【ゆっくり解説】1792年 島原大変肥後迷惑 ー日本史上最悪の火山災害ー

皆さんこんにちはゆっくり霊夢です皆さん こんにちはゆっくり魔理沙だぜ今回当 チャンネルの登録者数が1万人を突破し まし た初投稿が2022年の1月だから約2年 半で達成か皆様の応援本当にありがとう ございますこれからも応援よろしくだぜ 災害史解説シリーズ今回のテーマはこちら [音楽] 多くのリクエストをいいていた江戸時代の 噴火災害だな現代人の感覚ではこの名前に 違和感があるぞ島原で発生した大変事と いうことで島原大変その後の津波によって 島原の対岸にある日が大きな被害を受けた のでご迷惑となるよこの災害は日本史上 最悪の被害を出した火山災害となった よまずはこの噴火の部隊となった島原半島 から見ていこう原半島の主要部を形成して いる雲然火山は50万年前から活動を開始 している以降何度も噴火を繰り返してあ だけ妙見だけ風原だけなどが形成された その中で最も標高の高い山が不言だけと なるよ運不言だけというけど不言だけは 運勢火山の中の1つなんだな古くは中腹に 温泉が湧く山として温泉山と呼ばれていた ものが運山と変化していったと言われて いるよ運火山は歴史上3回の噴火が確認さ れている江戸時代の分2年関西3年そして 平成3年だよ我々の記憶に新しいのは平成 の噴火だよなこの時は火龍の発生によって 43名もの犠牲者が出てしまったね マスコミの報道姿勢についても多くの批判 がある災害だった な10月8日大いに古夜に至りことに話し これより連日あるいは強くあるいは 許し関西3年10月8日島原城下で初めて 夕刊地震が感じられその後連日明堂を伴っ た地震が続いた島原城ってどこかで聞いた 気がするな島原城は関14年の島原の乱で 天草城を引きいる一期軍が立てこもった ことでも有名だね乱を起こした委だけは 解役され関西3年当時は松田け6万 5000国の長が置かれていたよそうか 島原の乱の部隊となった場所 か関西4年1月19日不言だけから粉練が 上がるのが確認された前身に続いて いよいよ噴火活動が始まったんだ な島原ハではたに調査を行い不言だけ山頂 にある風原神社付近で2か所から粉練が 上がりデドが吹き上げられて噴石が 吹き出していたことを報告しているまた この時麓の村では9cm程度の後輩があり 浄化でも肺が降ったと言われて いるハデは急ぎ所場を江戸に送って噴火の 発生を幕府に報告するなど対応に追われた が1月26日には山頂から上がる粉練を 見ようと大勢の八馬が山に登り見物客相手 に商売を始めるものもあり日の節末による 伸びまで発生する有様となったそのため長 は日の節末注意のおフれを出して対応に 当たったよ噴火校を見物できる程度の規模 だったってことか初めて見る噴火に興味な のは分かるけど噴火の怖さが分かってい ないんだ なしるところ下の晩より下に会いなり炎 変わるがると吹き出す有様南城とも見届け がく深北二を一夜のうちに吹き上げ山の ごとにあえそれより次第次第に崩れ下る ことを びし2月6日になると山頂から北頭 1.5kmにあるあさ谷のビのバでも噴火 が始まった報告によれば谷底の平らなこの 谷に2日間で300から400mの大山が 作られ谷を埋めるように盛り上がった溶岩 が崩れる度に周囲の樹木や草を焼いていた とても恐ろしい光景だなこうした状況でも 相変わらず野馬は多く溶岩建物のためロ山 も多くの人が詰めかけ見物人相手の茶屋や 酒屋が設けられシミ線まで繰り出して昼夜 は刀ぬ賑わいとなったおいおい随分呑気だ な時には大倉闇になり風が立ち見物する ことができなくて皆逃げ去るとあって平成 の噴火同様に溶岩の商報会による火災流の 発生もあったと推測されている今も昔も 変わらないというか正しい知識の普及防災 教育の必要性を感じさせるぜ反響では状況 に応じて見物禁止の触れを出し見物人を 差し止め手代を道筋に置くなどの対応を 取っている よ3週間後の2月29日今度はビのバから 200m高い八の久保でも溶岩の流出が 始まり穴さダを流れる溶岩流と合流した この溶岩流は千本木の人家まで徐々に接近 しウルー2月29日に人家まで600mの 位置にまで達したこちらがその時の様子を 買いた絵ずになるよ奥で粉練を上げている のが不言だけ溶岩は谷に沿って周囲を 燃やしながら徐々に近づいてきているな 手前に山があるけどこれはこの山は眉山と 呼ばれており不言だけと島原城下の間に ある山だ ね3月1日から5日にかけて島原では 大きな地震が頻発した特に1日夜から2日 朝にかけてが激しく1日は昼から激しい雨 になったこともあり眉山の頂上からは樹木 や石砂が大量に崩れ落ちて土煙を上げ上下 では石垣が崩壊したり家のかが外れるなど の被害が出た地震の回数は300回に達し たと言われている明らかにやばい状況だな 浄化からは早く避難しないと島原反 松田平田は城に残って式を取ったが反の 子供や武の家族は島原半島北星の森山村へ 避難したこの時死中では殿様が逃げたと いう噂が流れ混乱を極めたと言われている 情報も限られていただろうし長人たちから したら不安になるよ なハデは民の避難よに内の船をかき集め 人々は続々と浄化町を脱出した2日からは 所持品を取りに戻る人々と浄化から脱出 する人々で島原街道は混雑しハデは避難先 の村村へ食料や巻の配布を行って いる地震はそこから徐々に落ち着いてきて 3月17日の資料には避難していた反省の 家族も島原城に戻ったことが記述されて おり3月中旬には一旦避難解除されたよう だ王がつつあった3月9日深夜レジ頃に 発生した地震によって眉山南側全面の楠の 木平が地滑りを起こしたこれは南北 720m東西80mが90mに渡り崩れた ものだったが楠の木平は浄化からだいぶ 距離があったためあまり重要しされなかっ た長の関心は自身と浄化に迫る溶岩流に あったんだろうなこの時学道というが眉山 が崩壊して浄化が壊滅すると言って人々に 避難するように呼びかけ浄化が混乱した ことからハデは学童を捉えるように触れを 出した災害時には有限日護がつき物だから なしかし学童の警告は現実のものとなった 4月1日眉山の山頂が崩壊し楠の木平を はかに上回る傷の大崩壊を発生させた こちらが現在の眉山だよ3体崩壊した痕跡 がはっきりと分かるなこれだけの土車両が 一気に崩れたとは 恐ろしい島原城は土砂の直撃を免れたもの の浄化の大半は飲み込まれることになった 大手の門まで死人びたきことしかりといえ ども死人改めるものもなし死人取るものも なし取り手も送る坊主もなし島原浄化での 犠牲者は5251人となったこれは3月の 地震後に人々が避難先から戻ってきていた こと眉山の崩壊が新月の夜8時で何が 起こったのか判断できなかったことが 大きいこちらが眉山崩壊前後を買いたえず になるよ眉山が崩れて浄化と港が消滅して いるな沿岸部にも津波が押し寄せて海と かしている様子も分かる ぞ研究によってこの時の崩壊量は3.25 億立方mと推定されている令和3年の熱の 土石流災害の土車両が5万立法メだった からその6500倍大きすぎてわけが わからないぜこの崩壊については雲然火山 の噴火活動によって激増した熱水と直下型 の地震によって眉山の安定性が崩れたと いう説など様々考えられているが未だ確定 的なことは言えないそうだよ眉山で噴火 活動があったわけではないものな噴火に よる盤の不安定下に自身が最後の一押しを したって感じ か崩壊した大量の土砂は人家を飲み込んだ だけにとまらずそのまま海にも流れ込んだ こちらが崩壊した土砂の分布になるよ すごい範囲に渡っているんだなこの時の 土砂によって作られたのが島原湖近くに ある九島でいわゆる流れ山地形をなして いる流れ山は駒ヶ岳の噴火でも出てきた けど3体崩壊の痕跡がこうして見れるのは すごいよ な眉山の崩壊した時は大塩の満潮時刻に 近く日没後の漆黒の中を発生した巨大津波 が島原半島対岸の日の沿岸に襲いかかった 考えられる限り最悪のタイミングだったん だな熊本市付近の海岸での目撃証言からは 20時過ぎに合音が聞こえ島原沖の懐中に 優勢のような日がスマにも見え次第に日が 大きくなってついに懐中火事のようになっ て見えた後に津波が襲ってきたという実際 に津波に飲まれた人は水中では熱湯を注が れるようであったという証言を残している 火山の熱水を含んだ大津波 かこちらが国土チリンに登録されている 災害伝承費を示したマップだよ島原半島と 対岸の熊本天草で海沿いにびっしり埋まっ ているぞこれだけの数の石碑がこの災害を 伝えているんだ な津波の書上口は場所によっては20から 50mに達ししかも有明界沿岸は干拓に よる平坦な土地が多いことからその被害は 甚大なものとなっ た島原半島南部での犠牲者は約3500人 日頃の沿岸各地で約5000人島原浄化と 合わせて合計で1万5000人という日本 市場最悪の火山災害となった [音楽] よみの出来事に対し島原半手好きのものを 総動員して暗闇の中で救助作業を行った 翌日には江戸へ早馬を走らせるとともに石 による医療救援も行われた反の家族は半島 北西の森山村へ避難したが沿岸部の島原 街道は滅して通行不能であったため3幹部 を通る脇街道が利用された近隣の佐賀班や 大村班からも救援隊や救援物資が到着した が混乱した浄化では秋や物取りが横行城下 町の強盗取り締まりなど治安維持活動も 行われた非常自体に反の活動は凄まじいな 4月7日半丁は島原城より北の三村に移転 4月27日には病弱だった阪松田たが なくなった 弱った体でこの非常時に対処していたのか ストレスも半端なかったんだろうなしかも これだけの被害を出しながらも地震活動は 継続していたし溶岩流も動き続けていた もうやめてくれ4月25日にはあさ谷の 噴火が勢いを増し真山の崩壊面からは岩石 の暴落が続きデドが吹き出して崩壊末端の 谷は沼田と化し た5月20日になって務所は島原城下に 戻り徐々に正常下に向けて動いていったが 6月1日再び不言だけ山頂で激しい噴火 活動が始まっ たこれは最初の噴火の10倍もの規模で 浄化には10から20cmの後輩があった この後も大事割れ優勢の異常などがあり6 月下旬には台風の雨による土石流も発生し た崩壊したばかりの眉山だけでなく火山バ による土石流は大きな脅威だな7月中は 地震が頻繁に発生しそのに岩流の末端山山 の崩壊面は崩壊8月に入ってようやく収束 した長かった天辺チーがや収まった かこれ以降噴火活動はなかったが長雨や 豪雨の時期に水無し川での土石流災害が 発生しているこれに対応して人家や工作地 を守る土手が気づかれ現在でも島原しない で見ることができるよ盤が固まっていない 状況では土砂災害がひどくなるよな 噴火から6年後の完成10年不言だけは 再び活動を再開し頂上での噴火活動が 始まったこの際現地調査のために山に登っ た2人が大煙に巻かれて死亡したという この噴火は翌年まで続いたと言われている よということで島原大変ひご迷惑について 解説してきたよ信じられないくらい次々と いろんなことが起こっていたまさに大変 だったな 真山の北海道車両は0.325立方キそれ に対して北海道駒が岳は1.7立方キ島 大島の漢方津波では2.4立法Kだったな 開拓前で人口気迫な北海道に対し人口の 多い有明界での被害が桁外れの被害を生ん だのか最後に大変後56年目に当時の軍部 用所日を編集した車の言葉を紹介したいと 思う よ全てのこと先き方ありしこと承知いたし おればそれぞれによりたることは不慮に できても一向知らず聞かずのことできたる よりはたよりもつきやすきものなり高成 もし焼きはあるいは地獄などの吹き出す ことあらばこの所よ熟し前例を明らかにし その様子を考え乱に共同すべからずまた 油断な器用未熟の誹謗をりみずこの筆を 取り置き次第 なり今回の動画はいかがでしたでしょうか チャンネル登録高評価をいただけますと 幸いです今後の動画作りの参考にしますの でコメントなどもいただけると嬉しいです ではまた次回の動画でお会いしましょうご 視聴ありがとうございまし たDET

江戸時代に発生した雲仙普賢岳の噴火は山体崩壊よる大津波を発生させ、未曽有の被害をもたらしました。
島原大変肥後迷惑と呼ばれる日本史上最悪の火山災害を解説します。

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<目次>
00:00 オープニング
00:55 雲仙火山について
01:52 噴火活動の始まり
03:34 溶岩流の噴出
05:37 眉山の崩壊
09:51 大津波の襲来
11:10 救援活動とその後
13:47 エンディング

<参考文献>
国土交通省 九州地方整備局 雲仙復興事務所「島原大変 寛政四年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊」2003
都司嘉宜 日野貴之「寛政四年(1792)島原半島眉山の崩壊に伴う有明海津波の熊本県側における被害,および沿岸遡上高」『地震研究所彙報 Vol68』1993
いさぼうねっと「コラム7: 1792年の島原大変肥後迷惑」
 https://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum07.asp

記載のない画像についてはWikipediaより引用

#災害史 #噴火 #火山

30 Comments

  1. ネーミングセンスが凄い。これで災害のすべてが伝わる。雲仙岳と城下町の間にあった眉山が有明海に向かって崩落したのか。そして島原藩の混乱や対応ぶりが現代と変わらないのが意外だった。

  2. 1:52からのBGMタイトル是非教えてください!解説にめちゃくちゃ合ってます
    いつも自然災害動画楽しみにしています。これからも頑張ってください!

  3. 1万名様ご登録、おめでとうございます。お世辞ではなくてよいチャンネルとおもいますので銀盾・金盾めざして更なるご発展を祈念申し上げます。

  4. きた!島原大変肥後迷惑!
    島原半島向かいの天草沿岸に実家をもつ母親が、雲仙普賢岳噴火の際は、実家が無事かどうか気が気じゃなかったそうです。家猫ですら首にエサをくくりつけていつでも避難できるように準備してたと。

  5. 眉山(びざん)、九十九島(つくもじま)です。せっかくの記念回ですが、さすがに修正・再配信をお勧めしたいと思います。

  6. 過酷な徴税を行なって島原・天草の乱を発生させた藩主(後に斬首)に変わって、
    幕府の強い意向で当地を平和に治めた新生島原・天草藩の優秀さが垣間見えるお話ですね

    天災を前に人ができることなんて知れてますけど、、でも、そこが少し救いに感じました

  7. コメントで指摘いただきましたので、以下訂正いたします。

    02:19 一揆軍の立てこもったのは島原城ではなく原城でした

    09:38 九十九島(×くじゅうくしま→〇つくもじま)

  8. 被害を受けた地域において行政が考えるハザードマップが断層による地震と津波の被害しか考慮しておらず、現在いつ噴火してもおかしくない普賢岳の影響を無視しているんだよな。過去に肥後迷惑で達した津波よりも小さい津波しか防げない堤防で市民に安心を植え付け海沿いに公共施設や道路を誘致しようと未だに政治活動してるのは如何なものかと思う

  9. 投稿おつかれさまです
    このような昔の災害の様子が日付とともに詳細に残る、後世に伝わるというのは、災害自体は恐ろしくも、なんと申しますか有難いというか心に来るものがございますね。
    江戸時代が町人から上級の身分にまで些事から大事と広範に記録が残る「記録の時代」と呼ばれる所以のひとつであるのかな、と感じます。

  10. 近所のお寺に残ってた資料によれば、この時うちの付近まで津波に流された藩の御用船だった千五百石船が流れ着いたそうで。
    だもんで熊本地震で一時津波注意報が出た時は、当時の推定浸水域や遡上を考えて近くの川の位置を思い浮かべながら大丈夫そうな場所まで必死こいて車で逃げました。うちの付近って地形が平べったくて高台なんかないから、海からなるだけ遠くまで逃げるぐらいしか出来る事ないのよ。
    眉山の崩壊跡は今でもうちの近くから肉眼ではっきり見えますな。平成普賢岳噴火の時も火砕流が目視できました。

  11. 平成の噴火当時、陸自のCPが装甲車に対して発した『タカタカ、キケンキケン、送レ』至急報をよく覚えています。
    肥後側が被った「迷惑」も知りたかった・・・。
    こういう記録が残ってるのが日本防災体制の強みにならんことを。

  12. 一時期天草に長期出張してましたが、海岸沿いに地蔵尊がまばらに多いことに気が付きました。
    現地の方にお聞きしたところ、この災害で犠牲者の方が流れ着いた場所との事でした。

  13. 後の世まで伝えようとする江戸期の記録の有り難さ
    次の大噴火や地震に向けて、どれだけのものを残していけるか

  14. ちょうど昨日島原に出張中でこの動画をたまたま見たんだが、島原港近くのホテル泊まりで窓から九十九島見えてたから「これか。。。」てなった。

  15. この動画で問題点は一揆軍が立てこもったのが原城か島原城かではなく最後の何とか日記では?地獄の吹き出すことがどうとか言われても意味が分からんでしょう。頼むから何か補足してよ!

  16. 当時の文献に津波が河を逆流して、被害が出たことが書かれてました。
    東日本大震災の前に、全国に放送してもらったら、被害数が減っていたかも。

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