石井ふく子プロデューサーがゲストと語るテレビドラマ今昔物語り うらばなし ゲスト三田佳子 後編

[音楽] 田さんがなんか書くとこれ三さんがいいわ ねって言そうなんですよでもその後ね柏田 先生がこれをあなたにやらせたいわって 言ってくださったのがあったんですよでも 私これでね本当この後にまたもう1本大河 ドラマやったのかなでその間の時だったん ですでもせもこも突きはてて先生とはやり たくてもやったら死んじゃうと思ったそれ であのごめんなさい先生って言って私も 女優人生の唯一の後悔ですねうんうんそれ がややれなかったやったら本当にもう1本 芦田先生とねその代わり命は削ってたから 今頃どうなってたかわかんないですけどで も女優っていうのはそういうねあの命削っ てでもで も急だったから ねそうですねうん亡くなられて信じられ ないまだね 先生の悲しみはもうイばかりですよねだ からいつも夜の10時から11時に電話し てたうんふっとね電話のとこ行っちゃうの わかりますうんうんそうでしだから とっても辛かったですそうですねよく 乗り越えられましたよねうんうん先生と 何十年どれだけですか初めから初めから ですよね 田先生とあの石さんのプロデュースであの ま現地物語というのがあって現物語ははい はい紫やっていただいてそうねあれもね 橋田先生が自分の役でもあるからあなたに やってもらいたいこれ青いの竹下さんです ねうん私の名は紫 式部29歳の時やっと17歳も年での藤原 の妻になりましたが娘を1人設けてすぐに 別夫を失った虚しさのつれづれに筆を取り 書き始めたのが現地の物語でござい ます学者の家に生まれ地味な暮らしの中に 育った私にはせめて物語の中で己れには縁 のなかった夢を見たいと願っての手で ございました それがいつしか人に知られてついには時の 御門の中宮少子様のお父上県制並ぶもなき 藤原道長様のお目に泊まり思いがけず私は 少子様好きの女房として召し出されること になりまし た私は少子様のおそばにお部屋を頂戴し 原地の物語を書き続けるのが仕事になり ました 紫式部という名は私が紫の色が好きなので 道長様がそう及びになったのが始まりで ござい ます私もお使えしたからには皆様が物語の 先を待ち焦がれるような面白いものを書か ねばなりませ

んのはどうなっ てる様がさされましたいつもご最速が 厳しいの です今少し書いておかなけれ ば紫式部も本当にあのこうどっしりとした ね平安のね時代のうんあの雰囲気で登場し ましたねもう演出がね鴨下さんですから 鴨下さんがもうすごかったですえですね ええ絶対的でしたからねうんえ映画で言え ば黒沢さんのようなうんテレビの ディレクターとしては非常に厳しい方でし たからねですからあの私がいない時にあの 馬を何と頼むかってことがあってそれで エデさんがびっくりしてスタジオへ入ら ないそれで私のとこ言いに来たのじゃあ わかった私言からうんで言ってあの馬は 三頭でいいんでしたねてそうですって言っ ても永人怒っちゃって最初はもっと言って たんですかなんとって10等ぐらいう そんなあスタジオにね入れると入らないっ て言ってうんうんでもそのくらいの勢い でしたねうん石先生でないと止められ なかったですはって聞いたんですねさすが にだから私のとこ来たが分かった うんうんだから三東でしょてそうですって いう からでも三東でも大変なことですよ本物の 馬ですからね大変うんあの作った馬じゃ ないですから ねすごかったなだから中身はやっぱり迫力 がありますえうん衣装だって相当厳しくね そうだからあれちょっとよくわかんない 部分があったんで玉三郎さんにうんだから だもう非常に細やかでしたねうんうん 歌舞伎の人もいっぱい出てたしみんな それぞれねそんなに分からない人じゃ なかったからね着こなしたし履き物から 違いますでしょうんねだからわかんないん ですよねやっぱり子供に言ってもそうです 全部それを教えていただいてええあれまだ あるんでしょありますねん現地物語はい はいあれ3時間が2回でしたっけそうです そうですそうですそうですそうすごいよ6 時間ですよそうですそうですあのだから 現時がキャストが変わりますよねうんえ あの後半でね後半ではいあの東山君が高尾 さんになって高尾さん後半になって後半に なってね両方とも良かったですねうん時代 劇は愛に燃える戦国の女っていうのもやっ てったんですね柴亮太郎のあの原作でああ そうそう確かそのえっと豊家の人々って いう原作であのほとんど あの書いてないお服といううんあのものを ずっと膨らまして膨てえこれ太陽子さん だったと思いますはいそう大先生ともね何

度もやりましたねえテレビはですね やっぱりあのあのか下さんですねこのこの 右右側に右側 にえるあそうだあこれ西田さんが豊富の なんかやったのかな妻として即死として3 人の男に使えたとへえなかなかこれも 厳しかったと思いますよそういう役ならえ ごめんなさこれ役所さんです役所さんです ね役所さんうんえ相手が役所さんだったん ですねに続いてそう命に続いたんですえま これも大変なあの大型な番組だったじゃ ないか劇です ね石井先生こういう時代劇よく作りました ね どんどん本当に全然作れないですね へえ貴重ですよねこの当時作った時代駅は うんよくできたなと思ってそう本当ですね あとだから舞台のの方でま先ほどのね敵 同士もま時代劇ですけれどあと明治のこう いうのもえこれもやった江戸の舞踏会江戸 の舞踏会先生これはダンスができる彼をね ねキャスティングしてくださって私あの 上手にうんあのエスコートできる キャスティングだっていうことでね彼を 選んでくださって助かったんですよ江戸の 舞踏会これ淡島さんがねうんあの出てらし ててうん淡島さんがいい芝居をなさって もう一緒にね芝居できたことすごく私も うんいろんなことを勉強しました ね青島さんには随分可いがっていただいて 映画の頃からねたくさんやったんですよで 舞台で最後にこういうところで私の主役の 時に付き合ってくださってね うん労働劇もやってらっしゃるですこれが ね1番最後ですねあの石井先生とご一緒さ せていただいた佐子先生そう佐藤子先生の これご自宅へ先生と石先生とご挨拶に行っ たんですねその時のスナップなんですけど うん先生愛子先生もこれをご縁に とっっても可愛がっていただいて石井先生 があの愛子先生のこのエッセをね舞台に するっていうの愛子先生自身もこれは無理 よっておっしゃったんだけど石井先生が 絶対恥かかせないようにいい芝居にするっ て言って朗読劇なんだけどお芝居を入れた んですうんうんうんそうなんですよで地方 も行ってねうん大変評判良くてはいはい はいあの良かったですね朗読撃であそこ までえ石先生のあのなんて言うんでしょう か絶対にやるぞっていううんうんその力技 ですよねいやあの朗読をあそこまで怖さを 知らなかったんですねいえいえいえこれは ねあの石先生と一合わせかなんかしてる時 にあそのあれ90歳何がめでたいの時かな そうかもしれませんはいうん私もう70

超えてましたからどうでしょうか ね佐藤愛子さんは今100歳でいらし 100歳は辛いわよっておしゃあるんです けどお元気なのうんうん うんもう石先生がいいんですか年言って どうぞ石井先生は97歳ですからねはいで 愛子先生は100歳ですからこの2人が いる限り私は何にも言えません私802な んですけどって言いたいんだけど何言っ てんのって言われちゃいますからまだ子供 よって うん私は言わなかったわようんうんそう うん言わなかったそうでも年は言っちゃ だめよって怒られましたけど年はねうん あの東芝日代劇場でですね着物ではない 世界の予の街っていうのをちょっとお見し たいと薬丸ひろこちゃんそうですねいです あ先生がねそのキャスティングなさって 可愛いひろこちゃんが娘だったかうんそう ですね ねあれが縁でそのの後ダブルの悲劇ね一緒 にしましたけれどダブルの悲劇 [音楽] [拍手] [音楽] うん バカバカどこ行ってたの よ死んだんじゃないかと思ったの [音楽] よ言って よ言ってよ私のお母さんだっ てなぜ出てたの どうして私を捨てて出てった [音楽] のかよっ [音楽] ちゃんて私のお母さんなんでしょそうなん [音楽] でしょ そうなんでしょ私のお母さんなんでしょ そうなん [音楽] でしょ ああこれは貴重ですね本当 [音楽] ねえこういう貴重な話をたくさん作って くださってず 随分難しい役をやっていただいたそうです ねもういろんな役をうんそういうの ばっかり持ってくるこれはやれるのやって ごらんなさいはいどうぞって橋田先生も そういうとこがありましたけど石井先生も ねうんそんな簡単な役はやらせてくださら なかったうんうんね意地が あるかそうじゃないやっぱりやってみろて

いうその関係があるからこそやいつも 良かったからだから必ず違ううんあの役で ややってだらけると思ってましたうんねえ だからそれだけ認めてくださったっていう 証拠だとま今となっては受け止めてます 当時はもう本当にどうしたらいいかしら もうダメかしもしれないこんな難しい役で もやってますね必死でうんうんねおかげ様 ですよ ねこういうのやり通してこんにちあるん ですもんねうんうんでもいろんなことを私 も勉強させていただいたからうん本当に 舞台だってあやおろかのものはやらせて いただいてませんからね ね私舞台なんてうん本当に 全然やる気持ちでなかったんですうん 始まりはねはいうん どうしてもうんあのうちの親父さんがうん あのやっぱり審配でこういう現代的な家族 の話をやりたいからそれでお前あの作家に うん舞台にこれを直してやってもらいで 言ったのが君はどこにいるうんあれ最近 やりましたよね先生ねはいうちのあの長男 も出していただいてね一郎さんがやってね うんその1番初めはあの今三谷彩子さんに なってあそうかその前はねよえさんがやっ てたうんうんうんねえだから審配で私は初 部だ うんだからある洋式日っていうのかなそう いうところもちゃんと取り入れてあの先生 だから桜吹雪と雪の吹雪とかそれからあの 道行の姿とかそういうところがね全然よく わかってないですいやいやいやもうもうお 客さんが ほーってあのねどまぐらいのむちゃくちゃ でやってたから美しい舞台初めの頃は そんなものが舞台でできるのかってね舞台 のそのそれこそ経験者の演出家なんかは 随分抵抗しましたよねで先生はやりとし て維新演出の舞台っていうのがそどの ぐらいすごいかっていうところまで行き ましたからいこれもね良かったもね夢千 先生このね雪の吹雪ですよ桜吹雪に匹敵 するこの傘のねうん色をいっぱい私これ紫 見たんですよ赤紫ですそう綺麗だったです よ白の中にうん雪のねうんそれでちょっと あの白塗りをしてね今なんでもリアルに 少し映えするようにあのまこの人者さんだ しね普通のあのお嬢さんではないので少し 白塗りをしてやりましたからこうなんとも 言えないあの姿に見えたんですね うんうん衣装もこのグレーのこの何ですか うんケトみたいなねま系統の あの肩かけです これも全部合せてね先生ね色も言ってうん

だから綺麗なんですよ本当にねみんなが あって言いましたよそう本豚あの周り舞台 でやいながらあのせり上がりで上がって くるんですよ綺麗でたねえあの下からね あのもうあの平らなところから歩いてくん ですよ雪道をそれでこうずと歩いてる橋を 渡り出すでしょ橋を渡ってまだ雪が降って ツモってくるんですよどんどん実際に ふらしてるからツモってくるそのツモって きた橋の上をずっとかさしながら行くと あのだんだんだんだん競りあがっていく このあの橋がねうんそうしてもう実際に 歩いているようにしかも映像のごとく ガーっと迫ってくるそういう演出でしたね いやあこれは あの大阪の新歌舞伎でやった時はうんそう 機械がなかったのああそれだからみんなが 下へ入ってこう押しながらやってたあ橋を ねはいそうですそういうところから始まっ て何度もやってるうちに機械が押してそれ から雪の吹きもあの人間だけじゃなくて 機械でも吹かせて 天にて振ってねだからもう不がもう違うん ですよなんかねうんもう随分嫌がられまし たでもまた始まった嫌がられたと同時に やっぱりやってよかったっていうそこへ 行きましたからね今ね機械的になって つまんないけどうんあれは もうやった人たちそううわ俺がやってんだ 私がやってるんだっていうねあの参加一緒 にねこの雪のあの一瞬を作ってるんだって いう気持ちがあったからうん満足だったと 思いますねな自分でもね夢中だったから わかんないねそらでおかげでも本当にあの 何度も何度も地に入って私も手伝おう かって言ったら結構ですえちゃっねうん そのぐらいの気持ちですよねうんまそこ まで聞くとちょっと見てみたいというだ から舞台だから見れないのが残念もう1回 演出していただければと思いますね実ほ 石井先生ね何度もそうおっしゃってる よし子さんもう1度やらない夢中はね年を 取ってても病気の人だからそんなに若く なくていいのよて今の年齢で若てちょうど 千代さんのリアリティが出せる もうやろうよて度もね言ってくださった けどやはり時代の流れの中でこんな贅沢な 芝居なかなか大にならなかったねでもいい 早坂ぎさんの本でしたっけうんねこれで 先生 坂ねあったんですけどね一悶着先生があの 夢中のラストシーンが書けなくて坂先生が 大変なの明確本家なんですけれどそういう こともありますよねうんそれで書けなくて でもこの大部隊をなんとか書いてもらわ

ないと先生演出できないもうある種の喧嘩 みたいになったんです角つき合わせてで私 間には入って先生許してあげてください 待ってあげてください先生なんとか書いて 両方でやってでま私はもうこれ書けないん だったらあの私が書くわよ石井先生 おっしゃってねさすがにそう言われたら はす先生もまあ書きましたねギリギリ ギリギリ間に合っ随分生きであったね いやいやでもあのいいだ から舞台になったんですねそういう中で 葛藤があっ私を舞台でセリフが言えなく なる夢何度も見ました本ができないんで 怖くて そういう思いもしてねは早坂先生って言っ たらあのお坂そういうそういう ニックネームもあるぐらいでニックネーム があっらいたくさんNHKのあの プロデューサーの方々もかなり苦いな言い 方があって坂赤月さんとか嘘坂赤月さんと かいろんなこと言ってましたねまみがうん でもそれでもやっぱりうとと思うっていう ことはねや哀愁のある あの脚本を書いた方だったんですよねだ から私もテレビも早坂さんのでやりました けどうちの高橋もね早坂先生のあの晩バ板 記者じゃないけどあの演出家であの先生と 随分たくさんやったので早坂先生はま私も そういう関係であの親しくていいてたね 舞台もやりあのテレビもやりなんと言って もこの夢中ですねこれはあの映像でヒット した作品なんでね私は本当は嫌だったん ですこれは映像であの吉永ささんがね ヒットした作品だからこれを舞台はね私が また映画でねうん映画で成功したものを 舞台でその同じ人がやるなら当然いいです あの舞台だけ私がさゆりちゃんの当たった ものをねやるのはさすがに失礼だから嫌 だって言ったらどうしても舞台はさゆ ちゃんはやらないから舞台でやって欲しい んだよって先生がおっしゃってそれで じゃあ石井先生が演出してくださるなら私 なんとかやりまてそ先生にお願いしたん ですよしたらうんやってみようっていう ことでで私が25周年かなんかの時うんで 記念の時だからじゃあ私があなたに賞を 取るぐらいのいいものを作ってあげるって おっしゃってそれで成り立ったで私本当に 嫌だったの最初はでも最後は自分のものと してだ評論家の人たちも舞台の夢ちをて いうことで認めてくださって芸術最初を くださったそそういう曰つきのね先生の おかげいえいえ本当ですやりたいこと やらしていただいたんです本当にねこれは 舞台残せたことはねテレビでは絶対演出し

ないんですうん舞台だけね うんうんでもすごかったなあテレビは プロデューサーの役目ってのは後ろにいて きちっといろんなことをやるのと思って ずっと来たんではい自分が演出しようと 思わ ないあとあのやすさんとやった舞台も 良かったですね花道をね泰助さんと桜吹雪 の中をあの死にに行くんですよあれ石井 先生でしょうんねすごかったんですで 歌舞伎ですからねやすさんがもう非常に 美しいですからねあの所作がそれに私が ついて行ってあのやりましたねそその 道行きに桜吹雪なんですうん うんねで奥の方になるべく奥へずっと消え て消えていくっていう桜の吹雪の中に 埋もれていくよういろんな思い出が ありがとうございます本当にたくさん本当 にね本当夢はもう1回夢中をやりたいって いうそういう気持ちですねあります私もね うん本当に夢の中でやるしかないのかな もういや今ああいう舞台なかなかないから えやりたいわねやってみたいですねあれは やれるような気がする今でも分かりやすい んですよそうですねうんリアルにやれるか もしれないうん 難しい芝居じゃないからうんね人間の ドラマ芝居だからうんうんえっと橋田先生 の脚本命をかけられたっていうか疲れて しまったっていう風におっしゃってました けどいろんな方がその橋田ドラマっていう か橋田脚本にその取り組んであの皆さん 大変な思いをされてると思うんですけれど その極意と言いますかですね橋田脚本橋田 ドラマをそのあのこういう風にしてあの やったっていうそういう何かあの極意の ようなものがたらあの教えていただけない かなっていう風に思うんですけど俳優とし て俳優として橋田先生の作品に極意なんて ないですもう本当に命かけてやっぱり橋田 先生も あの他の追随を許さないっていうか絶対的 な本をおかきになるからそれに立ち向かう あの俳優たちはね極意なんてもので 独特なあのスタイルを持ちだと思うので田 先生まあの一般にはその長ゼリフとかいう 風にこう言われてますけど橋田先生のはね あのセリフを言わなければ橋田作品になら ないんですよだからもう格をするしかない んです感情をそのえっと乗っけてあの長い というかあの論理的なセリフというかそれ をこうあのやっていくっていうのは波大抵 のことじゃないかなと思うんですけどうん じゃないです私はあの橋田先生のセリフの 向こう側に入り込むことをあの心がけまし

ただから橋田先生との勝負なんですあの 長いセリフに流されてセリフの向こう側を 表現できなければ役者として負けだなと 思ってうんあのその向こう側をやった つもりですだから橋田先生もじゃあこれは どうなのあれはどうなのってどんどん エスカレートなさったと思います うん本当にね あのまこの年になるとあれですけどま生理 が止まったっていうぐらいの あの戦い方でしたね命はうんその他も柱 先生は絶対的にあなたこれやってね石井 先生があなたこれを動いてね両方ですから ねまそのその中でねやっぱりいいじゃな いって言ってもらうにはうん命削るしか ないま橋田先生はもう新しいものおかきに ならない状態になりましたけれどま何本も ね長いものやらせていただいて多いですよ ね田先生の作おになってうんそうでだから ね私橋田先生の橋田しっていうのをねなぜ かあの勢いで命はやって次へ先生も行っ ちゃったからかもしれないんだけど命で賞 をもらったことがないんですあれだけやっ てで私はね俳優のうん全てを出し切ったと 思いましたからあれで章が欲しかった章 っていうのはなんかうん何でもいいんです よそのなんか偉くなるためじゃなくてね そのご褒美が欲しかっただけどあの いただけなかったんでその後あらあなたに あげてなかったって言われたんですけど 特別症っていうのを頂いた時は泣きました あの育成そうねうんあの戦った命もちろん 結婚それも全部含めて他の現時物語も含め て橋田作品をやりのいた私に特別をいいた 時よし子さんに絶対あげたいって言って ましたですかもう私もう本当に橋田先生の 生害いきたかったんですあのただただそれ だけなんですよねうんなんか勲章が欲しい とかそういうじゃないんですね橋田先生 からのなんかご褒美が欲しかったうんうん 第24回橋田賞特別賞いですねそうですね 泣きましたいい大人になってうん嬉しかっ たですうんでも本当に命は素晴らしい作品 だったと思いますはいありがとうござい ますあの視聴率も素晴らしい視聴率だった んじゃないかと思いますねもそれはもう 橋田先生の力ですからねでもそれについて いったっていう私はね一緒にその勢い載せ てもらったあの時にあんな言葉をもらえる なんて夢夢国民的女優って言われたんです そんなことこれちも思ってなかったんです けどあの作品の力でそういう言葉を いただけたんですね橋田先生 のまあ石井先生と橋田先生は私のこの血肉 っていうかねうん血と肉になっています

から今日ここに呼んでいただいて本当に 嬉しいありがとうございますこちらこ ありがとうございますそろそろお時間に なりましたのでえこれであの終わりにし たいと思いますえ橋田文化財団のセミナー 今日のゲストは三田子さんでしたどうも ありがとうございまし たありがとうござい [音楽] ます [音楽]

石井ふく子プロデューサー制作、橋田壽賀子作のドラマ「源氏物語」(平成3、4年)では紫式部(語り手)を演じた三田佳子。宮廷女性のきらびやかな衣装に身を包み、凛とした演技が光る。出演者、美術とも豪華絢爛な作品の思い出を石井Pと三田が振り返る。石井演出の舞台「エドの舞踏会」(平成20年)と朗読劇「九十歳。何がめでたい」(平成30年)の写真を眺めながら、当時を回想する。東芝日曜劇場「装いの街」(昭和54年)で、三田はデビュー後間もない、薬師丸ひろ子と共演。動画が再生されると、初々しい薬師丸の演技を見つめ、懐かしそうだ。「うらばなし前編」でも語った石井演出の「夢千代日記」の話題が再燃。「本当はやりたくなかった」と三田が初告発。石井に明かすその真意とは?橋田作のNHK大河ドラマ「いのち」(昭和61年)で主役を務めた三田は「命をかける覚悟で演じた。全てを出し切った」と女優魂を吐露。平成27年度(第24回)橋田賞特別賞を受賞した時、三田が涙するほど嬉しかった真の理由を語る。

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