【衝撃】古墳の真実|小名木善行

皆さん こんにちは日本をかっこよく娘大学で ございます今回の話は教科者が教えない 日本の歴史シリーズの第13回目という ことで大和頂と古墳の広がりということで お話をお届けしていこうと思いますえ全体 の流れといたしましては最初文明の明けで 縄文時代から始まりましてえ今回は第2節 古代国家の形成前回が古代の日本今回が 大和頂と古墳の広がりということでご案内 をしていこうと思い [音楽] ます古代大和頂点の時代にどのようなこと があったのかこれを書いてるのが実は日本 初期なんですね我が国の政子としてで日本 初期と非常にまよく似たものとして乞食も あるということでしてえ元々戦前船中まで ま江戸時代からもそうなんですけども日本 の国士日本の国の歴史っていうものを学ぶ 時には初代事務天皇よりも前の時代そして また初代事務天皇以降の歴代天皇のご自席 といったようなものに関してはこれは日本 初期をベースに勉強するというのがずっと 我が国で行われていたことになります ところが戦後GHQが入ってきましてえ 日本の広告主観と言いますけどもこれを 全面的に否定をしてそして神話を子供たち にではいけないという話になった日本初期 をベースにした教育っていうものが禁止さ れまして昭和22年には文科省がGHQの 移行を受けて歴史教育そのものを廃止して 社会化に統合しますということになった 社会化では社会人としての常識まある意味 世界的な常識の中で日本の歴史を教える しかないということになってきますので 我が国の歴史書である日本初期をベースに 教えてはいけないということになってでは どうするのかという話になった時にに外国 の文献を使いましょうということになって いったわけですでその外国の文献を用いて 日本の古代っていうのを考えていこう当然 のことながら中国の文献なんかを見ますと 中国が世界の中心であってまさに文明の 中心であってで周辺の国は万意つまり日本 というのは遅れた国なんだというそういう 歴史認識に立ちますのでまその範囲でしか 我が国では歴史を教えることがなくなって しまったという風な流れになるわけです そうした中におきましてこのま一部神話 っていうものはやっぱり国民の アイデンティティとしてとても大切なこと だということで日本主がダメなら乞食が あるじゃないかていう話になって乞食を 中心としたあ神話教育を復活させようと いう風な動きが始まっていくまこれは

あくまでも民間ベースで大国主が稲葉の 白うさぎを助けたとかいったような話が 絵本になったりいろんな形でえ伝えられる ようにもなっていったという風になるわけ ですただああくまでも我が国の歴史学会 っていうのはGHQによって一旦制限を 受けた範囲内でしか今も動いていないと いうことになります外国の文系を元に日本 の歴史を見るということになって日本初期 に書いてあることは全部イチだみたいな話 になったんですけれどもその外国の文献見 ますと実は日本初期と同じことが書いて ある例えばこちらにあります新東女という のがありますそこに日本電というのがあり ますこれは世紀に書かれ本になります何が 書かれているのかって言いますと日本は イニシエの我が国なり今を去る今去ると いうのはこれはあの東の宮の長案ですね ここを去ること1万4000人そして白木 の国の東南にありますよそして海の中に ありますよまそうですわね白木ってのは 朝鮮安島ですその和国には彦の子の神無が 立って改めて天皇を豪して大和の州に移っ て本の州というのは要するに機内です機内 に移って統治をした次は水勢次は安寧次は 遺徳次は交渉次は天安次は高齢次は高原次 は開花次には崇人次には水人え次は傾向次 は政務次は中合というこれ歴代天皇の名前 です日本初に書かれている歴代天皇の名前 が登場チャイナの歴史書にそのまんま 乗っかっているもちろんこのチャイナの 歴史書というのは日本初期をを参照して このように書いたのかもしれませんけれど も日本初期は任務天皇のことは神山と彦の つみことって書いてるんです事務天皇とは 書いてないんです日本主が生まれたのが アカ時代ですねこの登場が生まれたのは 1060年ですから平安時代で奈良時代に 関風死合と言いまして歴代天皇のお名前を 漢字2文字で表すっていうことが行われ ましてその時の名前を使ってるわけです つまりこの が引用してるこの歴代天皇のお名前という のはこれは日本初期を参照したんではなく て日本初期に書かれているものをその後の 歴史の中で我が国が天皇の名前を感じ2 文字で表すようになったその名前を採用し て丸ごと日本殿の中に書いているという ことになりますま当然ですわねただしこう 書いてあるということは日本初期に書かれ ていることやが嘘じゃないよっていう話に もなるわけですでまたこちらにあります 東女これ旧東女と書いて区東女と読むん ですけども西暦945年10世紀の長に 成立したものになりますここには和国は

イニシエの和国なりこれ同じことが書いて ありますね和国だで日本国は和国の別種 なり日本国っていうのは和国と違うんだよ と別なんだよその国は日出の方向にある上 に日本と名付けだという風に書かれてい ますイニシエの罠国だ別な主なんだと書い ているんですが要するに元々は和国と言っ たそれが和国という名前に変わったその 和国が今度は今は日本という名前を名乗っ てますよという風にここには書いてるわけ ですさらに登場よりも少し前の随所の方に 行きます西暦636年ですから日本主が 成立するよも前になりますけど和国には 麻山がありますその岩山ゆえなくして非 起こり天に接することありという風にれて います麻山が噴火をしてが天にバーっと 登ってくという様子が書かれてるわけです ここでは和国に麻山があると書いてる つまり九州に和国があるという風に書い てるわけです従いまして登場で言うこの 和国というのは元々九州にあったで九州に あったんだけれどもそれがあ今は日本と 名前をつけてますよどうして日本と名前を つけてるのかと言うと九州の和国の彦の この任務つまり初代任務天皇が大和地方に 移って初代天皇を名乗ったんですよという こう流れが書いてあるですこれ丸ごと日本 主に書かれていることと同じ内容になり ますま実際え事務天皇は九州の宮崎を出発 して事務統制東へ東へと向かっていって ついに大和の国に入ってで柏原の地に都を 開いたっていうのがこれが日本主に書かれ てることになりますよねその通りのことが 外国の文献にも書かれているつまりこれ何 を意味してるかというと日本初期に書かれ ていることが丸々 正しいということの証明になるわけですで そういう意味ではその日本初期をただ GHQに言われたからいつまでも見直さ ないということではなくてしっかりと日本 初期を改めて我が国の国士として読み解い ていくということはこれは必要なことなん だろうなって思うんですが皆さんはいかが 思われるでしょうかねえということであり ます [音楽] この昔の和国なんですけども和国には麻山 があったじゃあ九州だけが和国だったのか って言うとどうやらそうではないま色々 こう見ていくとここに日本列島があって ここにあの小笠原諸島マリワナ諸島そして ここにガム島がありますこの辺にパラオが ありますでこっちが琉球諸島になってまし て台湾があってフィリピンがあってという 格好になってるんですけどもこれがです

ですねこの日本列島から島々の広大なこう 海洋エリアそして北は北海道からずっと 登ってきましたアリューシャン列島から こう島がつっておりましてこれずっと行く この1番突端に何があるかと言うとこれが ハワイ諸島になりますハワイにはあ やっぱり昔からの伝説がありまして自分 たちは日本からやってきたという伝説を ハワイの人たちは持っていますさらに南米 に行きますと南米のペルの神話っていうの は我々の祖先は日本から渡ってきた海を 渡ってきたベーリング会議を渡ってやって きたんではなくて日本から直接渡ってきた 生えある民族であるということがこれ神話 として残ってるこれあの実は日本国内では そのことを本にして紹介してるものが全く ありませんただ実際にペルに旅行行きます と向こうの現地のカドさんが自分たちは 元々日本人なんだとでそういう神話がある からペルーで日本人が大統領になったり するわけですという風に繋がってきますだ から歴史っていうのはずっと繋がってるん ですね断切さして考えるんではなくて歴史 をずっと連続したものとして考えていくと いうことが大事なんではなかろうかという 風に思いますそしてえ古代大和調定に関し ては日本初期を見ていくと非常に詳しい 経緯がそれぞれ書かれているんですけれど もところが外国の文献を中心として考える とこういう風な程度の内容とものしか出て こないただこれがはっきりとした具体的な 異物となって登場するのがいわゆる古墳の 時代という風になってきますこれま人徳 天皇量ですけれども古墳が生まれるように なってからの時代のことを今では学校で 古墳時代という風に教えますこちらはです ね石野広信先生の全国古墳変年修正という 平成7年に出版された本の中で石野先生が 図にされたものなんですけれどもこの縦軸 がこれが年代です西暦200年300年代 400年代500年代600年代という ことになってますそして横軸にありますの がこれが九州え山陽四国近畿地方東海関東 東北ということで横軸が要するに日本 レット地理的な関係になりますでこうして みると最初の古墳があ現れたのがこちらの 巻向古墳ということになりましてえ次に この辺り橋古墳という非常に大きな興奮が 作られた これは奈良ですね最初に古墳が作られたの が奈良であるということになりましてそこ からあだんだんだんだんこう古墳が西の方 に広がっていくこの辺りが京都ですこの 辺りが兵庫になりますつまり奈良の辺りで 古墳っていうものが作られるようになり

それが京都兵庫へと電波しさらにどんどん どんどん西へ西へと進んでいって正暦 300年代ぐらいになりますと九州地方で も大きな古墳が作られるようになっていっ た一方でえ少し時期は遅れますけれども 定理300年代の真ん中編から東北地方で も盛にえ古墳が作られるようになっていっ たといったようなことがこの図で分かる わけです作山というところに巨大な古墳が あるこれ山陽地方ですねいわゆる人徳天皇 量という大きな古墳が西暦400年代 ぐらいには誕生するようになってきてその 後古墳はご覧いただくと分かるんですけど も古墳がどんどんどんどん大型していった かと思うと今度はだんだんだんだん小型が していきます最後の方になりますと単純な 丸い形に変いきますこちらね元々前方公演 墳のような形だったものがだんだん だんだんこう略化されてついには高松塚 古墳なんていうのはまんまる天部天皇の 五良もまんまるといったような形にえま 割と略化されて最終的に古墳が作られなく なっていくという風な形になります最後の 古墳が作られたのが大体西暦700年 ぐらいえこれ以降は古墳は作られなくなっ ていったという風な流れになるわけですで このっていうものがそもそもなぜ作られた のかっていうことが実は古代大和頂を 考える上において非常に重要なファクター ということになるわけなんですがこういう 動画があります酒石市が作ったあ動画でし て酒井動画チャンネルというところでこれ あの8分バージョンとか30分バージョン とか長いもの短いものいろんなバージョン があるんですけどもここで1600年の時 を超えて世界文化遺産登録を目指すもず 古い1古墳具つまり人徳天皇料のことです 人徳天皇料を中心とした古墳具について こういうま動画がね紹介されています検索 いただければあのYouTubeでいつで もご覧いただくことができようかと思い ます今人徳天皇領というのはこれはあの 世界遺産登録されましたけども世界遺産 登録しようねっていうことで作られた動画 になります私たちの街には古墳がある なんていうことが書いてあったりするわけ なんですがこちらの放送の中でこれは堺氏 があ我が国の有識者って言いますか興 なんかの研究者つまり我が国の歴史学会の 大学の先生なんかにお願いをしてそして 古墳がなぜ生まれたのかということをこの 中で解説をしてるわけなんですが人徳天皇 領の映像がありましてこれが古墳ですとで ここで紹介してるのが古代の日本そこでは 土を高く盛り上げた球を持つつまりこう

いうね盛とした墓が数多く作られましたと アナウンスがありますそれが古墳です古墳 は3世紀の中頃から8世紀の初め頃まで およそ450年にわって作られその数は 日本全国におよそ20万期とも言われてい ますいうナレーションが入りますさらに 進んでいきまして古墳のこれま断面図なん ですけども古墳の大きさや形の違いは葬 られた人の地位や力の大きさを示している と考えられつまり古墳の大きい小さいと いうのは権力の大償と考えられ日本の古墳 文化の特徴の1つですもず古一古墳軍 つまり人徳天皇領のあたりにあるたくさん の古墳というのは当時の社会構造を伝える 貴重な証です力量国家が成立する前段階に 有力な市長の政治連合のも墓のあり方で 統治をするという世界でも珍しい統治系が あったことを示しているこれが古墳なんだ という紹介になっています果たしてそう でしょうかあの今のこの文章をね前の ところから見ていきますと3世紀の中頃 から8世紀の初め頃までおよそ450年に わって作られたんですよという風になって ますけどもさっきのこの図3世紀っていう のは西暦200年代の中頃この頃から作ら れていったこの辺りの記述は確かにその 通りということになるわけなんですがホム られた人の地位や力の大きさをこの分球の 大きさで示したんだていうんですがそんな ことでこんな山作る必要あるんでしょうか この人徳天皇領の辺りに行ってちょっと東 の方を見ると山だらけですよもう山なんか いくらでもあるじゃないですか自然の山を どうしてじゃこにしなかったんですか大和 地方だったらば大和三山と言われる耳ね ありますよねどうしてあの山は山と三山と いうのは興奮にされなかったんでしょうか 目の前にちゃんと元からある自然の山が あるのにどうしてわざわざ盛としたん でしょうかそのことに対するこれ答えに ならないんですよねさらに番組が進んで いきますもず古一古墳群のもう1つの 大きな魅力は埋葬者と共に納められた服装 品の豊かさですえもず古古墳群からは服装 品として金や同性のグ金や銅で作られた バグ鉄正の武器などが出動していますこれ らの品にはここ中国や朝鮮半島などの影響 が見られますとこのように述べています 果たしてそうなんでしょうか人徳天皇の この五良の形これと同じようなものって 中国や朝鮮半島にあるんでしょうか もちろん今の話は服装品の話ですよでもこ れってあの中東の方のマナの壺って言い ましてお米を蓄える壺の形があるんです けどその壺の形そっくりですむしろ金や同

で作られた服装品なんですけどもチャイナ 式というよりもむしろ数々の服装品という のは中東地方の影響を大変に大きく受けて いたという見方もできるんですどうして 中国や朝鮮半島だけなんでしょうかよく わかんないですよねさらにこちらね当時の 後報で人徳天皇領古墳を築造するためには 1日最大2000人のべ680万人を動員 し15年8ヶ月もの歳月がかかるとも試算 されていますこれは大林組でえ以前試算し たものですねもず古一古墳軍が気づかれた 頃は大阪湾の海が今よりもずっと近くまで 迫っていました巨大古墳の異様と存在感は 会場からも感じることができたでしょう 巨大古墳は当時の人々に王の偉大さを資格 でアピールをするためのものだったのです このように述べられていますこれが要する に今あの学会での通説のようになってます ねただですよこれも不思議なことですけど も述べ680人動員1日最大2000人を ね15年8ヶ月の間ずっと動員するわけ です1日2000人この毎日働いてくれる 人たちにはちゃんとおまま食わせなきゃ いけませんよねそのお米どうするん でしょうかあるいは飲み水必要ですよね あるいは寝る場所必要ですよねあるいはお トイレ必要になりますよね そういうものはどのように手配していたん でしょうか遺幹線延べ680ま人分ですよ 当時の人口が大体500万人ぐらいとも 言われてますけれども当時の人口よりも さらに多いぐらいの人数が15年間ずっと 働き続けたわけですその人たちの飯はどう やって用意したんでしょうか人間食わ なかったら死んじゃうんですよ要するに 西洋とかチャイナなんかの昔あったような そういう強制的な手段でこの古墳を作った んですよという風に言いたい王様の偉大さ を古墳の大きさで示すというそういう風な ものすごくえぐい社会だったということを 言いたい日本は一部の権力者がいっていた だけのそういう国だったということ言い たいということはよく分かるんですけども 本当にそうだったんでしょうか今こう見て きた中でもこの動画の中で説明されていた 古墳に関しての様々な古墳はこういうもん なんですよ普通に考えてだろっていうのが 次から次とボロボロと出てきてるわけです 現実問題としてこのま人徳天皇領のね上空 から見た写真ですけども周り全部平屋に なってるわけですよもちろんこっから こっち側っていうのは元々は海に面してい たというのは分かりますじゃあこの 向こう側どうして平屋なんでしょうか今 たくさん家が立ってます家が立ってます

けども拡大すると分かりますがちんと 四角く区切られてるでしょ道路が分かり ます縦をにマス目になってるでしょこれ どうしてこうなってるんでしょうかっって 言ったら元々これ1個1個が1枚1枚の 田んぼだったんです元々全部田んぼだった んです田んぼっていうことはここに水引い たんです水引かなかったら田上できない ですからということはこの広大なエリアが またの全部田んぼだったってことですでも ですよこんな広いエリアが全部綺麗に均等 にまっただっていうそんな地形って世に ありますかないでしょ地形っていうのは 自然にできたものであれば必ずデコボコし てるもんなんです早い話大きな川の真ん中 にあるこう中須みたいのあるじゃないです かあの川の水がだんだん減ってくるとこう 真ん中に三角数ができますよね三角ご覧 いただいたっていいですよデコボコして ますよでも田んぼにするんだったら水を 貼らなくちゃいけませんからまたにしなく ちゃいかますこれだけの広大な地域を デコボコを全部鳴らして田んぼにする しかも田んぼに水を入れるためには水路を 全部作んなくちゃいけないそれだけの大 規模な土木工事が行われたっていうことの これ証拠でしょ今も残るそれだけの大規模 な土木工場をやったらそこで出た残土どう するんでしょうか出っ張ったところを崩し てまたにするわけです水路を引くためには 全部穴掘らなくちゃいけないんです当然 たくさんの山道が出ますその残をどうする んでしょうか今だったらそれは砂利 トラックに入れての埋立工事に使えますで もこの時代まだ砂利トラックないんですよ 10T車ないんですよ軽自動車の軽トラ さえもこの時代はまだないんですよじゃ どうするんだということになったらどっか に計画的に盛のするしかないでしょところ がですよ森戸っていうのは昔あの子供の頃 砂場で砂山を作った経験を持っ てらっしゃる方おいでになると思うんです けどその砂山って水がざーっと流れてき たら簡単にぐしとれちゃうでしょそんな 経験ありません単純に盛りとしても土を 持っただけでは大雨が降ったりした時に 全部これ崩れて周りに土砂が流れちゃうん ですそしたらせっかくの農作物が全部パー になっちゃうんです日本は毎年台風が来る んです大雨が降るんですしかもものすごく 激しい雨が降るんですその雨に耐えられる ような森戸を作るっていうことになったら 砂と土とと砂利とこれを上手に組み合わせ て崩れないような硬い山を作らなければ ならないですつまりかなり計画的に作った

ものなんだということが分かるわけです そしてこれだけの高大なエリアを開拓して 真っ平らな田んぼにするためには余った 山道を遠くまで運ぶことができませんから 最初から計画的に盛りとしてかなければ ならないということになります現代社会 これないですからこういうことできない ですからこちらにねま田んぼの写真があり ますけどもまったいらでしょ元々 まったいらじゃないですからデコボコです から地面っていうのはちゃんと水路も引く わけです水路がなかったら田んぼに水 入れることができません皮の水を積めると 水風がどんどん増してきますその水を 田んぼの方に溢れさせてダーっといっぺん に水入れるわけじゃないですか皮の水 止めようと思ったらタガじゃ水止めること ができないわけですよ大きな川から細い 水路を引いていってそこで水を咳止めそれ だったら簡単にできるで水位が上がって くれれば田んぼに水をドっと入れることが できるわけです人間っていうのは身近な ものを活用して少しでも豊かな暮らしを 実現しようとします当たり前ですよねそう いう風に考えなければならない古墳は そもそも噴気を持つお墓なのかお墓である のは間違いないですよお墓を作るために 古墳作ったのかってことんですそうでは なくて盛りしたところにお墓を作ったて いう言方てあるわけでしょから2つ目古墳 の大きさや形の違いは葬られた人の地位や 力の大きさを示しているんでしょうか王の 偉大さを四角でアピールするためのもの だったんでしょうかなるほど人徳天皇は 偉大な天皇だったということは分かります 人徳天皇量大きいですよこちら大きいです だけどこの下の方にある天部天皇の古墳 です天部天皇と自党天皇とお二方の天皇が 埋葬されている古墳になります天天皇自党 天皇といえば我が国の歴史を築いた力量 制度の歴史の根幹を築いた偉大な天皇です よその天部天皇っていうのはこういう 小さな扱いで他のご皇族と同じ程度の権力 しかなかったってことですか人身のラに 勝利してるんですよ大勝利した偉大な天皇 ですよちゃんと真面目に歴史を考えたら こんなアホな考え方ってのは出てくるわけ はないじゃないかと思うんですが皆さん いかがでしょうかそれから3つ目墓のあり 方で統治するという世界でも珍しい統治 形態などというものが存在したんでしょう かお墓が立派だったら皆さん尊敬しますか 墓地に行くとお寺さんとかねあるいは共同 墓地とかあるじゃないですか市がやってる 共同墓みたいなそこに行ったら立派なお墓

ありますよ墓石も立派で三士かなんか使っ た立派なお墓があったらその立派なお墓が あるということでああこの人は素晴らしい 人だ僕尊敬しちゃうってなるんですか そんな文化あるんですか日本にさらに服装 品には本当にチャイナや朝鮮半島からの 影響があったのかむしろチャイナや朝鮮 半島に対して日本が影響を与えていたと いうことではないんでしょうかという様々 な疑問が起こるわけです普通の宅地でも そうです普通に家を作ろうと思っても今 まで森谷林だったところを鳴らして住宅 建てようと思ったらこんな感じで残土が 出るわけですよどうすんですこれさっきも お見せしましたけど今だったらこういう 大きなトラック使って公安の港の埋立て 工事に使えるでもまだ当時はそんな トラックなかったそしたら近くに森とする しかないってことになりますもっと普通に 考えようよっって思うんですよね先ほどの この古墳なんですけども冒頭申し上げた 通り古墳はだんだんだんだん大きなものに なっていったつまりだんだんだんだん開拓 する土地がより巨大な要するにお米を作る っていうことは田保が必要ですその田保を 作るためのその土地の開拓工事っていう ものが年々巨大化していったしかも全国的 に米を作っていこうというそういう動きが 広がっていったそのための田房をどんどん 作ろうよということが全国にまさに広がっ ていったそして土木工事もどんどん大きな ものになっていったではどうして古墳が 今度はだんだん小さくなって最後は なくなっちゃったんでしょうかこれも土地 を開いて田んぼを作って水路を引くって いうことが進んできますと今度は新しい 土地を開拓した時にそこで生まれた残土 っていうのは今度は川の堤防作りに用い られるようになるんです堤防には大量の土 が必要になりますこの堤防だってただ残を 積み上げば堤防になるってもんじゃない ですやっぱりさっきも言いましたように砂 石粘土そしてこの土っていうものを上手に 組み合わせて傾斜をつけて盛SAWをする 今はこうやって住を使って堤防を作ります でも皆さんのご自宅の近くにね一級河川と 呼ばれる大きな川があると思うんですけど この大きな川どの川もものすごく立派な 堤防がありますよねこういう堤防この堤防 ほとんど全て江戸時代よりも前に作られた もんですよその頃は建設自機なかったん ですよ全部もこ担いで手作業でやったん ですじゃどうやってここまでこれだけのね たくさんの血を運んだとかと言えばみんな じゃあもっこで担いでったんでしょうか

ちょっとずつそうじゃないんです船で運ん だんです川があるか船をトラック側に使っ たんですそうすることによって巨大な堤防 っていうものを作れるようにもなっていっ た広大な土地を田んぼにした場合そこには 水を引きます水を引くということは逆に 言えば水害にものすごく弱くなるんです その水害に対する対抗策としては堤防を 作らなくちゃいけないんですでも堤防を 作っちゃうと今度田んぼに水を引くことが できませんからこの堤防に穴開けるんです ちゃんと水を取れるようにするんですそれ もまた脳波が必要なんですだって土石流が 流れてきた時にそこから堤防が警戒する 危険がだってあるわけだからそうならない ようにまるでコンクリートで作ったような 丈夫な穴を開けてるわけですそれだけの 非常に高度な土木建設技術というものを 日本はこの3世紀以降のね450年の間に 持っていたということになるわけですこれ すごいことだと思い [音楽] ますま有名なね人徳天皇人徳天皇は西暦 313年から399年までつまり4世にお いでになった天皇ですね人徳天皇といえば 民のかどは賑に蹴りという言葉が有名です これも日本初期に書かれてる言葉になり ますこの人徳天皇のご席として有名なのは 宮の工からね町をご覧になられた時にお 昼時なのに民の家から上がっているかの煙 が少ないこれは民が生活に困っているから ではないのかはい作用でございますうん そうかならば向こう3年間全ての税を免除 せよ景気が悪いからみんな家のかに煙が 立たないんですということはご飯も炊け ないぐらいみんな生活に困ってるんじゃ ないか年間にわって不興が続いてるんじゃ ないか給料上がってないんじゃないかそう いうことになったらじゃあまず消費税を 下げましょうね税金全部やめましょう現代 の日本国政府すらできないようなことを4 世紀の人徳天皇は実際に実現されたんです よ素晴らしいと思いますよねじゃあ人徳 天皇のご業績というのはただ税を辞めたで みんなが景気良くなるようにしただけなの かというとそうでは 3年間にわたって税を軽減しましたこれで もう民の生活は元気になっております是非 税を上げていただき たいいやまだじゃもう3年税を免除せよと いう話になったんですなんでそんなことさ れたのか実は民衆の中でまず最初の3年間 というのはその間ジがなくなるってことに なれば自分たちで育てたお米っていうもの を自分たちで蓄えれるようになるんです3

年あると2年分の食料を自分たちで蓄える ことができるようになりますそしてさらに 3年延長すると今度は国全体として2年分 の食料を蓄えることができるようになり ますこの時代まだ冷蔵庫ないんです冷蔵庫 がなかった時代に3年4年5年10年20 年と長期感に渡って保管できることが できる食料というのは実はお米しかなかっ たんですお米ってすごい食品なんですお米 はもまの状態と現前の状態と白米の状態が あります皆さんが召し上がるのはほとんど 白米の状態です白米の状態だとそんなに 日持ちしませんもみ舞いの状態っていうの は発しちゃいますからだからそんなに やっぱり日持ちしませんところが現前の 状態だと常温保管で20年経っても食べる ことができるんですこれすごいと思いませ んしかもお米を作るには大量の水が必要に なりますその大量の水をどうやって日本 っていうのは手にてるかと言うと毎年9月 頃になったら台風が来るわけですよ大雨 降らせるわけですよこの降らせた大雨が 大体半年ぐらいかかって地面に染み込んで 地下で水脈作るわけですよでこれが今度は 川となって流れてくるわけですよで ちょうどその頃に田があるわけですよこれ によって世界中ほとんどのどこの国でも ですよ国人といえばトウモロコシや小麦を 作るわけですね遠し畑とか小麦畑っていう のはこれ何年かに1回大体3年に回から4 年になんですけども急行地と言いまして ここで土の中にある栄養分が回復される まで1年間この片を休ませなくちゃいけ ないんですそうしないと地面の中の栄養分 がもう空っぽになってしまってもうこれ 以上コ作れませんって土がストライキを 起こすようになっちゃうわけですだから 当然急行地という形にしますところが考え てください日本の田んぼって何千年も前 からずっと同じ田んぼ使ってるじゃない ですか一切宮殿と言ってぼ休ませ るってことしませんよねどうして休ませ ないのに毎年収穫を得ることができるのか 毎年どころじゃないですよ西日本の方は2 作って言いまして年2回収穫するんですよ それ毎年やるわけですよ10年20年続く だけじゃないんです200年300年 500年1000年2000年3000年 4000年5000年ってずっと毎年年2 回こっから収穫してるわけですよなんで そんなことができるのかと言えばそれは実 は台風のおかげなんです台風がやってきた 雨を降らせてくれてその時に地面に 染み込みながら地面の中に踏まれている 様々なミネラル分っというものを大量に

抱いた状態で綺麗な水となって流れてくる わけですで水に栄養があるんですその水を 田んぼに引くわけですそうすることによっ て田んぼは休ませることなく毎年収穫を 続けることができるとうまくできてるん ですよしかも水を使って栽培しますから ものすごく出来上がったお米っていうのは 水々しいんです小麦とはもう大きな違い ですし大きな違いですものすごく水々しい その水々しいお米にさらに水を加えてご飯 を炊くわけですだから炊き上がったご飯 いただく時言ってご飯の中にもう水分 たっぷり含まれてるわけですタンパク質も 含まれてますだからご飯食べるとみんな 元気になるんです6年間免税することに よって民の間にもそして国の中にもある 程度お米を備蓄することができるような 余力が生まれてきますそうなってくると 今度はそのお米を民衆に対する報酬として 払うからみんなちょっと協力して難波の 堀江というのをこれを作ってもらえねか あるいはマダの包と言いましてこれ日本 最初の大規模土木工事なんですけども大阪 府の根川付近この辺りに巨大な堤防これを 作っていますさらに山代の久くのあに管外 陽水を設置したこれ京都府の常陽市の西北 の辺りなんですけども陽水料を作っちゃっ たさらに今度米倉としての土産と言いまし てものすごい コグをバーっと作ってくわけですでさらに ワの池ってましてなしなんですけども横野 の包みというものを作っていますこのワニ っていうのは日本最初のダム庫になります ダム作っちゃったんですでさらに考え用水 としてえ小園の大溝これを作って広大な 電池を開拓するそして国と軍の境を分けて 強度の産物っていうものをこれを進行する ということもやっていってますつまり人徳 天皇というのはものすご土木工事を推進し た天皇なんですこれによっていわゆる今 関西地区の大阪から堺にかけての広大な 平野が開けそこでみんなで盛にお米を作る ようになりこれによって人徳天皇の当時の 日本っていうのは世界で最も食べ物の豊富 なまるで天国のような国になったという ことなんですそしてそれだけの巨大な工事 を行えば当然のこととしてたくさんの森戸 っというのをしなければならない戸した ものが万が一崩れてしまっても大丈夫な ように周りに溝をうがってただ水を動かす だけではなくてここに考え様子を蓄えるで 考え用水がまた漏れないようにちゃんと 周りもこうやって囲うそういう風な形で 巨大な古墳なんかも作られていったこう 考えると古墳っていうのは残土処理って

いうものを非常に効率的かつ効果的に そして無駄がないように作っていったもの なんだということが自然と見えてくるわけ ですちなみにニ徳天皇と言いますと必ず この横ちょにね交互陛下の絵が書かれてい ますこの工合陛下の名前をあの岩姫の大き 先と言いますこんな感じでねいつも人徳 天皇のそばには奥さんがいつもいるんです 皆さん人徳天皇ばっかり注目するんですで も人徳天皇のの功績というのはこの奥さん がいたからなんですこの奥さんが読んだ歌 があります木が行き毛長なぬ山迎えかいむ 待ちかまたむとかね4種歌が残ってるん ですけどもこの奥さん人徳天皇のことが 大好きひたすら仁徳天皇のことを思い続け てる人徳天皇はその意味では奥さんに ものすごく愛された天皇でもあったわけ です奥さんに愛された男っていうのは自分 がそれだけたくさん愛されたら今度は自分 は周りのみんなを愛するようになります 結果として国を愛する民を愛するそして民 が少しでも豊かに安心して安全に暮らす ことができるようにするためにはどうすれ ばいいのかじゃあ広大な平屋を切り開いて 田房を作ろうじゃないかという話になって くわけですいさの影には女ありという言葉 ありますけれども男の業績の影には必ず奥 さんがいる夫婦は2人で一体だという風な ことも人徳天皇のお話の中に残っています またさっき出てきましたこのマダの進みな んですけどもこれについてはですね本法初 の大規模工業事業っていうことで産経新聞 なんですがえ新聞で紹介されたこともあり ますダ罪は日本最初の大規模土木工事です 日本初期に次の記載がありますどうしても 結界してしまう場所が2か所あった工事の 成功を期してそれぞれの箇所に1人ずつの 科学川の神様ですね川の神様への人柱を 立てることになった犠牲に選ばれたのは 武蔵の国の12武蔵の国ですからねこれ あの万田の住って関西でしょ関東からも人 が来てるってことですよね武蔵の国の住民 の小と川の住人の村の衣の子というねこの 2人であった小は泣きながら入水していき 太村の衣の子は瓢を使った頓知で死を免れ たあの瓢の中に空気入れといてそれをね 隠し持っててで水の中でこうあの瓢使って 酸素補給して多分一定時間経つと引き上げ たんでしょうねでその時にあまだこいつ 生きてるよということになって命を流れた 結果として2か所とも工事は成功しそれ それ小首の絶え間と衣の子の絶え間と呼ば れるようになりましたという風な記録が 残っていたりします古代のことですから 人柱ということもあったわけです神の怒り

を沈めるためにでも知恵を働かせて 生き延びたそういう子がいたんだよそれも 可能なんだよってことをちゃんとこうして 物語として残してるわけです素晴らしいと 思いますこうして人徳天皇の時代に ものすごく日本というのは発展を遂げこの 時代っていうのはまだ通過社会じゃないん ですお金を持ってるっていうことがあの 地位の象徴じゃなかったんです当然ですよ ねまだ海兵経済がないわけですからこの 時代の経済は何かと言うと食い物の量なん ですどれだけ食べ物をたくさん持ってる かっていうことが富の証しだったんです そして人徳天皇の時代日本は世界で最も 豊かな国になったんです誰もが飢えること がないうじにすることがないとにかく 食い物がたっぷりあるえそんなの天国でも なかったら無理でしょういやいや本当に そういう国があるんじゃマジすかそれどこ の国ですかどうもあの東の方にある国 らしいああいやでもじゃそんな素晴らしい 国だったら是非1度行ってみたいてなこと になりまして実は人徳天皇の時代に世界中 から多くの人が集まってきますもちろん 世界中からやってくる多くの人々っって いうのは本当に立派でかつ財力のある人 たちが日本を尋ねてやってきますでもです よやってくる外国の人たっていうのは ほとんど全員立派なの人たちばかりなん ですけれどもどうしてももれなくろでも ないやつがついてくるんですこれはしょう がないですやっぱり人間っていうのはね 立派な人たちばかりじゃない特に日本の 近くにあって自称超大国かなんか言ってる ような国がありますけどもあのあえてどこ の国とは申しませんがわがままで勝手で 特に食習慣として人を食べるという習慣が あったりするで自分の欲望を満たすために 押し込みコ働いてその家にある食い物全部 奪ってしまうだけではなくてその家の人 たちまで一緒に食料にしてしまうそういう 文化を持った人たちもいるわけです結果何 が起こったかというと日本国内で人徳天皇 がお亡くなりになられた後びっくりする ような事件が次から次へと起こるように なりました本日お話申し上げました日本の 歴史なんですけども実はこちらにあります 学校で教えない歴史の真実というシリーズ もの中のの1つになりますえシリーズ全体 はユア軸の方でご覧いただくことができ ます最初そもそも歴史とはなんぞやという ところから始まってで旧石時代縄文時代 やい時代そして現代に至るまで全部 シリーズでおそらく合計200回ぐらいの シリーズになってくんじゃないかなという

風に思っておりますさあ皆さんあなたは どこから学ばれます か あ

完全版はゆにわ塾で!:
https://online.uniwa-juku.com/content/78784?utm_campaign=ch_musubi

「むすび大学」は日本人が今こそ学ぶべき
真の教養を身につけるための教育系チャンネルです。

歴史、哲学、宗教、文学、政治、ビジネスからテクノロジーまで

ジャンルは問わず、日本が誇る“結び”の精神によって
古今東西の学問を和合させて、新しい文化の創造を目指します。

超一流の教養人から、あらゆる学問のつながりを学ぶ
知的ハイ!な体験を、あなたに。

興味のあるテーマから、ぜひご視聴してください!

【公式HP】http://musubi-ac.com/blog/

【問い合わせ】こちらまでお願いします info@musubi-ac.com ※@を半角に

【講義リクエスト】は任意の動画のコメント欄にて!

オンライン教材「ゆにわのいろは」 開運するためのグランドセオリーを、ぎゅっと凝縮したオンライン教材です。要点がしっかりまとまっていて、体系化されているので、羽賀ヒカルが伝えている開運の秘訣の基礎を一気に学びたい方にオススメです。 https://zinja-omairi.com/g/iroha

49 Comments

  1. 本来の古墳の由来を学び、感動したとともに非常に説得力のあるお話でした。小学生の我が子のために興味を引ける内容を探していたところ、本チャンネルに行き着きました。子供にもしっかりと本チャンネルの内容を教えたいと思います。ありがとうございます。

  2. ここ1週間、筑紫の神社や古墳から山にかける小高い森の地形を眺めながら、ずっと考えてたんです。「これ、絶対に人工的な盛土なんじゃ」と🤔
    動画、とてもタイムリーでした✨ありがとうございました❤✨

  3. 仁徳天皇の民のかまど。
    しかし古墳は権力の象徴であると思っていましたので、晴れた思いです。
    ありがとうございます。

  4. 日本書紀以前の日本が渡来氏族たちの微妙な関係に基づいており、それがニッポーという国名と神社・寺社の役割分担に表れていることを読み解く必要があります。
    日本書紀に書いてあることが正しいなど詭弁です。

  5. 古墳時代中期の堀を持った巨大古墳は灌漑の為の貯水が主目的だったと思います。何故なら仁徳、履中、応神、允恭の各天皇陵は丘陵の尾根部に造られているからです。堀を掘った土で墳丘を盛ったと思います。

  6. あの古墳の周りの水ってネズミ対策じゃないですか?洪水対策に高い位置に蓄えて水で動物から守れて良いと思います。

  7. 何十人、何百人居るか知りませんが、歴史学会員束になっても、小名木先生1人分に満たない知性である事は理解できました。😊

  8. 仕事で海外数か国に住み、その周辺国にも出張で出かけることがありました。その生活で明確に分かったのは、ユーラシア大陸の民族はヒエラルキー意識の強い人たちである一方、日本を含め環太平洋の人々はヒエラルキー意識が弱いのです(ヤップ島を除く)。また、ユングの深層心理解釈で言えば、日本を含めて環太平洋地域は母性原理に基づく地域で、ユーラシア大陸は父性原理に基づく地域とも言えるでしょう。現在の歴史解釈の基本はヒエラルキー意識の強い父性原理に基づくユーラシア大陸民族を基としたもので、人間の意識が根底から異なる日本歴史理解には適さないと思っています。
     仁徳天皇の皇后様についても言及されていますが、そこにも母性原理の存在が現わされていますし、天照大御神が女性神であったり、卑弥呼(これはC国人が日本を下に見ての表現で「日巫女」あたりが妥当な漢字だと思っています)や推古天皇ほか、日本の歴史に登場する女性のリーダーにも現わされていると思っています。

     ところで、韓国で前方後円墳が発見され、発掘していく中で「倭人の墓だ」と分かり、慌てて埋めた事がありました。また、稲作が縄文人による日本初の可能性も出てきているようです。このような事からもコペルニクス的発想で、「日本発」もあることを見直さなくてはならないと思っています(東北大学の先生で「大陸からの遣日使も有った」と言われている方もいらっしゃいます)。
     何でもかんでも大陸から朝鮮半島経由で日本に入って来た、と頭から信じ込んでいる学者の頭の固さには驚くしかありません。GHQ統治時代に日本の国力低下を目的として、十数万人もの日本を愛する教育関係者を一掃した一方、共産主義を信奉する教育者ばかりに入れ替えました結果かもしれません。共産主義概念の前提の一つには強いヒエラルキーがあり、それに基づいた「搾取」概念や「階級闘争」というものも存在するからです。

     仁徳天皇様が6年間免税されたことは知る人ぞ知る話(ここにもユーラシア大陸の民族とは異なるヒエラルキー意識の違いが見られると思います)ですけれど、農業生産性を高めていないと一時的な効果しかありません。彼が治水も含めて各種農業土木工事に力を入れた事は非常に重要だと思われ、そこにも触れられていることは大変重要だと思われます。
     農業土木工事が落ち着いて来るともに残土処理の必要が無くなり、残土処理の一環であった古墳もだんだんと収束していくことにも頷け、今までの歴史解釈では???な部分も大変スッキリと理解できました。ありがとうございました。

  9. 仁徳天皇と真逆の事を、30年以上続けているのが今の日本の経済政策ですね。

    経済政策の間違いを認める事が出来ずに、嘘でごまかし続けて、泥沼にはまってしまったように見えます。

    先人に学んで、減税と公共事業の拡大(財政出動)を、誰か勇気をもって行ってほしいです。

  10. 世界文化遺産に登録するということは極めて政治色が強い。地元の観光業発展に期待するのもわかるが、国際社会に認められる為に政治的に配慮しなくてはならない。海外にアピールするだけなら忖度なく歴史的真実や中立的な解釈で訴えたほうがいい。
    地元観光業の資本が海外勢中心になればなるほどブランド力を高める力も強くなるが、同時に歴史の解釈が歪められていくね。

  11. 山は神聖な存在としている面もあるのでは? 

    自然に対する畏敬の念は、現代の私達には計り知れない感覚かもしれませんが、、

  12. とても良いお話でした。利他の心が遥か昔から感じられますね。
    先生、今回少しマイクが遠いようで。ご参考にして頂けると幸いです。せっかくの内容ですのできちんと拝聴したいと感じました。
    私の動画も、聴き取り難いとコメが来ますので、私側の問題もあるかと存じます😸次回も楽しみにしております

  13. 「広大な地所の開拓で水田をつくった。

    その際出た残土を盛り土にした。

    それが古墳だ」   ちがいます。

    いまいう古墳時代はとても寒かったんです。

    非常に寒かったんです。

    ですから、

    死者を弔うとき、

    「どうかあたたかくしておやすみくださいませ」

    土のおふとんをかぶせてあげました。

    仁徳天皇はごぞんじのように庶民にたいへん親しまれ、

    崇拝されていました。

    ですので、土のおふとんもほかの誰よりも、

    たくさんのたみが土のおふとんをもちよりました。

    寒かったのは日本だけではありません。その当時、

    ヨーロッパもとても寒かったです。

    「ゲルマン民族大移動」

    寒くて北のほうじゃ生きていけない。

    ぞろぞろ南に下ってきました。

    北アフリカの小麦を搾取していたローマ人も

    たまったものではありませんでした。

    Surface temperatures in tha Sargasso Sea

    をみますと、0年から700年くらいまでは

    思いっきり寒かったみたいです。

    そのあと、だんだん暑くなっていって、

    「あついから、土のおふとんもういらんわ」

    それからもっと暑くなっていって、

    源氏物語のころはあつくてあつくてやってられませんでした。

    光源氏の住んでいた寝殿造り、

    柱はあれど、へだてる壁がありません。

    仕切りは羽衣、廊下は部屋の外、

    廊下を部屋の外にもうけるやり方は、

    いまでもお寺や神社にいくとよく見られます。

    この気温の図をみますと、

    縄文のころはむっちゃ暑かった。

    ですから、生活の中心は北海道や東北でした。

    大平山元

  14. 古墳がだんだん縮小していくのは、権力の大きさで説明しにくいですね。残土処理仮説は目からウロコですが、証明するのはすごく難しそうだな、と思いました。

  15. どうしてあの形なのか。
    あの形に物理的に力があるのか、
    もっと高次元的に意味があるのか。

    どちらも兼ねているのかも。
    豊作への祈願も感じられる。

    (後述)
    マナの壺説はどうも腑に落ちず。
    壺も逆さまになってるように見える。
    二次元でなく三次元で捉えるべきかも。
    形の遷移も目的別、文化流入の結果など
    考えられる。
    少なくとも物理的な意味合いは自分から消えた。

  16. それがバレると今のせぇふは乗っ取の泥棒集団だと日本人に気付かれてしまうから…、同胞に学者をやらせて嘘八百のストーリーをあまねく日本人に擦り込み擦り込み…。

    そして日本が完全転覆して地球上から日本中が完全消滅するその日まで
    シーッ…!!
    🤫💣

    とやってる〜〜〜( ; ; )

  17. 日本政府が未だにGHQからの呪縛から解けていないと知り唖然とした次第。
    今のような不抜けた日本政府で有ることにも納得しました。
    今の日本国リーダー達にとってはそのほうが都合が良いという事なんでしょうね。
    愛国精神のかけらすら見えないですね。

  18. なるほどなあ。実に面白い推察です。巨大古墳の後の小規模に移行したのは、仏教の伝来による現実利益を求めて、お墓を巨大化する必要性も無くなったというのがあるんじゃないかと思います。先生は権力のためではないと言われますが、大きな古墳は副次的に権力の象徴でもあったと思います。それが450年の間に現実利益の方に意識が変わってきた。大きなお墓で権力を見せつけなくても、仏教の土木建築や医学などの知識が力を持つ時代になっていったのではないかと推察します。縄文の埴輪から弥生の銅鐸、そして古墳から仏教(寺院)、そして戦国時代の力の時代に権力が移行していった。推察していくと実に楽しいですね

  19. 小名木氏の「価値」は「GHQによって断ち切られた日本の歴史を繋ぐ」だと思う。大外科手術だ。このビデオで何回拍手したか!!!当然、拡散した!

  20. なるほど、今の総理は妻に愛されてないんだ。・・・だから増税をするんだね!
    それに外国人労働者を受け入れて、国民の仕事を奪うんだ!

  21. 日本字の食糧の大半はお米 水耕栽培の為の平野地は水活用の為に水田造成をするよね水路も必要残土も出ます 用水池も必要 残土を積み上げれば丘となる

  22. 0:42: 🏯 古代の日本の歴史において、大和頂と古墳の広がりについての重要な話が展開されている。
    4:49: 💡 日本の初期において天皇の名前を2文字で表す習慣が始まり、和国から日本という名前へ変化した経緯が記されている。
    9:33: 🏯 古墳時代の始まりと古墳の発展について詳細な説明がある。
    14:21: 💎 古墳は葬られた人の地位や力の大きさを示す権力の象徴であり、日本の古墳文化の特徴の1つである。
    19:32: 🏯 古墳に関する新たな発見があり、古墳の形成に関する疑問が浮かび上がる。
    23:46: 💡 古墳の目的や歴史的意義について考察されている。
    28:32: ⛩️ 日本は古代から高度な土木建設技術を持っており、堤防に穴を開けて水を取る工夫がされていた。
    33:20: ⛰️ 台風が毎年水を降らせ、田んぼに栄養を供給することで、水を使って栽培された水々しいお米が生産され、食べることで健康に良い影響を与える。
    38:03: ⚰️ 古代の工事で人柱が選ばれ、2か所で犠牲者が出たが工事は成功し、神の怒りを沈めた。

    詳しい要約は Tammy AIで確認してください!

  23. 古墳の周りには堀があります
    古墳はその堀を掘った土を盛ったものです
    (發掘調査での古墳の斷面土層を見れば明らかです 小名木氏は古墳の發掘調査をされたことはありますか)

    工事殘土の處理の爲になぜ堀を掘って殘土を増やすのですか

    7世紀に古墳が小型化したのは、「大化薄葬令」が發布されたからです
    古墳工事殘土説は自分の主義主張を通す爲に江戸時代以降の古墳研究を踏みにじる行爲と存じます

  24. 残土処理場を芸術的な形に整えて墓としても利用するというのが日本人らしいと思いました。もったいない精神ですね。

  25. 僕は「神社、太古からの自然崇拝信仰が古墳を造った」と思っています。

    以前に茂木先生にも書いたことがあるんですが、短く端折って要点だけを書きます。

    【計画時点での話】

    田んぼを広げるために土地を開拓し池と水路も作ることになった(施工業者は秦氏等)

    ・出てきた土砂はどうするの?穢れているますよ(背丈以上の地下は黄泉の世界に通じている)

    ・その土砂はできるだけ一ヶ所に集めて、崩れないように表面を葺石で覆って、シャーマン(神主さん)に祭祀をお任せしょう。

     それでシャーマンは盛土にいろいろ祭祀用具を並べ死後も仕事部屋で祭祀を続けることになりました。

    仏教という科学が入ってくるに従いだんだん迷信扱いになっていった。

    (僕は土木の施工管理者でしたので、これぐらいなやり取りで始まったのではと思います)

  26. 古墳造りの目的は、農業用水確保のための溜池造りですね。墳墓の廻りに大きな堀を造ることで農業用水池ができます。
    葺石の目的が、土砂崩壊の土留めですか。納得です。

  27. 質問です。
    私は市原市姉ヶ崎に住んでいますが、私の住んでる地域には古墳がたくさんありますが、田園が発達する地域ではないのですが、何故古墳があるのでしょうか?
    河川も近くになく、高台です。
    否定する気持ちはありませんが、何故なのか気になり質問いたしました。
    渡辺浩二

  28. 沼地の干拓や、氾濫する河川の改修は、纒向遺跡の時代から行われていたと思います。浚渫によって掘り出された大量の石は、古墳の葺石として敷きつめられたものと想像しておりました。それが豊葦原の瑞穂の国の成り立ちであり、鉄製武具の普及よりも、大規模な稲作の発展こそが、古代大和政権の勢力拡大の上でより重要であると考えます。敢えてここで異論を申し上げるなら、天智天皇の時代の百済大寺やその後の大官大寺は、権力の誇示として絶大なインパクトがありました。仏教の宇宙観を具現化した五重の塔(五大=法身仏の全身)をあえて九重の塔にして示されるのが何かといえば、そこに時代に即した権力誇示の有り様が伺えるものと思うのです。

  29. 高度な文明であった縄文時代に全く追いついていない現代では、古墳の事などもなかなか理解できない事なのでしょう。量子力学の解明が望まれるところです。

  30. 古墳については元々教科書説明には違和感を感じていた中、数年前にこの仮説を聞いて、目からウロコでした。
    そこからたまに古墳巡りをしていますが、今は残土処理は1つの理由としてはありますが、もっと多くのことに気付かされています。
    やはり水とは関係がありそうなのと、石にまつわる技術、独特な流線型を形作るその土木技術。土偶の土と火の技術。
    出土品に見られる勾玉や鏡、宝飾品加工の技術。
    相当高い文明を営んできたことが伺えます。

    最近は、この辺に古墳ありそう、という感覚が芽生えてきましたが、あれ何なのでしょうね?

  31. 私が住む所は地方の小さな町で名は知られていませんが、小さい古墳が幾つもあります。しかし今も田は殆ど有りません。戦前までは黒ぼく土で不毛の地で、人はあまり住んでいませんでした。しかし登呂遺跡のような遺跡があり、やじりも以前はよく見つかりました。地盤は硬い所です。近くに山と川があり、山のさち、川のさちで生活出来たのかと思います。このような所では古墳は開拓ではなく、墓として造られたのでしょうか?

  32. 前方後円墳

    東の古墳とは違いますね!

    西の前方後円墳とは、聖徳太子の時代に日本へ来た在日中国人達
    中国は唐の中国人天皇政権が作った

    中国人だから、人間の生き埋めが得意( ̄▽ ̄;)

    普通に語らるてるでは?
    余りに多くの生きた人間を埋めるものだから、代わりにハニワにしたと!(¯―¯٥)

    前方後円墳は、日本本来の物では無い!
    原型はローマに有る!

    古代秦=古代マケドニアの末裔の中国の唐

    ユダヤ人が多いから、前方後円墳は、聖書のマナの壺の形は、正解では?

  33. アホすぎる。
    残土処理って、小学生の思いつき。
    古代の稲作は土地を削ってまで、やりません。
    日本の堤防の殆どが江戸時代以前にできてた?
    江戸時代の堤防は一部分だけ守るもので、今のように川全体を囲むものではありません。
    天武天皇の頃の古墳が小さいのは、古墳の大きさがステイタスにならなくなったから。
    当たり前だろ。

Leave A Reply