“後ろのあれは何ですか?”

あの人は今嘘をついているんです制服を着
た女子生徒の足をじっと見つめる外国人
男性がいますそして女子生徒の頭から
つま先まで気持ち悪く眺めていますまるで
変態のような彼の表情を見た周りの人たち
はすぐに警察に通報しなければならないと
大声をあげましたその時になってようやく
気がついた外国人男性が言い訳をし始め
ます一体どんなお便りなのか一緒に見てみ
ます
こんにちは私はポルトガルに住んでいる
リカルだという女の子です私は今日父の話
をしようと思います私の父はポルトガルの
観光地でレストランを経営しています実は
父の夢は俳優でした地方出身の父は俳優に
なるために高校で状況し家族と離れて1人
で寂しさを乗り越え演技にはまって暮らし
ていたそうです実際に若い頃に出演した
作品もありますしかし父は日の目を見る
ことができず数年間苦労したようです父は
それが全て身長が低いせいだと思ってい
ます俳優はどんなにハンサムで演技が上手
でも背が低いと成功しにくいというのが父
の強い主張ですもちろんそうでない俳優も
いますがそういうことはごく稀なので父の
俳優失敗は絶対身重のせいだということ
ですそのせいか父は身長にとても敏感な人
ですもちろん今は長い年付きが立ち仕事も
俳優とは全く関係のない食堂を経営してい
ますがその身長に対するコンプレックスは
最後まで残っていました背の低い人は
かっこいいどころか絶対いまいだと思って
いるようですそんな風に考えているので父
も知らないうちにそんな人たちを馬鹿に
する表情が自然と出てくる時もあります
特に父の食堂は観にあるのでヨーロッパ人
だけでなく東洋人も多く訪れるところなん
です父は東洋人はみんな背が低くて体格も
小さくて皆いまいだと言っていましたうち
の家族は父がそんなことを言う度に注意し
ますが父の考えは全く変わりませんしかし
ある日父がすごく怒って帰ってきたんです
それから日本人たちのせいでとても
イライラしていると話すんです私たちは
なぜ怒っているのだろうと思いましたでも
父の話を聞いたら本当にひどすぎました父
の食堂を訪れる日本人はとても多いです
去年私の町で撮影した日本映画が公開され
その反応がかなり良いというニュースを
聞いたんですその映画はいろんな国で放映
されたのでうちの食堂を訪れるお客さんの
中にも映画のロケを訪れる人がかなり多く
なったのです父は最初は喜んでいましたと
とが彼らの行動がどこしているということ
です彼らは予約席と言っても先に来た人が
優先ではないかと言ってテーブル席に座り
食堂中に響くくらいの大声で話すそうです
近くにいる一業と会話をするにしても遠く
にいる人に話すように大声で話し周りを
意識して静かに話そうとする意思もない
ようだと言いましたあは食べ物が出てくる
と動物のようにガツガツ食べテーブルの上
もかもこぼした食べ物だらけだそうです
それぞれ自分たちの皿に持って食べれば
いいものをお互いに自分が食べたいと
大騒ぎするそうです床に食べ物が落ちたら
むしろ教えてくれればこちらが片付けるが
そんなことも一言も言わずにそのまま足で
踏んで潰してから出ていくとも言ってい
ましたさらに面白いのは注文する時は普通
メニューを見ながら下手でもその国の言葉
で料理の名前を読もうとするじゃないです
かしかし彼らはただ自分の国の言葉で話し
メニューを注文するそうですそして店員を
呼び翻訳機で私たちは日本人ですがここで
撮影したということできたのでサービスを
してくださいと言ったりもするということ
です父はもう他の町に行きたいとも思うと
いい背も低い奴らがこんなに大騒ぎしてい
て本当にとてもストレスだからもう彼らに
来て欲しくないと話したりもしました
ところで私は父の言うことを聞きながら
とても不思議に思いました特に私は日本
映画が大好きなんですが私の町で撮影する
という話に撮影現場もよく見学し映画が
公開された時もわざわざ見に行くほどです
それで日本に関心があって日本に旅行に
行く計画も立てていますそれで日本につい
てたくさん調べているところですが私が
知っている日本人と父が話している人が
あまりにも違うんです全く逆の行動をする
のを聞いて私は本当に日本人なのか
聞き返しました父も私が日本に関心がある
ことを知っていましたそして私が見ている
日本映画を一緒に見たこともあります父は
日本人が本当に礼儀正しくて優しそうに
見えると言いましたところが食堂でこんな
ことを経験した後は私たちが見たのは全部
嘘だった正直映画やテレビに出たことを
事実だと信じ私たちが馬鹿だよ日本人たち
が自分の本来の姿を見せたら多分世界中の
人たちがみんな嫌いになるからねと言って
いました私は信じられませんでしたもし
事実だとしたら裏切られたような気分です
私は近くで和食レストランを経営している
社長に聞いてみようと言いました私の家族
と親しい日本料理店の社長がいますがその
方は本当に私たちが知っている本当の日本
人の姿なんです私たちと親しいですがいつ
も礼儀正しくいつも賛成な方ですだから
私たちはもっと日本人のことをよく思って
いました私は大近後にその和食屋に
立ち寄りましたでもその店もやはり何人か
のお客さんがものすごくうるさく食事をし
ていました周りのお客さんが顔をしかめて
も気づかず結局社長が言って注意すると急
に怒りながら自分のお金を払ってご飯を
食べに来ているのに話もできないのかと
むしろ大声を出したんですお客さんが帰り
少し換算とした時社長は私のところに来
ましたそしてあの中国人たちのせいで商売
がとても大変だとおっしゃったんです私は
びっくりしましたあの人たちは中国人なの
かともう1度尋ねると社長は笑いながら
じゃあどこの国の人だと思ったのかという
のです世界のどの国の人々も中国人のよう
にあんなに強引に行動し基本的マナーも
知らない国はないとしあの人たちはもう来
ないで欲しいと言っていました私は社長に
父の食堂の話をしましたそして彼らが日本
人だという話もしました社長はとても怒っ
ていました自分は日本人なので騙すことは
できないが他の食堂の人たちは東洋人を
あまり区別できないので中国人たちが自分
を日本人だと言えば私の父のよに皆騙さ
れるということですそうすると今の父の
ように日本の悪口を言うので中国人を皆
追い出したい気持ちだそうです何年も社長
を見てきましたがこんなに怒った姿は
初めて見ました私は父のところへ行き和食
レストランの社長の話を伝えました話を
聞いた父も怒っていましたまずサービスを
受けたいからと自分の国を偽るということ
からとても卑劣だと話していましたそして
自分の行動に指摘を受けたら国を疑うので
はなくその行動を直さないといけないの
ですが中国人の基本的な考え自体が
おかしいと言いましたそして私に紙1枚を
見せてくれました飲食業団体から来た文書
でした年に1度だけ外国の食べ物や文化
などを見学して回るプログラムを申し込め
ますが今回の国が日本でした父は日本と
いう言葉を聞いただけでイライラして
捨てようとしていたそうですが本当に日本
人がどうなのか1度言ってみようと言って
いましたそしてどうせあなたも生きたがっ
ていたからこの機会に一緒に行こうと言わ
れました私は大三世と叫びました父はこれ
以上商売をしても腹が立ってお客さんに
親切に接することができないと言いながら
店を閉めていこうと言いましたそうして
私たちは日本に旅立つことになりました
ところが日本に到着した途端父は口をを
ポカンと開けて空港を見回していました
日本人はこれまで父のお店に訪ねてきたお
客さんとは印象がかなり違ったんですよ私
もやはり東洋人を見てどんな国の人なのか
よく見分がつかなかったのですが実際の
日本人を見ると中国人とあまりにも違って
いましたまず身長がはるかに高かったです
背も高くてスリムでスタイルも全く違い
ましたうちの店で見た人たちはまず頭から
つま先までブランドロゴが大きく描かれた
服やアクセサリーを身につけ色も明るい赤
や黄色のように目立つ色をよく着ていまし
たそしてネックレスや指輪のような
アクセサリーも大きくてキラキラしてい
ました誰が見ても自分をアピールしたい人
のようでしたでも日本人には全然そういう
人はいませんでした男性たちは派手に
着飾っていませんが細かいところまで綺麗
に管理しているようでした女性はヘア
スタイルと化粧がとても綺麗でしたそして
体型がとても良かったです背も高かったん
ですがもし背がちょっと低い女性だとして
もスタイルは良くてファッションセンスも
とてもおしゃれでした何でもやりすぎで
目立つ中国人とは全く反対でした父はどこ
に行っても日本人をじっと見つめていまし
たそして私に東洋人は皆背が低いと思って
いたが日本に来てみたら私の考えとは
あまりにもも違って少し戸惑っている背も
高くて体格もいい人が多すぎると思う完全
に西洋人のような体系ではないかでも
そんな体系でも東洋人の顔をしている
なんてとても魅力的で目が離せないと話し
ましたさらに通りすがりの女性の足も
まじまじと見ているような気がしました私
は父にお父さん外国で警察に捕まりたいの
もう女性の足を見るのはやめてよと止める
ほどだったんですよ父は東洋人の女性も
小さくて子供体系だと思っていたそうです
でもとてもスリムで綺麗だと言いながら
日本の若者たちを見て何か勢いに押された
感じでした父は東洋に行けば自分は慎重が
高い方だと思っていたようですところが
日本に来てみたらみんなすらりとした
スリムな姿に驚いていました私たちは
スケジュール通りまず日本で有名だという
食堂街に行きましたそこで有名な飲食店で
作る家庭からお客さんを接待する姿まで見
てみましたここで父は衝撃を受けたと言い
ました日本人は待機のために列を長く並ば
なければならない時も通行人の邪魔になら
ないように列の途中で通行人の通る隙間を
開けて立っていました西洋ではそういう
状況だったらその隙に割り込むと思うん
ですが日本人はそういう姿を見ることが
できなかったんですよそしてスタッフが
案内する席に行って座った後静かに
スタッフが席に注文を取りに来るまで待っ
ていましたそして料理を食べる時も食器が
ぶつかる音もできるだけ出さないようにし
ながら食事をしていました会話の声も
大きく騒ぐ様子ではなく周りを配慮し
ながら静かな声で話していました私の食堂
に来た中国人とは全く違いましたそして
食べ終わったら椅子をテーブルの中に入れ
て帰るんです父はその姿にずっと簡単して
いました公共の場所でこんなに静かな人
たちは生まれて初めてだと言いました言わ
れてみればその通りです必ずしも中国人
だけでなくポルトガル人もやはり日本人
ほど秩序を守ったり公共の場所で他人を
配慮したりするわけではありません食堂で
大声を出す人も多いですそしてタバコを
吸おうとする人もいるのでいつも注意し
なければなりませんとが日本に来てみると
日本人の社会意識のレベルは本当に世界一
だと言えるほどでしたしと私は日本の
デザートを作るところに体験にも行きまし
たここは講師と一緒に私たちのような外国
人数チームが一緒に料理を学ぶところでし
た講師が入ってくると父はびっくりし
ながらもしかして講師って大学生なの
とても幼く見えるけどと言うんですそう
いえば肌がまるで子供の肌のように
すべすべで綺麗でした若いのにすごい実力
だなと関心していたら急に講師が自分の
子供とのエピソードを話してくれたんです
授業を受けていた全ての外国人が皆
びっくりしていましたみんな私たちと
同じく講師の年齢が相当若いと思っていた
ようです父と私は授業が終わってもその話
をしながら別の場所へ観光をするために
地下鉄に乗りました大近時間だったのか人
でごったしていましたでもそうやって日本
人の間に埋もれてみると本当に日本人が背
が高くて父が小さいということが一目瞭然
でしたむしろ制服を着た学生たちよりも父
の方が小さかったです東洋人より自分の方
が体型は絶対に良いと自信を持っていた父
はもうそんなことは言わなくなりました
それに人混みの地下鉄から匂いがしないの
も不思議でした頭から腐ったは油の匂いを
させながら食堂に来る中国人とは違いまし
た明らかに日本人は私たちが見てきた
中国人よりも綺麗で清潔でした父は日本
旅行で本当にたくさんのことを考えたよう
です父はこれまで自分より背が低いという
理由で日本人を馬鹿にしてきましたが真実
はそうではありませんでした日本人の体系
の方がさらに良くて綺麗だということが
分かりましたそして外見とは関係なく全て
の人に親切でいつも礼儀を守る姿は日本人
の品格を高める行動のようだと言いました
父はそんな姿を見て自分が恥ずかしくなっ
たとも言いました誰かを馬鹿にせず尊重
する姿が逆にその人がもっと素晴らしく
かっこよく見えるということを知ったの
です迷惑な中国人を見分けるために訪ねて
きた日本で父は本当の日本人も知り自分の
行動を振り返るようにななりました父は
とても幸せで意味のある旅行だったと言い
ながら日本に感謝していますありがとう
ございます今私は何を見ているの急に車
から降りた人たちが避難するように走って
逃げていますその間に誰かが鉄の棒を持っ
て現れます彼は道路の片側にある水道
パイプに向かっていますその姿を遠くから
見守っていたある男性は彼の顔を見た瞬間
驚いて込んでしまいましたどういうお便り
なのか一緒に見てみ
ましょうこんにちは私はスイスで設備の
仕事をしている40代の男性
クリスティアンと申します私は今この仕事
をしていることがとても幸せでもありこれ
を可能にしてくれた日本人のいおじさんに
いつも感謝していますいおじさんと私との
出会いは30年以上も昔からの縁です私は
子供の頃日本に住んでいたことがありまし
た父が仕事のために日本に転勤になったん
ですその時母と私まで一緒に日本へ行って
5年間暮らしました初めて日本に行った時
は私が5歳の時でした日本の子供たちは私
に先に近づいてきてくれていつも一緒に
遊びながら私をあちこちへ連れて行って
くれました幼稚園が終わると母と一緒に
公園で遊んで家に帰ったりしました日本は
とても綺麗で安全な国なので母はその時私
を育てながら本当に日本に来てよかったと
言っていました母の話を聞いてみると母も
日本が大好きだったそうです幼い私を連れ
て地下鉄に乗るだけで色々なところを回り
ながら見物もさせてあげることができるし
体験活動をするところも全て公共交通区間
で通うことができるからですそれで母は
ずっと日本のインフラについて賛しいます
どこへでも楽で簡単に通えるしまたどんな
施設を利用しても綺麗で安全だそうです母
はもう日本に移住することも考えていまし
た日本で子育てするというのはとてもいい
環境だなと思っていますそのようにうちの
家族はみんな日本に対してとてもいい感情
を持っています特に私は私の町にいた自動
車整備士が忘れられませんそこはいおじ
さんが運営をしていたところです初めて父
の車のライトがつかなくなったので私の
家族はみんなそこを訪れましたおじさんは
私に事務室で飲み物を飲みながら待つよう
に言いそこに様々な自動車部品を見物して
とても面白かったですライトを全て直した
後も私はそこを離れずに見物し続けると
泣いたので両親が苦労して私を連れて家に
帰ってきたと言っていましたそしてある日
私は1人でそこへ行きが私がいなくなった
と思って驚かせたこともありますおじさん
は1人でそこを訪れた私をすぐに両親の
ところに連れて行ってくれて家の庭や他の
友達の家を探していた両親をびっくりさせ
たそうですおじさんはそれ以来両親に私を
連れてカーセンターに遊びに来るように
言いましたそこの2階はおじさんの家が
あってカーセンターの後ろには庭があり
ましたおじさん夫婦は子供がいなかったの
でお2人とも私のことをとても可愛がって
くれましたそして私はその日以来親しい
友達と一緒におじさんの庭に毎日遊びに
行きましたおじさんは庭に部品を利用した
ミニカーセンターを作ってくれました私と
友達はそこでおじさんの真似をしながら
毎日カーセンター遊びをしましたおじさん
は危険でないいろんな道具と使えない部品
を持ってきてくれて私たちはそれらで遊び
ながらとても楽しかった記憶があります
たまに両親がおやつを買ってきて庭で一緒
に食べながらおじさんおばさんと楽しい
時間を過ごしたりしましたそのように5
年間ずっと底を尋ねて遊んでいた私は再び
ススに行くことになったという父の言葉に
号泣しました日本を離れたくなかったん
です私1人でも日本で暮らすと言っておじ
さんの家で暮らすというありえないことを
言いながら泣きましたそうして私は10歳
になって再びスイスに戻り最初はとても
憂鬱でした毎日日本に帰りたかったしおじ
さんのカーセンターに行きたいという思い
が離れませんでしたしかし時間が経つに
つれて恋いさも少しずつ消えていきました
しかし学校に通い始めてもやはり機械に
興味がありました関連のある授業をする時
には必ず日本の一おじさんを思い出したり
もしました両親は私が機械に興味がある
ことを知って工学部に行って研究員の仕事
をすることを望んでいました現場で直接
設備の仕事をするのは反対しましたしかし
私は座って頭を使うことよりも現場で仕事
をする方が良かったので両親との摩擦も
ありました現実は本当に大変で多分手に
負えないだろうと反対しているんです
しかし結局は私の決定が1番重要なので
大学を選択する時建築設備学科に入りまし
た私はおじさんのカーセンターの後ろで
遊んだ記憶を忘れることができずそれが私
の将来の進路を決めるのに1番大きな役割
をしたと思っています大学の合格通知を
もらい私は日本に旅行に行きました幼い頃
からいつも懐かしがっていましたがその後
は日本に行けなかったんです両親も機会が
あれば必ず日本旅行をしようと言いました
が時間とお金の問題もあり簡単に日本旅行
ができませんでしたそうしていたらいつの
間にか私が大学生になって私は
バックパック旅行で1人で日本旅行に行く
ことに決めたのです日本に行くと思ったら
知らない国に行くよりもっと緊張しました
以前住んでいたところにも行っていおじ
さんにも会えると思うと本当に緊張します
おじさんが私を見て気づかないのではない
かと心配になったりもしましたが一方では
いつの間にか大学生になったという事実に
喜んでくれるかもしれないという気がし
ました早くおじさんに会いたい気持ちで
日本に着くやいなやすぐにおじさんのカー
センターに行きました若い男性が私に
近づいてきて何の用事で来たのかを聞いて
きたんです私があの社長さんにお会いでき
ますかと言うとその人は私が社長ですよと
いうのです私は一瞬おじさんにこんな息子
がいたのかなと思いましたすぐに気を
取り直していという以前この店を経営して
いた方なんですけど今はいらっしゃいませ
んかと聞いたんですがその人はすぐに笑い
ながらや以前運営していた方ですでも当時
家に何か事情があったと言って店を売った
後都市に行かれたと聞きましたというの
です私は全身の力が抜けてしまいそうでし
たおじさんに会えると期待しすぎたせいか
急に会えないと言われてどうしていいか
分からないほどでした私は翌日からは日本
の観光をしたんですが気持ちは相変わらず
寂しかったですがやはり日本は本当に
美しくて素晴らしい国でした以前として
人々は親切でどこへ行っても治安を心配し
なくても良いということが信じられない
ほどでした子供の頃の私はそんなことも
実感できなかったしただ両親の話を聞く
だけだったんですところがが大人になって
きてみると本当に日本のように安全な国は
ないということが分かりました私は日本
まで旅行に行っておじさんに会えなくて
とても残念でした両親も日本に行っておじ
さんに会ったらテレビ電話でもしようと
待っていたのでとても残念だっていました
仕方なく残念な気持ちを整理して私はまた
日常に戻らなければなりませんでしたそう
して大学に通い卒業を1年後に控えたある
日父が倒れたという話を聞きました全く
知らなかったのですが心臓が良くないと
いう話を聞いてうちの家族はとても
びっっくりしましたまずステントを挿入
する手術をして退院しましたが具合が悪い
と言われこれ以上仕事をすることはでき
ませんでしたそして寄りによって母まで癌
の診断を受けて手術することになりました
母は幸い手術はうまくいきましたが手術後
の治療の駐車と放射線治療まで受けなけれ
ばなりませんでした2人とも死を覚悟し
ましたが幸いにも治療を受けて良くなった
ものの治療費は私が払うにはあまりにも
大きな負担でした父は会社に務めていたの
で会社の保険を利用することができました
しかしそれだけでは賄えないのでお金が
かなり必要でした母まで手術を受けたので
私たちは家を裏ざるを得なかったんです私
は両親が今生きているだけでもとても
ありがたいと思っていたので家を売る程度
は大丈夫でしたしかしそれで全ては解決さ
れませんでしたこれまで借りていた学費も
払わなければならず今後も引き続き治療を
受けなければならなかったためです私は
残り1年の学校を休学し仕事をするために
仕事を探し始めました良い大学に入りまし
たがまだ卒業もしていないので現場で私を
雇おうとする会社はありませんでしたしか
しかし私には当てもなく待つだけの時間が
なかったし急いでトラックの運転を始める
ことになりました私は誰の顔色を伺う必要
なく静かに考える時間が多いのが気に入り
ましたいつまでトラックの運転手をするか
分かりませんが頑張らないと両親の治療費
を払えないと考え学校のことはしばらく
考えずに仕事を一生懸命することだけを
考えて暮らし始めましたそのようにバック
運転として働き始めて5年が経ちました
時間は本当にあっという間に過ぎるよう
でしたある日ふと考えてみるともう何年も
経っていたんですそんなある日私は物を
積んで市内へ行くことになりました普通は
倉庫から倉庫に配達をしますがその日は
倉庫から積んだものを大きなスーパーに
移さなければならなかったんです車も
大きいですが道が複雑なのでとても
イライラしましたそしてその日は道路で
事故が起きたのか全く車が進まずパトカー
や工事車両が集まり始めたんです車はもう
身動きも取れなかったのでどういうことな
のか気になる私は車からちょっと降りて
事故が起きたところに行きましたところが
少し前を見ると水道感が破れて噴水のよう
に水が吹き出しているのではないでしょう
かとても驚いてその場で立ち止まって
見守っていたのですが周りも誰も手をつけ
られずにいました施設担当の公務員たちは
ただ心配しながら眺めているだけで水が坂
の下の地域に流れていくつかの車は車輪
まで使っていましたそんな中待っていた
あるトラックから男性が降りてきました
そしてぼんやりと立っている公務員と会話
をして自分の車にいた人たちに降りろと
手招きしました彼らは車にあった装備を
下ろし水道艦に近づきました公務員たちは
戸惑いなもただ様子を見ているだけでした
ところがすぐにその男性の言葉に従って車
から降りた人々が一斉に動き始めました
すぐに高くそびえる水柱はなくなりました
周りでその姿を見ていた市民たちは皆拍手
をしました私も簡単すると拍手をし車に
戻ろうとしていたところ事態を収集した人
と目があったのですが私はその瞬間その場
に座り込むところでしたまさにあれほど私
が会いたかったいおじさんだったんですよ
私はためらうこともなくおじさんのとに
駆け寄りおじさんを抱きしめて泣きました
最初は戸惑っていたおじさんもすぐに私だ
と気づき一緒にぐっと抱きしめましたおじ
さんは私が日本を離れしばらくして妻が癌
で亡くなったと言いました子供もおらず妻
まで旅立ってしまうとそこにこれ以上住め
なかったおじさんはすぐに友達がいると
いうスイスに来たと言いましたスイスに来
て私のことをたくさん考えて今も時々幼い
子供たちを見ると私のことを思い出して
くれてこのように大人になってあったら
なんだか不思議だとおっしゃいました
スイスでおじさんは設備の仕事をしてい
ましたおじさんは自分が直接事業を運営し
ていましたが世界のどこの国でも日本人は
本当に基帳面で技術が良いことで有名だ
からかおじさんの事業もかなり大きいん
ですその日おじさんは私の家を訪ねてき
ました後で知ったのですが私の家と1時間
くらいの距離で暮らしていたんです久し
ぶりに会った私たちは皆感激しました特に
おじさんは私の両親を見てたくさん泣いて
いました当時とても若くて綺麗な夫婦とし
て記憶していたそうです幼い息子と一緒に
おじさんの庭で遊ぶ姿を見ながらおじさん
夫婦がとても羨ましがっていたそうです
ところが今このように2人とも病気で
苦しんでいるということがとても残念だと
言いながらですねおじさんは私にトラック
の仕事を辞めておじさんの会社で働くよう
に言いましたおじさんが手伝ってあげる
から学校も卒業しろと言うんですよ私は
仕事はしても学校まで助けてもらえないと
言いましたおじさんは私に私は良い学校を
卒業した専門家が必要だだからあなたが
うちの会社で働いてくれると言ったら私に
とってもとてもいいことなんだよその条件
で私が投資をするんだと考えて勉強を終え
た後には一緒に一生懸命会社を運営しよう
と話してくれました私はおじさんが私の
ためにあえてそんなことを言ってくれた
ことを知っていましたそして今私の知識と
おじさんの技術力で私たちの会社は年々急
成長をしているところです幼い頃に
ちょっと縁によって私の人生を平和で幸せ
にしてくれたおじさんは本当に私には天使
のような存在ですこれからも大切に思って
感謝しながら生きようと思いますここまで
私の話を聞いてくださってありがとう
ございますどうか私をもう一度送り出して
ください外国生活4年ぶりに家に帰ってき
たアメリカ人女性が毎日涙を流しながら窓
の外だけを見ています久しぶりにあった
家族と幸せに過ごす時間なのにぼーっとし
て他のことばかり考えています彼女を気に
思った彼女の父親は最終的に重大な決定を
下します一体このアメリカ人女性には
どんな事情があるのでしょうか内容を一緒
に見てみ
ましょうこんにちは私はアメリカ人の
ミシェルです私は今ホームシックになって
います普通は実家を出た後に懐かしがる
病気ですですが私の場合私がしばらく住ん
でいた日本を懐かしがっていますぼーっと
窓の外を眺めて長い間日本の話ばかりし
ながら懐かしがっていてホームシックと
同じ症状です私は4年前に日本に行くこと
になりました日本死者で勤務する人を本社
の職員の中から選んだんですが私の部署に
結婚していない人が私を含めて2人だけ
だったんです私以外のもう1人の職員はの
悪い両親と暮らしていたので行けそうなの
は結局私だけでした私はとても嬉しかった
です海外旅行でなければ外国を経験する
機会がないじゃないですかしかも仕事で
行くので生活費を心配する必要もなく安定
的に外国を経験できるなんてこんな良い
機会はあるでしょうかさらに日本死者の
場合は規模も大きく会社の施設が良かった
です量も会社の食堂で食事も供されます
月球もアメリカ本社よりも多く住むところ
と食事が解決しているので断る理由があり
ませんでしたそうして私はワクワクした
気持ちで日本に行きました日本についてみ
てとても発展した姿に私はほっと安心し
ましたそれでも私は東洋の国は初めてなの
で全てのことがあまりにも不慣れで心理的
にもとても負担でしたうまく適用できるか
心配だったんですところが日本に早く適用
することができた理由があります私が思っ
ていたよりも日本人と英語で意思疎通が
簡単にできました会社の人たちは海栄語で
会話ができるので業務的なことも全く問題
はありませんでしたでも一般の人たちと
日常生活をするには私が日本語が全然でき
なかったのでとても不便だろうと思ってい
ましたところが思ったより英語がよく
通じるので私は日本人たちの教育水準が
とても高いということが分かりましたそう
して日本にだんだん適用しいつの間にか
まるで日本人であるように自然に日本語が
出てきて日本人たちの習慣と行動も同じに
なっていましたそしていつの間にか予定し
ていた4年の期限がもうすぐ来てしまい
ますその時は急にアメリカが恋しくなっ
たりもしました実は4年間私はアメリカに
1度も帰ったことがありませんとも
忙しかったというのもありますがどうせ4
年後にアメリカに帰ると思ったらわざわざ
お金をたくさん出していきたくありません
でした家族とはテレビ電話をよくしている
のでそんなに懐かしいとは思いませんでし
たそうしていつの間にか4年があっという
間に過ぎていきましたでも実際にアメリカ
に行くとなると私が住んでいた町と家が
思い出されました友達と家族にあげる
プレゼントを買うためにとてもワクワクし
て疲れていることも知らずに市内を何度も
歩き回ったりもしましたそして私は4年
ぶりにアメリカに帰ることになりました
アメリカの空港に到着したら懐かしい
アメリカの匂いがしたんです私がアメリカ
を恋しく思っていたことを感じました長
時間のフライトだったのでタクシーに乗っ
て家に帰りました友達は私に必ずアプリを
利用してタクシーに乗るように教えてくれ
ましたアメリカには公式の黄色いタクシー
がありますがそれよりアプリのタクシーの
方が少し安いそうなんですそして自分が
好きな時間に呼ぶことができ移動経路も
リアルタイムで表示されると教えてくれ
ました日本ではすでにそのようにタクシー
に乗っていたのでアメリカの友人たちが
新しいシステムだとアプリタクシーについ
て説明してくれた時に私は一度で内容を
理解できました私は空港から出てすぐに
タクシーに乗ることができました家の前で
運転手さんがカを下ろしてくれて家に
入ろうとした瞬間アメリカに来たという
ことを強く実感する出来事がありました
運転手さんが私を呼びチップをくれと言っ
たからでした最初日本で1番最初に驚いた
ことがチップ文化がなかったということ
でしたがアメリカに戻ってすぐ驚いたのは
やはりチップ文化でした思いもよらなかっ
たお金を払ったらなんとなくもったいない
気がしました正直タクシーの料金が
タクシー運転手さんが実際に働いた分なの
になぜそこにチップを追加して渡さなけれ
ばならないのか理解できないのですそして
そう考えた瞬間私は笑えてきました
アメリカでは1度もこんなことを考えた
ことすらなかったのに私が日本に完全に
適用していたようでしたそして庭に入ると
両親が出てきて私を歓迎してくれました
しばらく抱き合って喜ソファーに座りまし
た私は一瞬両親の行動が気になり始めまし
た家のリビングで履いていたスリッパ姿で
庭に出てきてそのスリッパを履いたまま
またリビングまで入ってきてソファーに
座ったんです実際日本人が思っているほど
アメリカ人は靴を履いて部屋まで入って
くることは正直あまりありません数十年前
はありふれた習慣でしたが今では家の衛生
面を気にしたり健康への関心が高まったの
で家の中に入るとスリッパに履き替える家
がほとんどですでも私はそれも気になるん
です家の中で白スリッパを庭でも普通に
履いているんですそれなら靴を履いて歩く
のとあまり変わらないという気がして庭を
踏んだスリッパで私の寝室に入ってくると
思うととても嫌でしたその話をしたら両親
も私が日本人になったようだと言いながら
笑っていました久しぶりにあった私の家族
は遅い時間まで話し込んで時間が経つのも
忘れていたほどでした久しぶりなのでなれ
ないのか明け方に早く目が覚めました
コーヒーを飲みながらゆっくり家を見回し
ましたこの家は私が生まれ育ったところ
です庭のあちこちに私の子供の頃の思い出
が詰まっています庭で隣のメリッサと毎日
遊んでいた時を思い出しました友達と子犬
と一緒に遊んで夏にはプールを設置して
毎日水泳もしました私の部屋も当時から
ずっと同じ部屋なので随分古いですがそれ
でも部屋に入ったら本当に私の恋しい家に
来たという実感が湧きました年と距離が
少しあるので自転車に乗って地下鉄の駅
まで行きそこから地下鉄に乗って会社に
出勤しました幼い頃から大きな
ショッピングセンターに行ったり大型
マートに行ったりするには車でも数分は
走らなければならなかったので特に出勤の
道のりが遠いとは思っていなかったよう
ですそうやって毎日1時間半かけて通勤し
ていましたそう考えてみると急に数日後に
はまたそうやって質大金をしなければなら
ないと思うと考えただけでもすでにとても
疲れていて頭が痛くなりましたそしてその
心配はすぐに現実のものとなりました久し
ぶりに友達に会いに行くのにタクシーを
呼ばなければならなかったんですタクシー
台は惜しくないのにチップを払わなければ
ならないと思うと出発前からちょっと
イライラしました私たちは以前よく通って
いたハンバーガー屋で簡単に食事をする
ことにしましたとても美味しい
ハンバーガー屋さんでした相変わらず人気
店でした私は以前いつも食べていた
バーガーを注文しました待ちながら友達に
日本からのお土産も渡して日本のことを
話そうとしたらちょうどメニューが運ばれ
てきました私は昔のことを思い出しながら
興奮してハンバーガーを口に加えたのです
があまりにも味が濃くて脂っこかったん
です私はとてもじゃないけど食べられませ
んでした友達に食べてみてと言ったら
みんな美味しいと言うんです味は昔から
変わっていないそうですがこんなに刺激的
だったのかと思うほど味が濃くて最後まで
食べきれませんでした私は私の故郷である
アメリカに戻ってきてとても幸せでしたが
その後もずっと日本とはあまりにも違う
状況に適用するのが難しくなりました友達
は一緒に買い物もしておしりもしようと
言いネイルサロンにもカフェにも行きまし
たそこで感じたのは明らかに日本人の方が
技術が繊細で実力があるということでした
アメリカのネールサロンでは派手なパーツ
をつけてくれるだけで面白い絵などを描く
のは苦手なんですよ実力の差に驚きました
ところが値段は日本よりも3倍も高くて
とてもびっくりしましたそして帰る時は
またチップをあげなければなりませんでし
たネイルサロンを出てカフェに行きました
私たちはカフェに入るや否や何か想像しい
雰囲気を感じましたカウンターを見たらお
客さんとスタッフが言い争っていました
何事かと思って近くに見に行った瞬間突然
お客さんは自分がもらった飲み物を
スタッフに投げつけたんですするとお客
さんとスタッフが2人とも物を投げ合い
ながら大声を出して喧嘩していたんです
ところが周りの人たちは皆携帯電話でその
状況を動画に撮ることだけに忙しくさらに
は観光をあげながら笑う人もいるのです私
はその場をすぐ離れました私は本当に
アメリカに来たんだなと感じました実際に
アメリカ人は自分が被る損害に対しては
非常に敏感ですそれに会話が通じない人も
多いですそういう人と論をしていると結局
掴み合いの喧嘩になることもよくあります
それで正直アメリカであんな喧嘩を見たの
は初めてではありません私が今まで日本に
いたのでそんな姿を見ることができなかっ
ただけです私は日本に住んでいた時あんな
もみ合いは1度も見たことありません不満
があったり問題があってもお互いに話をし
たりもし声を荒げることがあっても結局は
お互いに我慢しながら対話で解決する姿を
かなり見てきましたそんな姿を見て大人だ
なと思ったんですところがアメリカで
揉み合いを見てみると日本人がどれだけ
レベルの高い考えを持っているのかより
確実に分かりました友達と別のカフェに
行って日本の話をしました友達はあれこれ
たくさん聞いてくるんです友達は日本に
行きたがっていました日本は綺麗で親切な
国だと言われているのでアメリカ人にとっ
てはとても良いイメージを持っています私
の友達も実際に日本に住んでみてその話は
本当なのと何度も聞かれました私は友達に
日本について話しながら日本にまた行き
たいと思いましたその日1日中精神的に
とても疲れてククでしたそれにある店で5
分間セールをするという案内放送が流れる
と人々が集まってすでに並んでいる人を
押し出して割り込みをしたりそのまま走っ
てきて物を取っていくなど大騒ぎになり
ました友達もセールに行こうと言いました
が私はその姿があまりにも馴染めず衝撃的
でさえありましたこのような姿も日本に
いる間は1度も見たことありませんでした
またどこに行ってもチップを要求してくる
のでチップ地獄に落ちた気分になりそうし
ているうちに食道でもカフェでもどこにも
行きたくなくなりましたその日家に帰ると
完全にクタクタでしたシャワーを浴びて
ビールを1杯飲もうとしたらビールがあり
ませんでした日本だったらすぐ隣の建物に
コンビニがあって必要なものがあればすぐ
行って変えたんですがここではそうは行か
ないということに気づきましたその瞬間
こんなに不便なところでどうやって暮らし
ていたんだろうと思いましたアメリカに来
てたった2日で私はとても疲れてしまい
ましたでもとても不思議なのが日本では4
年間住んだだけですがここは私が数十年
住んだところじゃないですかところが
アメリカに適用するのが日本に適用する時
よりはるかに大変でしたその成果会社に
出勤して数日もしないうちに退場方針に
かかってしまいました熱が出て体に水膨れ
ができ始めたんです結局出勤できずに病院
にたのですが予約をして医者の診察まで3
時間かかりましたその時間がとても辛かっ
たです結局ゆっくり休めと言われて薬を
もらい家に帰ってきました私は保険があっ
たにも関わらず病院費として200ドルを
払って帰ってきました両親は私を見てそれ
でも早く治療を受けられた方だと言い
良かったねと言いました私は日本だったら
30分で全部終わって治療費も1/3にも
ならなかったと思う本当にこんなところで
これまでどうやって暮らしてきたのか
分からないと話しました私は自分でも驚く
ほど日本を恋しく思っていましたアメリカ
はとても不便なことだらけでしたアメリカ
に来てみると日本という国がどれだけ先進
国だったのかが自然と分かりましたそれ
から日本人もアメリカ人とは比べ物になら
ないほどレベルの高い品格を持っていると
いうこともつづくは分かりましたそれでも
再びアメリカで自分のいい場所に落ち着く
ために努力していたところ本当に我慢でき
ないことが起こりましたまだ体が完全に
治っていなかったのでわざわざ苦労して
地下鉄に乗っていかなくても良いように父
が車を貸してくれたんですちょうど準備し
た書類も多く車で出勤して会社の駐車場に
車を止めておきました私は書類が多いので
カを車に置いて事務室に行き書類を置いて
再び駐車場に来たんですがなんと短時間の
間で車のフロントガラスが割れていました
それを見た瞬間自然と悪口が出てきてすぐ
にアメリカを離れたくなるのをやっと我慢
しましたどこで私を見ていたのかどうやっ
てその一瞬の間にこんなことをしたのか
本当にすごいんですよ私はすぐに警察に
通報して噴出届けを出し必要なものは再
発行も申請しましたおそらくカードが再
発行されるには少なくとも2ヶ月は待た
なければならないと思うと本当にとても
イライラしました以前1度噴出したカード
の再発行を申請した時は私が10回以上
電話をして1ヶ月半ぶりにやっと受け取れ
たんです車は街のカーセンターに預けて
タクシーを待つのも中途半端な距離なので
ゆっくり歩いて家に帰りました頭の中が
ごちゃごちゃして考えが多くなりました
そのようにずっと考えてみると向こう側の
車が私にずっとついてくるんです私はその
瞬間怖くなり父に電話をして大声で通話し
ながら歩き途中で父の姿が見えるとその人
たちはその時になってようやくどこかに
消えてしまいました私は家に帰って両親に
また日本に行くと言いました不便なことは
どうにか我慢できるがもの1つも自由に
車内に置くことができ
家に帰る道も不安で我慢できないと言い
ながら泣いたりしました母は元々そんな
ところなのになぜ急に大変だというのかと
聞かれました私は元々何も知らなかった時
はみんなただこうやって暮らしているだけ
だと思っていたけど日本に行ってみたら
みんな自由にやりたいことをしながらも
安全な生活があったそれを知ってしまっ
たらもうアメリカでは暮らしていけない私
はまた日本に行くと話し何より安全のため
だと言うと両親もこれ以上は止めません
でしたそれで私は今また日本死者に申請し
ているとこです会社では経験者が行くと
言ったらもっと喜んでいました私も早く
日本に行ける日を楽しみにしていますこの
ままじゃ皆すぐに力がつきそうです
ベトナムの空港で迷子になってしまった
外国人家族がいますみんな事前に準備した
水と食べ物でしいでいますがこの家族は何
も食べられず今にも倒れそうな状況です
冷静に眺める人々の中で涙を流している
だけですその時遠くから近づいてきた男性
が何かを渡しそれを見た外国人家族はその
場で越してしまいます空港で一体何が
起こったのかお便りを一緒に見てみ
ましょうこんにちは私はデンマークに住ん
でいる50代の専業主婦エマですもうすぐ
暦になるおばあちゃんです私には4人の
子供がいますその中で末っ子のハナについ
ての話をしてみようと思いますハナは
私たちとは異なり日本出身の子供ですそう
ですハンナは私たちが幼稚園組をした子供
です私は20代で結婚をして3人の子供を
授かりました我が家の子供たちが大人しい
方だからか苦労せず子育てしてきました夫
とはボランティア団体で会いました大学の
時から活動していたんですがある日個人に
ボランティア活動に行くことになりその日
初めて活動を始めた夫に出会いました私が
経験者として夫にあれこれ説明しながら
親しくなり結婚まですることになったん
ですそれで私たちは結婚前から陽子縁組を
考えてきましたしかし義務的だったり負担
を感じたりしながら決めないようにしよう
ということで自然に結婚後に妊娠して子供
を産みました2歳違いで子供3人を産んだ
ので子供たちがある程度大きくなるまでは
心の余裕がありませんでしたそれで容姿を
迎えるという考えどころではありません
でした子供たちが大きくなってから私も
余裕ができて以前夫とした話を思い出し
ました3人の子供を育てたので育児には
ある程度自信もありその間に夫の事業も
成長して経済的な余裕もできたんですよ
支援組を決心した後私たち家族は皆新しい
家族を迎える準備をしそのように出会った
子供がまさにハナです数年ぶりに赤ちゃん
を見るととても愛らしくて可愛かったです
ハナは私の家に来た瞬間から家族全員から
アレンばかりの愛情を受けました子供たち
は自分がハナを抱っこすると言って毎日
喧嘩し夫と私もハナを見ていると時間が
経つのを忘れるほどとてもも幸せでした
どうしてこんなに素敵な子供がうちの家に
来たのか信じられないほど感激しました
ハナが最初に歩き始めた日は家族全員が
一緒にリビングで話をしていましたいつも
のようにソファーを掴んで立っていたハナ
が大きな子供が呼ぶ声に反応しそちらに
行くために突然手を離して23歩歩き始め
たのですその瞬間家族全員が大声をあげた
ためハンナは泣いてしまったりもしました
私たち夫婦は3人の子供を育てながらも
まるで初めて見るように喜んでいたんです
たまにハンナが育つ姿を見ながら色々な
ことが思い浮かびましたこんなに可愛い
子供に何があってこんな遠いところまで
来ることになったのかとあれこれ考えて
みるとハナがとても気の毒で涙が出たりも
しましたしかしハナは完璧に私たちの家族
であり私たち夫婦の娘だと思って大切に
ようと思いましたそのようにハンナは家族
全員に愛されながら育ち学校に行くことに
なりました中高校に通っていた頃はハンナ
を人種差別をし無視する子供たちがいまし
たしかしそのような待遇を受けていること
を知った姉兄たちはじっとしていません
でしたその子を尋ねて2度とハナを苦しめ
ないように叱ってあげましたそうして
楽しく学校に通っていたハンナはいつの間
にか大学生になりまし
ところがある日夕食の席でハンナは日本に
高官留学生を申し込みたいと言い出しまし
た私たち家族はその瞬間何も言えずお互い
で目を合わせているだけでした他の国だっ
たら勉強をするために行くと思うでしょう
が日本に行くという言葉に一瞬半が自分が
生まれた国に帰るという言葉のように
聞こえたんですふと夫が静かになんで日本
に行くのと聞きましたハナは何事もないよ
に私が生まれたところじゃないですか
どんな国なのかも気になるし自分の専門
分野の勉強をするには日本の学校の方が
専門的だという気がしたんですと答えたの
です私たちは普段ハナが母国の日本と自分
が用地になったという事実を自然に
受け入れられるために日本語の塾にも行か
せテレビで日本と関連した映像が出ると
ハンナを読んで一緒に見たりもしました
そのように自然に日本に接するようにした
のはハナが日本人だから母国を自然に
受け入れるようにするためだったんです
ところが急に自ら日本に行くと言ったので
まるで私たちから離れると言っているよう
で不安になりました私はハンナの計画を
詳しく聞く前に絶対日本に行くのはダメだ
と言いましたところが家族の誰も私を止め
ませんでした多分その時は皆私と同じ
気持ちだったようですしかし旦那は再び
自分の考えを明らかにしました今皆さんが
私の唯一の家族ですそれは変わりません
ただ私が日本人だというのも事実じゃない
ですか私と同じような顔立ちをした人たち
が住んでいるところに行ってみたいです
日本を直接体で感じてみたい気持ちになり
ますと言っていました私たちは最終的に
ハンナの日本域を許可せざるを得ません
でしたまるで永遠の別れのような不安と
心配がありましたがハンナのこれからの
人生に勇気を上げ激励をしてあげることに
して気持ちを切り替えました日本域が決定
をしてから準備は着々と進みました交感
留学生の場合はすでにハナが全て調べて
申請までしていて私たちはハンナと少しで
も長く一緒にいることしかできませんでし
たそうしてハンナはついに日本に行くこと
になりましたいくらハナの国だとしても
初めて家族と離れて海外に行くのでかなり
心配をしていたのですが幸いハは慣れて
いるようでした学校の量につくや否や写真
を数十枚送ってきました学校の施設が
とても良くて特に両施設がとても綺麗だと
喜んでいましたそれにみんな英語が上手な
ので不便がないというのでとても良かった
と思いましたハナは性格がとても良く何事
にも肯定的で積極的でした学校の友達にも
自分は容姿で家族はみんなデンマーク人だ
という話もしているそうですそして友達に
私たち家族の話をしてあげると家族でお
互いに愛情を表現する姿を羨ましがるそう
ですでもハナがとても良い話ばかりするの
が一方ではちょっと心配になりました家族
が心配するんじゃないかと思ってわざと
そうしているような気もしたんです私が
いつもハンナの言葉を疑うように問い返す
とハンナはよくビデオ通話をしてくれまし
たほらお母さん日本は交通がこんなに便利
だよ車がなくても全く不便せず通うことが
できるよこんなに最高のインフラを持って
いる国は見たこともないそして道路を
ちょっと見てとても綺麗だよねと言った
ように日本のあちこちを見せてくれました
しかしいくらハナが良いと言っても私は夜
に出かけるのが一番心配でした日本は安全
だと何度も言いますがデンマークも安全な
国なんですよ世界で安全な国として有名な
ところなのにハンナは仕切りにデンマーク
よりずっと日本の方が治安が良いというん
ですそしてある時地下鉄に乗って学校に
行ったら他のお客さんがびっくりしながら
カバが開いていると教えてくれたそうです
ハナは地下鉄ですりにあったと思って
びっくりしたそうですしかし鞄が開いた
隙間から財布がよく見えているのに何も
取られていなかったということです
イヤホンを取り出した時鞄を締め忘れてい
たということでした日本だとこうやって
財布が見えても盗まずに帰って鞄を閉める
ように言ってくれるそうでおそらく財布を
椅子に置き忘れても当然見つけることが
できたはずだと言っていましたデンマーク
がいくら安全だと言ってもそのような場合
に財布が見つかることは非常に珍しいです
ハナがずっとこのようにありえない話を
するので私はますます信じることができ
ませんでしたうちの家族は1年に1度は
海外旅行をしているのですが今回は日本に
行ってハンナに会うことにしましたところ
が私たちが行けばハンナは旅行にならない
のでまずベトナムでハンナにあって休暇を
楽しんで一緒に日本に行く計画を立てまし
た旅行自体よりは数ヶ月ぶりにハナに
会えると思うととても幸せでしたそうやっ
て私たちはベトナムで会いました抱き合っ
て感激の涙を流しました家族と離れて1人
で苦労しているだろうと思ってハンナを
ゆっくり見てみましたするとハンナは顔が
さらに生き生きして見えました化粧も自然
で綺麗になっていましたし肌もさらに良く
なったようでした元気に過ごしていたと
いう言葉が事実のようで安心しました
私たちはベトナムでとても楽しい休暇を
過ごしました久しぶりに家族全員が集まっ
て休暇を楽しみ夢のようで幸せでした
そして私たちは日本に行くために空港に
行きました日本に行くという事実にハンナ
はとても嬉しそうでした私たちに日本を
紹介することを考えるとワクワクするそう
です見るものも多いしおいしいものも多い
と言って早く行ってみせたいと言ってい
ましたところが空港の雰囲気がどこか尋常
じゃないんです案内放送を聞いてみたら
天候のせいで飛行機の離陸時間が変更に
なったそうです2時間ほど遅延するという
ことでその間に簡単におやつも食べて
カフェで飲み物も飲みながら待っていれば
いいと思いました日本域の飛行機なので
ほとんどが日本人でした彼らを見ると
ハンナと見た目が似ていたのでもっと興味
が湧きましたそうしているうちに日本人の
行動も詳しく観察するようになりました彼
らはこのような状況でもかなり興奮したり
怒ったりする人がいなかったんです空港
職員の案内によく従っていて1人で目立つ
行動をして他の人たちを不便にさせる人が
いませんでした空港に行けば12時間遅延
することはよくあるんですところがその度
に必ず大声で抗議をする人がいますところ
が日本人は秩序を守りながら空港の売店
などで水やパンなどを買ってゲートの近く
に座っていました私たちはもう少し待って
いれば出発できると思っていましたが急に
大型台風のため空港の外に出るのも自生し
てくださいという案内放送が流れてくるん
です当然飛行機は飛ぶこともできません
でしたその時私は水とおやつを何も持って
いないことに気がつきましたそして売店に
行きました先ほどの放送でドットをしせつ
たちのせいで物が全部なくなっていました
私たちは再び席に戻って待つしかありませ
んでしたどうすればいいのか分からず
パニックに陥った私とは違い日本人は
のんびりと待っていましたそのように空港
の滞在時間が長くなりましたすると
だんだんお腹が空いてきましたハナは鞄を
探したら雨があると言って1つずつ配り
ました私たちはそれでも食べようとみんな
口に入れましたその姿を前に座っていた
日本人が見ていました私は彼はきっと
私たちに近づいてきて自分にも雨をくれと
いうのだと思いました案の定彼は私たちに
歩いてきました私はどう言って追い払う
べきか悩んでいました近くに来た彼は鞄
からビスケットを取り出して私たちに
差し出したのです私はその瞬間とても
びっくりし悪いことを考えた自分がとても
恥ずかしかったですそして私の分はもう1
つあります皆さんは食べるものが全くない
ようなのでこれでも召し上がっていて
くださいとビスケットを渡して自分の席に
戻られていましたうちの子供たちはその人
が行くとお母さん私はとても感動したどう
してこんな状況で自分の物を配ることが
できるのハンナ元々日本人はああなのと
ハナに聞いたんですするとハナは日本人は
他人に迷惑をかけることを嫌がるから相手
が望まないのに下手に助けはしないそんな
ことがかってその人を不便にさせると思う
からでも本当に助けが必要だと思えば最善
を尽くして助けてくれる人たちだよもし
親切を施して自分がちょっと不便になっ
たり犠牲になったりしてもねと言ってくれ
ました実際ヨーロッパ人は周りに困って
いる人や不便な人がいると積極的に助けて
くれる方ですでもこんな緊迫した状況でも
できるのかどうかは分かりませんこのよう
な状況ならみんな自分のものだけを
あらかじめ用意しておいて顔色を伺い
ながらも人を助けることはないと思います
しかし日本人はこれで終わりではありませ
んでした待ち時間が長くなり周りの日本人
が私たちにパンや飲み物をくれたりしたん
ですこのような状況でそれも見知らぬ
外国人にこれほどの親切を施すということ
は本当に良いではないことだと思います
しかし日本人はまるで自分の隣人に接する
ように私に親切を施してくれました私だけ
でなく厳しい環境でお互いに助け合い
ながら耐えていく姿を見て本当にすごいと
思いましたそのように空腹を満たした私の
家族はその時になってようやく眠りに着く
ことができたんです空港でもらった布団を
適当に敷いて寝てまた日本人の誰かに
起こされました彼はもう飛行機が離陸
できるという放送が流れたとし行く準備を
してと教えてくれました私たちはそのよう
に大変なことを経験しついにハンナが住ん
でいる日本に到着しましたベトナムで大変
なことを経験したせか日本の空港について
みるととても良かったですそしてまるで
母国に帰ってきたかのように楽で日本人が
とても愛らしく見えたりしました彼らは
空港を出る時うちの家族にお疲れ様でした
と親切な挨拶までしてくれました私たちは
彼らに助けられてしかいないのにです
ベトナムでの経験は私の認識を完全に変え
ました日本人たちがどんなに親切で温かい
人なのかが分かりました彼らは冷たく
見えると言いますが実は他人の不幸を
見過ごす人々ではありませんでしたそして
私たちは日本で1週間ハンナと一緒に
過ごしながら日本がどれほど先進国なのか
も分かるようになりましたハンナが言った
ように世界で最も治安の良い国であり便利
で安全な国でした日本人がレベルの高い
市民意識を持っていることはすでに知って
いたことなので私の気持ちもとても良かっ
たです1週間が過ぎた後ハンナを日本に
残して再びデンマークに戻るのも気分が
良かったですこのように安全で親切な日本
ならハナが十分に幸せに自分がしたい勉強
ができると思ったんです私はもう一度日本
人に感謝の気持ちを伝えたいですここまで
私の話を聞いてくださってありがとう
ございます

#japan #日本 #海外の反応 #外国の反応

日本についていろんな話を面白く見せたいです。
多くの関心と愛をお願いします。

7 Comments

  1. 外人が目の前で両指をグルグル回す動作  あちこちのyoutubeでよく見かけるけど
    これを見た途端に これを見る気が失せてしまう  ヤメロや!!!

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