葉にねあの出会っていただい たまこちらがも嬉しいですけどね うんまそういう感じでしょうかどうですか いいんでしょいいですかはい うんその次行きますかね行きますかねえ 85ページの2つ目

第46回に引き続き、松並松五郎念仏語録の味わい動画です

松並松五郎氏は奈良県に居られた念佛者で鈴木大拙師が現代の妙好人として紹介したいと思われた方です。その松並氏が手元に置かれ、生涯にわたってお念仏のお心などを書き留めたものを、その順番の通りに編集、出版したのが松並松五郎念仏語録です。
 この動画は台本や事前の打ち合わせなどをせずに録画をしていますので、
ところどころ話が合わない事や締りの悪い場面もありますが、あえて
切り取ることはしておりません。できるだけそのままを伝えしようと
考えております。なお、休憩や所用のある時や表現的な問題がある場合は編集をして
おりますのでご理解ください。

今回は松並松五郎念仏語録(第3版) 84頁 2番目 からです

kiindle版 は 93/356 あたりです

松並松五郎念仏語録の入手方法

・真宗大谷派 念佛寺  http://nenbutsuji.info/   
 に連絡(電話、メールなど)

・響流書房(電子書籍) http://kourushobo.com/book/466 

・インターネットサイト amazon.com よりkindle版で入手できます

念佛寺HP 「信心の言葉」からも見れます

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