京都面白大学第61講 江原啓之×鎌田東二対談 倉本聰原作オペラ『ニングル』と「みなさん 天気は死にました」2024年2月13日

ですかアングルが分かんないうんセト君 みたいにうろなうんうんじゃあそれで参り ましょうはいそれで司をしてくださいでは あのね昨日でした10日にいい感じですよ ねねこの薄いあのシルクストローク スクリーンの背景みたいちょっとあのサ叫 さんも一瞬 験してもいいですかうんこんな感じいい 感じねなかなかあの素敵でしょはい 雰囲気君のはいそれじゃあの10日にあの ご覧になったニグのねあの話から行きたい と思いますので昨日まで本番だったから 全然ぼあのまずリグルのことをね少しその ま主演者の1人というかニグのおさ神のね 神様役しさえ江さんにねニグの世界につい てのことをお話ししてるまああのなんて 倉本先生のねあの私はそもそもその ニングルはあの芝居だとかでも見てたので ねあのオペラ化するにはとてもいいと思っ たただその中にあるメッセージがね今 とてもあの大切こんなのでもこうやって あの面白大学で言っちゃっていいのかどう かわかりけどもそのこのプログラムすごく これシュルじゃなかったですかあいいです ようんあのていうかあのこれ東京都 フェスティバルに乗ってるんですねこれ このオペラ地代がねだから最初の挨拶とあ 池先生ああそういう意味ですかはいはい ヒュルですよねそれで森を切るなうん確か に確かにジングのねねでしょちょっと森を 切るなねそれが東京フェスティバルでね あの見たシルだなと思ってねきっとねこれ 見ねあのそこはね見てなかったから 気全いやこれもね重要だと思うこの時をね この今この時に上映してるってねだって オペラってねあの何年も前に始まるんです よ発案って企画ってうんだからそれが今ね こういうことになってねで盛を切るなでね なんだかなんかあえてあの賞を受賞でき ないだろうなみたいな ここで受賞したらね大もんですよ東京都 フェスティバルもねやっぱり内容だけでね 東京都フェスティバルに参加作品として出 てるんですねこれがそう受賞してほしいね これでね受賞させてこそねなんかまとだっ て作品は素晴らしいわけだからだから やっぱりあのそれでこそトフェスって感じ がするんですけどねうんこれで排除したら ちょっとね出いそうですねうんこれを正当 に評価してしですねね正当にそうですね やっぱり音楽も素晴らしいしねで メッセージ性もやっぱりもちろんあってま ただその倉本先生おっしゃってるその ニングルていうあのニングルとあれは みんなえっとなんだっけコロボックルを

あの一緒にしやすいんだけどコロボックル は妖精なんですよねそて伝承ですよねでも ニングルは伝承じゃないないでニングルは ま実はこれあんまり言っていいかどうか 分からないけど本には書いてあるからあだ けどクラモは実際ニングルに合っている いうねあの人を書書いてありますここには ねはっきりてうんていうねでそこには あんまりでもねあの色々やりされるから あまり触れないで欲しいってことになって んですけど今はうんそうはいねそれでま 15cmぐらいでもそういう伝説ってあの ほらハワイなんかも峰船っていう伝説も あったりとかでその小さい人がいるあの ニングルっていうのはアヌ語で小さい人間 って意味なんですようんうんだからあの そのそういう人たちがいたっていう ねでそれであのまこの話自体はある意味で のその実話であるとうんいうようなことで その森を切るなってつって森を切ったか ためにあの色々とすにま開拓をねすると いうところででそれでまそことまいわゆる 倉本文学みたいなも入って混ざっちゃっ てるわけだけれどもうんあのだから今こそ 私たちはあそこの中のメッセージでね大切 なのはなんで人ってのは前ばかり見るんだ うん後ろにその戻るとかいうことはなぜ できないのかその前ばかり見てるっていう ねいうことが私はすごくね大きなテーマだ と思うんですよねていうか今 あの根底からねやっぱり見つめ直さなけれ ばいけない時に来てると思うんですようん なんか全てねあるものもその当たり前とか っていう感覚じゃなくてね例えば あのこれはちょっとあんまり言いすぎ ちゃうと問題かもしれないけども学校教育 自体ねあの本当に正しいのをだろうかって 学校っていうのは本当に行かなきゃいけ ないものなんだろうか全然そう思わないな ねうんだからだけどもそれがために今まで 多くの犠牲者が出てるわけですようんだ からあのなんか学校教育期待がなんか プロパガンダ ガだだったりとかあの色々とうんどういう ところから始まったのかっていうねで本来 教育って何なんだろうか学ぶってどういう ことなんだろうかっていうねこととか今 もう立ち返る時代今みんなだって学校 なんていくらでも行こうと思えばいける し何枚かあるんですけど 私ああ話し続けるし [音楽] た で私思うんですけどね先生と思われます あの私

あの中学を卒業した時にま高校に入ります けど奥はここに行かなきゃよかったうんは も思ってますしうんえ義務教育ですら本当 に行く必要があるのかというすら思います うん自分にとって本当に合わないものに 合わせる必要がどこにあるのかっていう風 に思いますうんだから学校の教員もずっと やってきたけれどあの50年近くないうん あの学校教育が持ってる問題点っていうの はもう山積みではいその山積の中に適合 するように無理やりこう合わせる胃に 入れるようなこういうのは あの教育として根本から間違ってる部分を 持ってるな結果があるんうん合わせる必要 がなくてその人の生き方を支援する うんうんその人の生き方の支援ので自由と それから尊厳とそれからあるてある うんこう共用できるというかあの互いに うまくいてやっていくための倫理っていう かコンプライアンスみたいな幻覚なもん じゃなくてまあしのその倫理みたいなもの は絶対必要だと思うんですけどそういう中 でん 教育の自由さというのかプログラムを選択 する自由さがあっていいと思うんですよ うんであの学校教育に行かなくても いろんな学びができるうんいろんな学びの 自由なところとかネットワークだとかそう いう風なものをこう再構築をできる選択肢 が多ければで私はその中でも内教育には ずっと 1980年ぐらいから高橋さんという私も 面白大学でして私も実はあの人学とかね 結構あのふとかも読んだことがあるんで すごくねなんか あのまた新たにね考え直したっていうか 次第なまスピリチュアリズムとしたいなの 人事学はほとんど同じなんであ新知学を ベースにしてねそれより人間的な尺でね こう最高築するかっていうはいポポをあの 共通するもで主体な教育で重要なのはです ね 7歳まで14歳まで21歳までのはっきり とそこを教育プログラムの中でづけている とこですねはいはいで早期教育は絶対ダメ もうあもう絶対反対うんだから子供の時に あのこう文字をね無理やり学ばせるとか 英語を学ばせるとかそんなことが初めに なくて子供の時はその体とか体育とか遊び とかって言ったような意思まず7歳までは 意思をきちとすむ子供が持ってるねまこれ はモチベーションということになるわけ ですけど生きるということに対する面白さ とか楽しさとか人とこうね交わるこううん 喜びとかいったものの1番根幹になる意思

っていう1人1人はいそれをとにかく あの形成するというかとをあの支援すると うん意思をねはいで次の小学科あのま中学 のええ終わりぐらいまでえ14歳までうん ええ7歳から14歳まで7年間は感情うん うんこれは音楽であるとかはいえも体を 使ってのあのパフォーマンスであるとか そういうものがこう中心になって感情と いう風なものが形成されていくということ に終点があるで14歳からその先がこうで 知世うん知的なものにこう行くんだという この段階説があるんですねうんうん地位と いう風に近内は血を一番上に置いてうんで 意みたいなものがねスポイルされてしまっ てんですよね割とね本当の生きる力みたい なものは生きる力なんて文科書言いながら 生きる力を奪ってんですよね実際はね文書 ねうんうんうんうん厚労省にですよはいな ので本当に生きるということにあの ターゲットをまずは置いて次にその生きる 力をみんなと共有できるには感情がね豊で なきゃいけないで姿勢っていうのはそのせ でうまくそれをこうね整理したり コミュニケーションしたりするための方便 みたいなものですからその姿勢がその上に のかているこの順序を間違えていけないっ ていうのは内育の一番鉄則だと私はうんま 私のあの自分の子供に対して高と同じ年齢 の子に対してはあのその教育理論で私は子 でしたつもりですうんでそれでえその 1人1人のあのま あの中学校で教育自習横須賀のね え中学校で私はあの教育実施をお中産の国 をやってで塾でその前教えて小学生をだ 中学生を教えてで高校の高校の教員になっ てで専門学校の教員になって大学で教えて 大学員で教えて社会人も教えてていうもう ほぼあの幼稚園からあの 80近いまでずっといろんな人をうんうん この前計算したねし私の教員生活の中で 15万人から20万人ぐらい教えてるん ですようんうんで長い人は1年間教えてる から松田大学とか国学学てとか1番なら うんなのでえ15万人ぐらいの若者とか 色々な人たちにねその私は定する時に今の ようなあの教育感っていうので基本的には こうやってきたうんそして えこれから先 もその教育の根幹にあるものはぱ1人1人 の持ってるモチベーションみたいなものま 仏教的に言うと発心ですねうんコボ大心ま 授業的に言うと志しみたいなのとかその人 が本当にこう道を求めていくあの言い方に 繋がっていくような支援のあり方を教育と してはプログラムはやっていくべけだうん

そのための引き出し役とか支援者である だけであって何かを叩き込むみたいな教育 が間違ってるという風には思ってますうん もうまさにそうですよねあそうだでも先生 これ面白い何大学でご存知ない人もいるか もしれないけど私あの先生の教え子ですあ ね国学院代はい将大学の授業では初めて 登場ですけど私が山チャンネルうんの YouTubeで心霊科学協会で話した ことについては江原さんと対談したものと かえあの3人でと あの突如あのなったじゃないですかデタ みたいになはいはいあの場面はあのすにね この団チャンネルではあのっているます団 チャンネルマイナー マイナーはいうんそれでねミングルの話 戻ります はい 私先ほど話したことはこの音象大学の レコーディングには生かされていないん ですけどねあのオペラ議の私がうんこのお ニングルを見てオペラはいニングルオペラ に海岸したんですよね途中からねで前半は ねもう本当にオペルギで私にはあの入って いけないていうかトたうなんというか オペラの世界そのものに入っていけないと いうところがあったところがま江原さんが 出演した後ぐらいからどんどんどんどん こうそのまセリフま私はもずっとセリフを 見てますからうん歌よの言葉がどういう 言葉でるかはいそ歌そてそのその シチュエーションというかその大部の中で 舞台場でえこう表現されるてこのねですで 隣の人を見たら全くビダ線にまっすぐ向い てるわけよね女性の方で私はこっちの方が で時々こうねこうもう忙しいわけようんで なかなか入っていけない距離感もこれは まあ江原さんの あのニングルのっていうかま役神役が出 てきたぐらいからあのやっぱ堂々とした あの落ち着いたねえバリトムのはいバト ですかバリトンですはいバリトムのこう 響きみたいなもねこは注目して見てます からねこれ見届けなきゃいけないどういう ことをやってんのかね 荒いそれでこう見てるうちにだんだん だんだんこうその世界にの響きに能して いってせ第1幕というのかな前半が終わる 時に全部がその白いもの年齢で終われると いうね本もう本当に目目を見張るような うんなんかねここでオペラじゃない現実な のか演劇なのかうん分からないようなあの 迫力っていうのかなそういう転換が自分の 中で起こってで真っ先にですね私はさ話し たようにこの脚本をねうん読みたいと思っ

て脚本をあの求めに行ったん受付けそし たら逆はこれこの中にもパンフレットにも 乗ないで原作にもないでも両方とも買って 読んだ全部そしてえ脚本を読みたいと本当 に思いましたしその脚本を歌歌うのでその うん洋のようなそのセリフというのかこの 脚本の歌詞の世界死の世界と響きの世界が こう裏腹えこう表裏痛もんですからそこを 見ながら歌をねもう1回こう聞きたいと いう風にもいいまそういう風なことをこう 求めよですそれを読んでえその全部この グラムさんの本で後書きに痛くね も共したね今回でそれは令和5年の秋に この本は1985年に出版されている理論 者からそれは諸君に1年間連載したものを ベースにしてえこのリンブルという本が出 たでそれがフラノでフラノ塾で演劇になっ たそれをあの江原さんが見てそれがあの 江原さんの提案でオペラさて今回初めて はい4日間のあの上演初めて初演がねえ 実現さでここにえこの書かれてることは ですね本当にもう手遅れなぐらいに遅いね もうニングルが行ってきたそのメッセー ジっていうものを自分はこれを通して書い たもう今からえ40年ぐらい前はいだけど 誰もそれを本気で受け止めてくれていない もう遅いんだけれども遅いけれども自分は ねもう休しくなってえ こう捨てないでやるべきことをやるしか ないみたいなもう非想な覚悟感とですね そしてそのこれがあの改めてえこのオペラ になって上演される発情されるということ に対する彼の倉さんのねうん期待と希望 みたいなのが最初にこう出てねでもしかし たら奇跡がってくれるかもしれないという ようなところでうんでそのニングルの メッセージみたいなのがここでまカタカナ マジのねカタカナで語られていてそれを うまくそのオペラはねはい強い強い メッセージでねうんまある意味で例えで 言えばえ宮崎早の漫画版漫画版え風の隊の ナシカがうん原作に使えとすればうんうん あのアニメ版えこのうんカのシカがオペラ の世界に近いと分かりやすくあしの福音的 なメッセージみたいなもので現代における 切実な訴というそれは森を切るなっていう ことなんですね森と町と海とこういうもの がどうやって循環してるかっていうことの 全体の中で人が生きる空間の生き方をね あの再構築しなきゃいけないし繋がりを 持たなきゃいけないというもう分かり切っ たメッセージをはいはいずっとニングルは 言い続けてきてその基本になるのがうんモ を切なてはいそうですねだからま水はね 地球の血液だうんいう風なね考え方もあり

ねうんであのオペラとかねそのニグルの中 に出てきますけどもあの水時代のこの水は ねあの要するにどこから来たのかっていう ねで実はその何百年もあのかけてあの蓄え てこの地球がね蓄えてあのそして自分たち にこ来た水なんだっていうことの意識がね やっぱ世の中の人たにないと思うんですよ ただ蛇口ちゃってひねればねあとは権利 だけとかねいうようなことに繋がっていっ てしまうからだから私は本当にねあのこれ はあ今こそ今こそっていうかま今までもな んだけれども今本当に最終継承じゃないか とうん思うんですよはいはいだってこの まま私はね先生ねこの危ないシリーズの 最終段階ですよねそうなんですよねこの世 が危ないついこの前危ない命が危ない子供 が危ないそしてえあなたが危ないねが 危ないそれが昨年出たその危ないという風 なことがニングルの中でもはっきりとそう ね40年前からね人間のことは出たはい そうだってもう私もずっとねこんなあの 意外とこ 世間ではそのなんて言うのかななんとなく そのえパワースポットだのスピリチュアル ななんかねそういったことばっかりが なんかこうあのオーラだとかねうんばかり の印象が強いけれども私はもうこれだけ あの前からずっとこう提言してるんですよ ねこれね全部読みますた私あの4冊をで 特に12のえこの今文庫本になってるやつ とかはしっかりと出て問題点とかえあの 本当してもいいと思うし内容的にも 素晴らしいと思ったしでそのしっかりして いるもので1番えその金作のねその正夫の ね例のメッセージもあそこで初めてその例 のメッセージそうです直接的にこ出してで そのそういうこう危感っていうののね切実 は分かりますが同時にその部分だけを読む と誤解っていうのかなそういうものもあの ねを持つ人もいるだろうとうんただしそれ はそれとしてそこまで順序立ててね4冊 ここへこの世が危ないというところまで来 てるという江原雪という生き方をしてきた 人のね今のこの訴というしてはねすごく よくわかりますでちゃんとプロセスを踏ん でいるま言ってみればこのように人気を 切っているんですよねそうなんですよあの ねはういうにしてるからあなたたちゃんと 聞いてくださいよてそれはね学歴とかちで 関係な本当に楽しいの声ですてね自分の ミッションとして届けますよっていうね 神義は切ってるはい本当そうですよね神義 の墓場じゃない神義なき戦いでもない人気 を切ってますはいだって本当に子供が 危ないなんかはもう本当に理論的にねあの

しっかりと構築してあのお伝してるわけで あってましたそこになんか別に何も例も何 も書いてないわけですよほとんどそれはね はいはいそうですよねだから色々な例えも 使ってねその大きな木を使ったり現代の 教育はどうなのかとかっていうようなこと とかロジカルにね伝えたつもりなんです 極めて明積にねうんあの理論的にっていう か整理した形で話できてるのでもう霊媒だ とかなんとかっていう観点なくして読んで もきちんと理性的に受け止められます ありがとうございますでもそれでもねあの 今のそのえっと そのこの世が危ないとかっていうとま誤解 を受ける部分もあるかもしれませんけれど もむしろねその子供が危ないな時にも結構 叩かれたんですよそうですかうんの方が 叩かれたかなえ2003よ5年年2004 年ね2005年年でそのでどうして戦えた かと言うとこれもまた非常にねあの結局は なんか物質価値観があれで別に教育学者で もないお前が何を語るかという風な戦り方 をしましたそのねうんその叩き方ま今の SNSの叩き方もうん権威に弱いという 学歴だとかね社会的な停裁だとかね私の母 もそうですたね人に笑われない立派な人間 になってくださいと言ってくるうんでも人 に笑われないっていうのは世間定なんです よ天才なんですよね学歴とかなんとかだっ たら笑われないと思っちゃってるわけです よでもそれこそ笑うべきことでねうん うんうん 取り除けなきゃいけないことで私はそう いう中で人に笑われる立派な人間になり たいと思ってきた真剣にで笑われるてどう いうことあそんなこと関係ねえよと言わ なきゃいけないうんそんなボーダーとかね 巨triでねあの上着だけでね住むような 事態じゃないんだよもっと切迫してんだ から全部裸になろうがなかろうがね魂の声 を届けて立派で生きることのが大事でしょ 母親にはずっと痛かったわけですうんうん で母親と喧嘩したわけじゃないけど考え方 は180°違うんですね結論は同じだね 立派な人間になりたいという気持ちは 変わらないんだけど前の前提条件がね 変わると内容変わっ一般の定義がねうん そういうなると全体的にね立派であ るっていうことはどういうことかとか分 人間が住んでる社会だけをね立派にするて いうかね人間が住みやすいようにだけする とか間違ってるわけだよねそそうみんなの こうあの生きとしけるものというさの人形 でね生きて生きるものの魂の声を叫びを聞 けっていうねここに行き届かないと人間

だけの傲慢な車にねはいうん人間だけが 一部の人間だけが金持ちだけが立派なそう にねいるな間違ってますよ本ね本末戦闘し てるはいはいそこはねすごくよ伝わうんだ からねなんとかそのね叫びをね伝えなけれ ばなっていう風に思ってもう今後がないっ ていうかうんうん先がないま遅いんですよ ねそうであのね私は今日ねあの今回のこと 対談とかね先生とのことでは私の中ではね 実は1つ大きなテーマがあって実は私は じゃあスピリチュアリストとして申し上げ ますけど私自身はねまもしくはミディアム として言うんだけどもあの日本のね未来が 見えないですうんはい先がないんですよ 見えない私もそう思ってますよ私のねの 映る霊眼にあ日本に未来はないんですよ はいですからそうそれが世の中の人たちに は全くね伝わらないというかピンと来てな いっていうか うんはいこの切歯詰まったね状況だから あのみんなただねケチな今までの本私が 例えば子供が危ないも命が危ないそして この世が危ないとかなんかこうキャッチー なねことだけ言って煽ってんだろうぐらい に思ってるかもしれないけどもむじゃなく て私自身は本当にこの今回先生にとね対談 させていただいてるのはまもちろんその 国学院の時のその先生の事業を受けてた あのあの教え語ってこともあるんだけれど もやっぱり先生に私はあの聞きたいことが いっぱいあるっていうねでその何が聞き たいかと言うとやっぱり私にはねもうね 未来が見えないんですよ何にもでこの見え ないことをどうしたら見えるようになるか 何かできることはないかうんこの今でもね それこそあ倉本先生が奇跡を信じるしか ないその奇跡は何かを起こせないだろうか うんはいということが私の中ではねあの このこの世が危ないまで来て私はもうそこ からこうね先がないからここは1つ先生 からねあのお遅えもいただいてねあの先生 のご意見もいたいうんでうん私は未来は 見えないよどころかねうんま [音楽] ああ江原さんも霊能者でありま予言者でも あったとはいはいで予言者は2種類の予言 者があって未来を余しするの予言者と神の 言葉を預かる予言者とま2種類の書き方 そうですま両方ともねあの重なっているん です実はねそんな分かるもんでははいはい だから霊能者もいも予言者と2つの予言者 をの側面を持つわけですよ霊媒もねはいで 私は自分を霊媒だと規定したことはあり ませんけれどあの何者かのマリオネットの ような道具であるとは思ってきたねうん

あの受信機であり受信をあのこうねうんえ こう横にスライドしていくような役回りを 自分の中でも持ってるなうんで自分勝ての 振舞をしてように思われてもそれではない 本筋はここにこう来るものキャッチする ものをどうやって伝えるかというまここ だけで生きてきたと思うんですよね根幹は ねうんだから死というのは自分から生まれ てくるようでそうではないうん何かから こう東大世この東大政でその死の中でここ うんま丁寧間際にあって2018年から 特用の時軸これは命が危ないということの は別の表現なんですよの軸の家具の好み っっていうのがもうないんだよとね命の身 は身はうんだけどその命の身はないけれど 我々はないものもさ探るという探求を捨て なければ人類を滅びても命は続くよという これはあるんですね間違いなく私今でも あの人類は滅ぶかもしれないいずれね間 なくそれは地球自体が滅ぶんだから滅ぶ でしょう消えるんだ だけどもその地球に誕生してきた命や人類 の命の積み重ねみたいなは間違いなく次に リレされていくだろうそれは確信してるの ねだからそういう意味では希望はあるん ですがでも人類としての道は絶望というの はあるんですねうんうんでそういう中で 時計の時っていうのは命が危ないっていう のを自分だにてで無数分娩っていうのは その中でじゃあどういうき方ができる かっていうと夢の中ではい命を紡ぐって いうことなんですね声を紡ぐっていうこと なんですねだからそれは芸術表現になっ たりあのいろんなあのこうアクションに なったりするわけですよ結分娩っていうの は今実らなくても火は植え続けるとかうん うんその畑をね耕していくとか自分絵を 書き続けるとかうんうん自分でできること があるわけですで私はそれは今年の初以来 この聞いて見てくれ分かってるけれどあの インディペンデントユニバーシティのあの 京都面白大学を作って1人発信もねして 今日はあの原さんを対談空いてねま途中 から制許可をもらってやこうてやってるで 3冊目で強電道中をね2019年の9月1 日にあえて出したですうんうんうんでその 第1場面のことは皆さん天気は死にました はいでその真ん中にもう1つ第2の皆さん の天は死にました2っていうのがあるわけ ですようんでもうこれ は17歳の時からねうん1998年私17 歳の高校3年生経った時に田辺高校の 和歌山県のたの田村君という高校3年生の 主人が書いたうん意業をそのまま引用し てるんですねうんで田村君が書いた私ね

うん皆さん天気は知りましたっていうのは ねやりのように育ってきたんですよ私の うんうん後っていうか話でそれ以来ずっと 皆さん天気は死にましたっていうことを 自分の中でえ こう考え続けかつそれに対する リアクションを自分の中でやろうとしてき た50年なんですねま 1668年だからあ 506年ですかもうねそういうぐらいの年 でやってるそれで19歳の時にここで ちょっと話をしますけどえ6の神和校と いううんあの演劇を作ってもし可能であれ ばねオペラにしたいですよあの死ぬまで うんあと嫁3年と言われてるから3年の うちにねオペラに実現できると嬉しいなと 思うんですけどねうんうんそのあすをえ ちょっと話します金たんにねそしてえその 主演男がこの人んですよ中島和というこの ああ あの うんここのですね国鉄こ中山代さんお別れ か私が癌を設備をついた日本バテ病院で彼 は え 20009年に亡くなったので4年半前に なくったね69歳です最後は共同大学の 植物園の定をねあのあの20年務めたん ですよああで円庭時やってる時に2012 年に兄弟がねそこに施設を新たに作るので ま農学部理学部に施設を作るので木を切 るってことになったで中島君が私上なんだ けどねえた2上かもしれない中島君火を 切ると祟り起よというカを立てたんだよ うんね兄弟植物 それ教授連が起こっちゃってですええ こんなやつをやさせるみたいなね病気に なったその大学の方針だし大学の施設だし そういうことを反対するってね1回の園庭 が 州用務員のような職員がそういう風なこと をねこうそれはもう潰そうとしますよね それをねえ若き大学院生とか理学のね理学 研究化のね大学とかえ生体学研究所の助教 枠が支援したんですようん切っちゃいけ ないうんでこれは対象10何年にできた 多様性を活かしたね珍種ばっかりの植物園 が多い中で本当にあの雑っていうのかな あのいろんなあの植物の普通にあるような ものを含めてうんそれを生かした植物園と して大学のねで陰性とか学生とか教員とか が自由にでき利用できるような食についし て最初10何年かできてあがったでその 多様なものを維持してきてその林相も 面白いんですよねあの珍種の何かを展示用

に作られたものじゃないうんでそれをのあ だからま造林みたいなだから切って施設を 作れていうねうんまこういうものに対して 中がここに生きてきた気をねきるってい ことは何ををねうんもたらすかっていう ことで記たがごよっていうのを大策あった ことによってまあの大学の当局とバと正面 からつかることで若き このその支援者が出てきてで兄弟植物園も 観察開するとかねでそっから兄弟俳句と いう俳句のサークルがねはいあのもう1回 生まれ直すとかうんえ兄弟廃っていうのは 斎藤3期とか石田覇業とか加藤集村なんて ね7たる新しい廃人をね出せるこう名門 大学同人俳してあったんだねうんでそれを あの最高するとかていう風な動きが起こっ て観察会も次毎月毎月ですね100回もね 一般市民が参加してそこの植物園も訪れ ようになって支援の会が続いたんですよで 中島はすぐ首を切られるとこだったのがね 2012年ぐらいにあ2000 え3年かなこれが起こったの は首を切られそうになったのは首が10何 年繋がったわけですよ支援者がこ一般市民 も含めて学内でも若き人たちが大学支援 そして彼は森と共にね生涯を過ごして そしてえ食堂がになってあとに私があの癌 の走をしたこの上の4間でね え4年前5年前に亡くなったですよで私は その姿で癌の手術したからね全然寂しく なかったですよそういうでその長島という のがね 1970年の6月に一緒にえ6のはこう 主役をやってくれた人なんですよ裁判年と 最初期の活動が私と共にさへえで中島者と いう名前でね彼は最終です最後の えペンネームていうか廃業だったんですが 最後の彼のあのリセはですね生理食塩水は 涙の味がするってのよでガンガじゃは 分かるけどね私もあの科学療法やった時に ね生理食演出ってのを最初と最後にやるん ですよあの癌のあのこう条約注射で取入 する前にうんうんでそのなんて言うのか 地ならしをするというかはいこの脈にね そのこれから投入しますよみたいなものの ねま準備をするわけですねで最後にまた その整理食塩水私はそれをなめたことない けど食塩水ですからちょしょっぱいん でしょうねでその生理食塩水っていうのは 彼もガンガンでだったからそれやってたで 自性のは生理食塩水はなな味はするという 風なで私の病室の真でね死んでいったのね でその長君の下宿で19歳の私はあ彼が 住んでたアパートでねロックロールシは この脚本を1990年のえま3月から棒書

てたわけですで彼のところの居をして そしてえ客申し上げてそして私があの審査 橋でえエルマ道路というスペイン料理の店 の2会を借りてクラブみたいな借りて1 ヶ月間安保の警戒のまさにその時5月から 6月にかけて1ヶ月間長円さと島でその 主演を中島和君がやってくれたねうんで そのあのまアングラロックミュージカル みたいなもののあすはですねも大きく2つ の時間軸があっ て古代のていうか人台の伊伊波が日本の国 を生みましたうんうんで産みましたとうん で自分の子孫がいっぱいいますとでも自分 がんだ子供たちがどうなってるか分から なくなってた見えないと先ほどのね日本の 未来が見えないまっても見えないので探し に行こうと今どうせるか人台から伊並が 降りてこで探していくっていうこの時間で て1つそれからもう1つの時間軸は現代の 少年衝動がいるでその少年衝動はま教育 プログラムでどっか学校教育がねさせられ てるでも本当にそんな嫌だなと思ってたり する子がいっぱいいるで家庭以内で親のね 血だとかなんとかでこうしなさいあし なさいみたいなものやるでも現代の少年 症状探偵団ですね探偵だ自分の本当の お父さんお母さんがこの家のねファミリー の本当の誠の父ははどうかわかんないとで 本当のお父さんお母さんがいるかもしれ ないと思って探しの旅に出るで本当の父派 え探しの旅に出るというのが現代からの出 ねうんで人台からのベクトルがですねこの 今の子供たちの神様がで現代の子供たちは 本当の父原はどこにいるのか探しのたで うんうんそれで途中でですねその当時の ポップ少年ジャンプであるとか 分テロリーマンて わかる分かるでしょう編集者であばねえ あれ誰でしたっけのめるしいやも じゃないゼロリンマンというねえ キャラクターとかね漫画ですうんとか バンバの中太あ母いうもでしょまあのま それはえババの中太郎江戸時代のねうん 歌舞伎だとかね うんジジ雨のデリマとかねえバンバの中太 とかで天でジョルで1番有名なのはああの おつと申しあジジ屋敷っていうのがあって ねそれやっぱり父母探の物語が泡の上部に あるわけ人形上部ああはいはいそれでその ああのあのすと申します大阪に神々出てね 父母をま母を探しに行くとかという物語が 出てきたりそういうその様々あ菅吉春の キリ屋の少女が出てきたりとかですねま いろんなあのこの少年少女探偵団が いろんなあの核のていうかま一種現代の

冥界遍歴みたいなしてくわけです出会って いるわけですよそこで出会っているいくつ かのメッセージこれ結言教的に言うと53 席の全知識のねまそういうので出会って1 ずつ悟りを開いていくみたいな改定を歩む とも言えるんだけど脈絡は分からないわけ ですよ混沌としてそしてそういう出会いの 中で様々な事件や事故みたいなのが起こっ てそてえ全人類が全部滅んでしまうみたい な最終あのね大破を迎えで行くんですそま みんな死んでしまったみたいな倒れて しまったっていうところにえ初行がずっと 一筋のこ光がさしてそして幽霊のように こう亡にように立ち上がって電が 立ち上がっていくという中でいきなりそれ はあの出生でね私が登場してきて早川よし というねジャスていうその見つめる前に 飛んでみようじゃなけガンガンのでね歌っ てるという最後の最後は私が乗っ取って しまうみたい なそういうね6ノル校やったんですよね 1970年の5月6月の安保を更新する このあのぶスケジュールに合わせ て20人ぐらいのあの劇団私が19歳ま もう1だけ私若いキリアの少女がいたけど さあは全員私がたですよ演習としてねで それが自分のとっての原点でそれを1つの 違う形であのエプ小説神話みたいなさのは 水人伝説というのでこれは私が20代で 政府を傾けて書いた捜索なんですよでその 後深海のビール大学っていう問題してその 190085年に大直前に共産道大学国外 軍から天中をこして追放せよというねこと が起こるという風なまそういう流れになっ てその欲にえエさんとあって学のね授業風 のタ 話まそんな話のね流れですから私ねえ19 歳の時に18歳の時にだった皆さん天気は 死にましたから始まってるんですね危機は ね事務のハドの危感そしてえ水人伝説は 自分にとっての危機感をどう自分の中の こう内的なナラティ物語として克服しるか という風なことのま説明とでもそん中でね どういう風に生きていくかみたいなそれの 水の神の物語なんですよ水がなかった生き ていけないうんうんせえあのその評論集も ま最初の論集も出口をさろとおじについて 書いてあるのが最初のの深海の フィールドワークという本のね1番最の 関東論文なんですよで彼らは水の女あオリ 的に言と水の女水の水の神を ま水の精霊みたいなものを受けた シャーマン的な女性が日本の文化士の中で 何を果してきたかというなねまそういう 問題意識を陸士は持っていたしサブロは今

大衆英中の世の中になったこのバレ吉の エイスクな世界をいかにしてみんなが良い 霊主体重の世界へね直し転換していくかま 私はその2人には非常に共感を寄せてきた ところあるんでその2人の神話的な思考と スの捜索っていう風なものに焦点当てて 最初の論文を書いて現代思想に1983年 に10月後にね書いた論文をあの筆頭にし てえ現代に変えた4本とかユカに書いたま 何本だをまとめてで深海の フードバールーチェも切切迫感があったん でその参考になるものとしてデシにさろと か口の仕事は重要なビジョンっていうもの を掲げていると思ったうんそしてオム事件 がままの体験しえオム事件が起こりもう 自分を破滅させるか人をねやめるかみたい なのギリギリの線も何度かさりそして坂原 政府事件がりにまあの木さんからねせて から祈りというえ新婚の祈りをしで私自身 が新藤ソングライターとして1998年 から歌うようにってもう26年うんになる わけですねでそういう中でこう身もあの なん金栗捨ててきて金できたけれどまだ 学校現場にいたからで学会にも所属してた からまだねこう付着してるものがあるうん でいよいよ学校はも完全にこの3月でで 切れたわけですねうんうんそれで学会も スピリチャルケア学科吹きたわけですね 自らたい会員をやめたいということを申し てそしていずれえ来年え日本人少会を やなってえそして えやることは京都の山を守る会の会長だけ は山森さんの後ね2007年から京都伝統 文の推進教なって京都散弾を守っていく これがどう未来にこれだけは地元の法治者 として関わろうあの存命である限りそれで ひさんにまだ903回登ってるですよね これからもう登りおちしながらね京都の山 をどう守るかだからまさにニングルのよう なうんことは本当にね切立に分かるわけ ですようんリグルのような自分のねに共感 が寄せられるわけ人間よりもうん人間が 悪いと思ってるからうんうん人間の住まい 方とか傲慢さとかいろんなものがこういう 現状をねサがすようすような状況を作って いるからだからニグルと共に生きる あるいは獅子神と共に生きられるはいえ森 のこだまちゃんたちとね生きれるあり方 うんそまりそこに命の全体像に立ち直し そうなねそういうこうあの全部が繋がって 全部が循環してる中のワンオムゼにすぎ ない人間の命や生き方をと他のものとね 生きとけるものねこのニングルの最後の歌 のメッセージが生年行けるもののね命の声 魂の声それをね声なき声を聞けっていう

これ4回ぐらい繰り返すそうなですようん この声がね成ていそしてあの中島君もです ねわにそういうねうんえあの弟でうんもを 切るなたりをこつよっていうことはニの声 とほぼ同じことを彼はあの植物生にいて ずっとね京都の花という花屋さんにも務め ていたから花の声をねやっぱ聞いて彼自 廃人でもあったので課長風月というかうん その俳句の中で記号あるじゃないですか うんそういうその花とかえ季節季節のね中 で出てくる食べ物であるとかえ年中行事の 中の祭りの最低であるとかていうことの 持つ意味みたいなものよく分かるわけです よね感じ取れるわけですよねそういう中で 兄弟の植物園を20年間うん彼のでやめて すぐに死んじゃったからね本当にうんま そういうこう一種ニングルですね宿うん私 がその中で ね私が今まで50年前やってきた皆さん 天気は死にましたっていうメッセージね うんうんそれでえ自分がやってきた6の島 校ねうん水人伝説ねうんで中島の万年のね 20年間の森たり森を切るなっていう今私 がここ2007年からえ山さんと共にやっ てきたえもう16年7年ぐらいやってきた 京都散々をね守っていく伝統文化の主人と 全部が繋がってきて人ねうんガチャンとね 合体しそれしてそのオペラ嫌である私が あのオペラの声が聞こえてきたわけですよ 途中からねうんうんうん原さんのこの佐の 声がねそそれまであのうん字幕を読んでい が一生懸命だったからね字幕じゃなくて歌 として聞こてきたはいでもう後半はもう 本当に歌の世界に自分がこうね距離なく 入って自分の今までね50年ね第1は ひび割れうんおですはいはいそういうこと でねあのニングルが抱えている問題 は私の人生を総括するようなうんやでそれ を読んでね倉本さんのねまさに倉本さんの 書かれてることと私が感じてきた何十年か は同じななとで遅いけれどでも遅くてもね 見えなくてもうんやるんやとそうですそれ しかない先は見えないバ全く見えないもう 滅ぶんじゃないかと思ってうんだけどあの の自身が怒ってマは生きてるんですよそう だからあのマ遺跡はカイのねあのアリアっ ていうのはうんねあの通ポラある系の1つ は大地はひび割れうん悲しみの黒い雲は空 をうん嘆きながら燃え上がる炎が森を焼き 尽くすね前にっていうねもま地震の東 日本大震災もそうだしのともそうだしそう ですねそしてその後ねそうねでその後は もう私はねいつも思い描いて歌ってるのは その要するに空はねあの空が滝のようにね あのそれこそあ吹き出してねであの要する

にまいずさんですよいずさんねはい私は いつもいずさんを持ってねあこ歌てるん ですよねその空がねその滝のようにね出し てねそれでてそやって流していくていう 伊豆さんは日本列島の中で最大の火山地帯 の岩は中学になるようなね富士さんからね あの豆諸島ストにかけてるねラインのね 中核にあるんですうんうんねでやっぱり それだって結局はあれは人災なわけじゃ ないですかうんあの一般神社はね後楽のね そうなうんだからやっぱり私たちはね やっぱりどうしてそんなにね前ばかりね見 てで今現在もあ巨大えなソーラメガソーラ ねえだとかもういろんな問題がいっぱい ありますでしょ本当に本当にうんでなんか 前ばかり見ないと人って生きていけないん だろうか本当にねそのどうしてその足元を 見るとかあねだからそのなんかあ アカデミックなとかって言ってる人たち だって要はなんかこう私からしてみたらば なんかこう思考がちゃんとできてないん じゃないかとであの例えばねその全体の 思考がねパーシャルな思考はそのとりなん ですよねだから結局そのなんて言うん でしょう そのまこの映像よりも前にもお話してまし たけれどもあの色々とそのスピリチュアル ケアのねことにに関してもやっぱりあの 例えばホスピスとかあのホリスティックの 人たちとかまいろんな方たがいて印象が はいで私はかなりそこでかなりねあのご 自身の権威を守るためにあのそういう スピリチャルなんと言葉を使われたら困る みたいなねこと散々言われてきましたけど でもね私思うんですよ私はねそのたちをね 恨んでもいないんですよもだからなぜかと 言うとやっぱり彼らは彼らの自分自身の 要すに自己うん欲求で人間はそういった ものの塊りでしょだから自分のところのね 要するにエゴイズムですよねそこだけを 守りたいがためにそれを言ってるだけだ からだってひどいこと言ってしまうと じゃあスピリチュアルケアとかその緩和 ケアだとかそういったことやってる人たち は外界から馬鹿にされてるんですようん 直せない医者は医者じゃないって言われ てるうんうんねだから結局だからなんて いうのかなずっと連鎖してるというかね負 の連鎖連鎖ねだからその人たちはその人 たちで自分たちはピだお前なんかそんな 同じくスピリチュアルなんて言わないで くれとか言ってるけども自分たちも下げ すまされているというだから気の毒な負の 連鎖だからだから私はそのそれに対して 怒ってもいないとかいうのはそういうこと

なんですよ木の毒だなって暴れたとしか 思えないって思ってるわけなんですよねだ からそれをもっと乗り越えてもっと大きな 広い視点にね立たないとってそれで私最近 その面白大学とかも拝見してて死体な話が 結構ね先生から出てた先生はいで私も高橋 先生の本だとかも全部読ませていただいた 時代もあってあとは死体なあの研究の方と もえ親しかったりしたんででもやっぱり その時にねふって思ったのはねやっぱり シナがよく言ってる要するにそれで アーリマンなんですよね物質価値観的なね その物質的な思考アリマンでもそのですに シイナは常にあの自分で作った彫刻の中で あるそのルシファーとねアーリマンとの間 に入ってバランスをしっかり血の悪魔と もっとこううん身体の悪魔っていうね的な はいでまさにねこの像がね今本当に浮かぶ んですよこのバランスが立ってないで 例えばじゃああのじゃあスピリチュアルと かいうね世界のことをじゃあ私なんかの 世界でパ人からげとされる部分でも本当に お花畑いっぱいなんですよね世の中で やっぱりそれはちょっと怪しいやばいん じゃないのっていうような地に足がついて ない人たちもいっぱいいてこうすれば幸せ になるなんか龍見たらばご利益があります なんとかでってそういうのは ルチフェロバラだから今こそまさにねしい なを言ってることなんかすごくね先生のね その面白大学から私はそこをねが流れてき たんですよねあの私生涯にね3度目いかに して長感覚的認識を獲得するかっていうの を真剣に読んでいるんですねで高橋岩尾 先生から学んだ1980年から約1年2年 の間に1回目読んだはいはいで1990年 ぐらいから91年にかけて2回目を読んで 途中で駐在してしまったで今あ2000 え23年のくれぐらいからあの面白大学 京都面白大学を始めてえ今年の1月2日 からこの頃から改めて3度目のねイにして 長官たけにしでそれをこう読んできてえ こう準備からねまつまり霊的な世界にこう 入っていくための準備それが入っていく それでその中で何に出会っていくかって いうことがねこのイニシエーションの プロセスみたいのが非常に明確に描かれて ま魂のガイドブックだと思うんですね非常 に参考にその中で教育の守護霊というのに 出会うでその教育の守護霊と出会う時に その家庭の中で今言ったアーリマン的な ものやえそのあのモンスターですね霊的 モンスターあるいは物質的なもの政え霊的 モサそういうのはアーリマンとルシファー というのに代表されてくるうんそれその中

でえそのうんどういう風なね霊界参入の あり方というものを本当に1人1人学と やっていくかでその時にそのタシに対する 尊厳とかあのイフイの念とかそそう人その 1人人の自由である1人1人そういうもの はいかに重要であるかとかということも ちゃんとこうねバランスよく描かれている んですねそしてそういう風なもののマなし にそこにこう角に過剰に入ってしまう あるいは準備なしに入ってしまうことが もたらす歪み偏差そういうものは何を もたらして負のいろんな暴力だとかねえ 差別だとかね排除だとかもうももっと不 自由にねま私今度の本は霊的暴力という本 くんですけど霊的暴力の世界の方がね悲惨 な部分があるわけですようん現実の暴力は 確かめられるけどうん霊的暴力みたいな ものがあの確かめられるようで確かめられ ないものもありさけるようにさけないです からうんでもこの世の暴力はさけるから うん棒というので暴力とか精神ボルさけ ませになたのかこのドラマティックになっ たものとうんうん傷ついたものとうんで そういうような言までも含むこの何がどう いう風にこの連鎖をもたらしえどういう 間違いを我々が起こしやすいかみたいな ことについてね気としては認識がなければ ならないだからそこのところを慎重にです けれどやっぱりそのうん管主的なこう 感じる部分を大事にすることとそれをこう さすることこれはあの血のレベルもですね 育層ものこうチェックポイントみたいな ものをきちんと持っていないと危ないん ですよねうんでそういうことを今回の大な を通してうんうんえ江原さんがなぜ芸術と いうものを1つの軸にしてるかなんで私が 歌というものをねあの浸透損とか軸にする かここに意味があるんですうんうんつまり 人の自由を奪っちゃいかんてうん本当に魂 の叫はねうんあのその宗教的建設とか教団 とか学会とかの枠組よりも1番大事なのは その人の魂のね責のが求めなんだとその魂 のめや酒に忠実でなきゃいけないそれは その一緒の生きてきた使命であったりあの 意味であったりであったりするから それを奪っちゃいかはいそれはあの芸術的 表現に1番端的に現れるあ私は紹介てけた がよくかかそれやめろということは止め るってことは死ねっていうことだからうん それは止められないわけですよで江原さん がある段階からねオペラ歌手になって性格 を本当に本格的にび今回のニングルでね ニングルの幼の役をやっでそのなくては ならない今の時代の今のメッセージを重要 なこう伝える役割をねこ果たして4日間の

ね短い公演が終わったで短い公園にかかる 莫大な費用はまエさんも自腹を切り いろんなね支援があったとしてもこれを 上演するだけでもう大変な中でそれをやっ てでも原という こうね一時期感のしでもありうんえ スピリチャル完成ラとしてやってきたい人 が何を命がけでやってるかっていうことを ねやっぱり知ってほしいわけですよはい この全頭さていうことねそれでその本本マ なんですよね日でそういうその全な三筋の 中でここまで来ていてで日本という組が 見えないていうとこまでね来ているという ことの切か接時間私にとっては天気は死に ましただけどうんでこれはね本当ビタとね 通じ合うんですよねエアさんと共有できる ことなんですよねそれでそれを踏まえて またねこの部分をねでも36年ぶりに先生 にお目にかかってこういう共感ができると いうこと自体はなんかすごくねもやっとね そういう巡り合わせになってね私も癌にな なってなかったらねこういう風に衣装脱い でますから裸になってませんからいよいよ ねあの自分が素裸になってうんあの子供の ようになって江原さんと対面できるような 状態になってきたんですよそれにはね時間 がかかったんですよでも36年前先生 とんがってましたねえとんがってた とんがってましたよどんな風にえ私の みんななんかこうあの先生はね月の月に 立てませんかとか入りな飛んでたよね入り ましょうとか言ってもみんな誰もとっても 怖くて近寄れないだってねあの狂気に導出 たと思うねだって月に取りされましょう なんて言ってもねねえ87年前の1年前 ですもんね8ですにはい本当ですよ ねこの辺でとりあえずはい はい JA

『ニングル』:https://m.ehara-hiroyuki.com/image/2023/2023_opera_ningle.pdf

日本オペラ協会公演:『ニングル』

2024年2月10日(土) 14:00 開演 (13:00 開場)
2024年2月11日(日) 14:00 開演 (13:00 開場)
2024年2月12日(月) 14:00 開演 (13:00 開場)
13:15から会場内で作品解説あり
終演後、会場内で田中祐子(指揮)・渡辺俊幸(作曲)によるアフタートークあり[2/10(土)・11(日)のみ]
上演時間:約2時間30分

会場:めぐろパーシモンホール 大ホール

主催:公益財団法人日本オペラ振興会・公益社団法人日本演奏連盟
共催:公益財団法人目黒区芸術文化振興財団
特別協力:一般財団法人倉本財団
東京都芸術フェスティバル主催
東京都公益財団法人東京都歴史文化財団
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(舞台芸術等総合支援事業(創造団体支援))・独立行政法人日本芸術文化振興会・公益財団法人東急財団(田中祐子:五島記念文化賞オペラ新人賞研修成果発表)・公益財団法人三菱UFJ信託芸術文化財団
協力:太鼓芸能集団 鼓童

作品について

倉本 聰 原作/渡辺 俊幸 作曲/吉田 雄生 オペラ脚本
オペラ全2幕 新作初演

倉本聰の名作が初のオペラ化

未来につなげ、いのちの木
イントロダクション

《ニングル》は、「北の国から」など、テレビや舞台を中心に数多くの名作を世に送り出してきた脚本家・倉本聰の代表作の一つです。本作が書かれた40年前、環境問題が今ほど取り上げられていなかった時代に、早くもこの問題に警鐘を鳴らしています。

これまで朗読劇や舞台などで多くのファンを魅了してきた本作が、この度オペラ「ニングル」として新たな一歩を踏み出します。倉本作品初となるオペラ化であり、ジャンルを問わず、多方面から注目を集めています。作曲はテレビ、映画の劇伴で活躍し、オペラ「禅~ZEN~」の作曲で高い評価を得た渡辺俊幸。オペラ脚本は原作者・倉本聰の信任が厚い吉田雄生が担い、オペラ脚本家としてデビューを飾ります。指揮と演出には、2023年2月に日本オペラ協会公演「源氏物語」を大成功に導いた田中祐子と岩田達宗が再びタッグを組み、本作に命を吹き込みます。

金がなければ暮らしていけない。だが、森がなければ生きていけない。《ニングル》は、この2つの現実の間で苦悩する二人の若者の相剋のドラマです。現実のために未来を忘れる青年・勇太(ユタ)をバリトンの須藤慎吾と村松恒矢が、未来を想って現実に破れ死を選ぶもう一人の青年・才三を、テノールの海道弘昭と渡辺康が演じます。また、プリマドンナの佐藤美枝子と光岡暁恵がかつらを務める他、日本オペラ協会を牽引する歌手陣が、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏に乗せて本作の世界を表現します。

『昔に返せ』『未来につなげ』…ニングルから人間への痛切な訴えを今、日本オペラ協会渾身の想いでお届けします。
あらすじ
第一幕

北海道富良野岳の山裾に拡がる原生林。森に囲まれたそこにピエベツという開拓者の村がある。勇太(ユタ)と才三、光介と信次をはじめとする村の若者たちは、この森を伐採し農地を拡大する計画を進めてきた。

「農地が広がれば、村が豊かになる」彼らはそう信じていた。

ようやくその計画がまとまった頃、勇太とかやの結婚式が行われた。かやは仲間の光介の姉。才三の嫁ミクリは勇太の妹。つまり彼らは家族も同然だった。

ユタはかやとの結婚式の夜、親友の才三、姪で口がきけないスカンポと共にピエベツの森を訪れた。そこで不思議な生き物と遭遇した。

体長15センチくらいの小さな人間。

アイヌの先住民たちはかれらを“ニングル”と呼んだ。アイヌの言葉で“ニン”は“小さい”、“グル”は“人”という意味である。口の聞けないスカンポだけがニングルの言葉を理解できた。
その時、ニングルの長は、彼らにこう告げたのだ。
「森を伐るな、伐ったら村は滅びる――」
ユタと才三はピエベツの森の伐採を計画し、農地開発を推進してき中心人物である。いまさら後戻りできないとユタはニングルに逢ったこともないと主張した。一方で才三はニングルの言葉に衝撃を受ける。たびたびスカンポと共に森を訪れ、ニングルの言葉に耳を傾け始めた。そして、森を守らなければ村の将来はないと考え、それまでの意見を翻して農地開発の反対を訴え始める。
伐採を拒否する才三と農地開発を推進するユタ。二人は完全に対立してしまう。

民吉は息子のユタの行動を案じている。時折、亡くなったかつらに向かって問いかける。
「なぁ、かつら、教えてくれ、豊ってなんなんじゃ」
かつらは民吉の長女で、スカンポの母である。
ある時、民吉はスカンポに「生命の木」の話を聞かせる。
「子供が生まれるとその子の木を植えた 親は子に教えたもンさ
“これがお前の木だ、大事に育てろ この木が枯れるときはお前が死ぬときだ”」
かつらは、二人を空から見守っている。そして、こう歌う。
「もしも、木の実を握っている子が生まれたらそれが希望」だ、と。

開発に反対し、森の伐採には協力しない才三は孤立を深める。仲間の光介や信二ですら、才三をかばうことはなかった。

伐採が始まり2年が経った。村は、ニングルが予言した通り、破滅に向かいはじめた。
大洪水が起こり作物は流され、村の人々の借金ばかりが膨らんでいった。

光介は亡父の仏前で自らの過ちを告白する。実は光介もニングルに逢っていたのだ。しかし、そのことをみんなには云えず、才三を孤立させてしまった。その上、借金が膨らみ夜も眠れない。泣きながら告白する光介に亡き父が憑依する。
「貧しくても幸せだったあの頃に、もう一度戻れ」。
心を病んだ光介は精神病院に運び込まれてしまう。

大洪水の後は渇水だった。かつて森に囲まれたピエベツは水が潤沢あった。その大切な水が、森の伐採により枯れてしまったのである。

村の人々は井戸掘り屋を雇うが、水はなかなか出ない。
才三はスカンポと共にニングルの教えてくれたやり方で水の出る場所を探しあてた。しかし、そのことが原因となって、才三とユタは口論となる。激高したユタは才三を激しく殴りつけ、チェーンソウを押し付け、云う。
「才三、山へ行って木を伐ってこい。お前の女房を泣かせるな」
一人山へ行った才三は、自ら伐った木の下敷きになって命を絶ってしまう――。
第二幕

才三の死によってユタは自責の念にかられる。同時に自分の生活も追いつめられていく。借金を返せなくなり、家も土地も捨てて出て行けと村の人から迫られたのだ。そんな中、妻のかやが子どもを身籠った。
「自分はどうしたらいいのか――」絶望し無口になっていくユタ。

精神病から退院した光介と信二は、才三とスカンポが探しあてた場所で、井戸を掘り始める。来る日も来る日も、周りが呆れるほど、ひたすら掘り続けた。硬い岩盤から水が出るはずもないと陰口もたたかれた。

ところが、ある日。その場所から、遂に水が出たのだ!
「何もかも才三の云った通りになった」
ユタは才三が亡くなった森を彷徨う。そこで、再びニングルの長に遭遇する。
ニングルの長は才三にこう告げる。
「未来につなげ。ゆっくり時間をかけて、森を昔に返せ」
「お前の親父の民吉も自らの『生命の木』を伐って、未来につなごうとしている」。
その言葉通り、自分の「命の木」を伐り死を選んだ民吉もまたニングルが憑依したように才三にこう語りかける。
「その水は誰がくれたか判りますか?その水は森が何千年もかかって貯えた水。
昔に、昔に返せ、森を。昔に返せ、ピエベツを」

民吉の死と引き換えにスカンポは声を取り戻した。

ようやくニングルの言葉に耳を傾けたユタは一人黙々と朽ち木を森に運びはじめた。長く地道な作業をひたすら繰り返すユタ。
ある日、スカンポが大慌てで、ユタをのもとにやってきて叫ぶ。
「ユタおじちゃん、赤ちゃんが生まれたよ、その子、手にドングリを握ってた!」

未来への希望の種が生まれたのだ。

(吉田雄生)

出演者・スタッフ

総監督:郡 愛子
指揮:田中 祐子

演出:岩田 達宗

出演者
2/10 & 2/12

勇太

須藤 慎吾

2/11

勇太

村松 恒矢
©︎DMS

2/10 & 2/12

才三

海道 弘昭

2/11

才三

渡辺 康

2/10 & 2/12

かつら

佐藤 美枝子
©︎Flavio Gallozzi

2/11

かつら

光岡 暁恵
©︎Yoshinobu Fukaya

2/10 & 2/12

ミクリ

別府 美沙子

2/11

ミクリ

相樂 和子

2/10 & 2/12

スカンポ

中桐 かなえ

2/11

スカンポ

井上 華那
©GION

2/10 & 2/12

光介

杉尾 真吾

2/11

光介

和下田 大典

2/10 & 2/12

信次

黄木 透

2/11

信次

勝又 康介

2/10 & 2/12

民吉

久保田 真澄

2/11

民吉

泉 良平

2/10 & 2/12

ニングルの長

江原 啓之

2/11

ニングルの長

山田 大智

2/10 & 2/12

かや

丸尾 有香
©︎Yoshinobu Fukaya

2/11

かや

長島 由佳

2/10 & 2/11 & 2/12

信子

佐藤 恵利

合唱 日本オペラ協会合唱団
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団

スタッフ
合唱指揮 河原 哲也
美術 松生 紘子
衣裳 下斗米 大輔

13 Comments

  1. 初めまして、
    小山シーナと申します。

    他にご連絡先がわからなかったので、
    こちらのコメントにお便りさせていただきます。

    30年くらい前に、
    鎌田東二さんと横尾忠則さんの公開対談を
    見せていただいた時に、初めてシャーマニズムの文化
    というものに触れた記憶があります。

    それから30年の間に、
    いろいろな体験を経て、
    先月初めてコロンビアの
    素晴らしいシャーマン、

    Kajuali Tshamaniさんという方の
    アヤワスカセレモニーに参加する
    ご縁に恵まれました。

    アヤワスカは、
    Vine of Spiritと呼ばれており、
    アヤワスカの”アヤ”は、
    すべてのご先祖さまのスピリット、
    ”ワスカ”はつた、コードと言う意味があるそうです。

    Kajualiさんのイカロ(セレモニーの際に歌う祈りの唄)は、
    仏教のお経や神道の祝詞にとても響きが似ている感じがあり、
    鎌田さんのロックのリズムにも少し似ている気がします。

    Kajualiさんのアヤワスカセレモニーでは、
    人とスピリットがつながり、協同することで
    創造することができるものすごい聖なる空間を体験させていただきました。

    Kajualiさんのお話によると、
    アヤワスカは私たちが忘れてしまった
    宇宙とのつながりを取り戻すために
    私たちの元に現れてくれているそうです。

    そんな体験の後、ふと、私のシャーマニズム文化への
    興味の始まりは、鎌田さんと横尾忠則さんの対談だったな…と思い出し、
    30年ぶりくらいに鎌田さんのお名前をGoogle先生におたずねし、
    こちらの京都面白大学の講義にたどり着きました。

    ”宇宙神学者宣言”をされた鎌田さんに、
    ぜひ、Kajualiさんの創造したNabi Nunhueという場所での
    (母なる宇宙という意味)アヤワスカセレモニーに参加していただきたいと今、強く思います。
    今はまだ体調が無理かも知れませんが、考えてくださると嬉しいです。

    初めてのお便りで、どこの馬の骨かもわからない人からの図々しいお願いですみません。
    ですが、お二人が出会って、対談でもされたら、ものすごい深い英知がお互いに引き出されるに違いないと勝手に思っております。

    私はかれこれ30年近くアメリカに住んでおり、そのうちの25年以上はサンフランシスコ周辺、米エリアに住んでおります。

    鎌田さんもご存知と思いますが、ベイエリアはヒッピームーブメント全盛期の中心地だった場所でもあり、意識の探求が盛んな場所でもあります。

    私は心理学、意識学、シャーマニズム文化などを学び、仕事としては心理セラピー、コーチング、エナジーヒーリングを組み合わせて、”ソウルワーク”としながら仕事をしております。

    Kajualiさんのお祈りの唄が聞けるYouTubeリンクをこちらに記載させていただきます。
    https://youtu.be/7w-dKGKQoJE?si=ahHt3KW-ek9vgRLs

    KajualiさんのCDをデータでお送りさせていただくことも可能です。

    もしこのコメントを読んでいただいて、お返事いただけるようでしたらとっても嬉しく思います。

    よろしくお願いいたします。

    小山シーナ

  2. 飯食って糞ひって、うーん。三年も経ちゃ骨まですっかり入れ替わっちまう。へえ、高齢者の痴呆症の魂なんて何処にあるんだね?地球は、太陽を回り、太陽は銀河系を回り、銀河系も猛スピード移動している。あほな話、天国も地獄も引っ越しに忙しいこっちゃ。阿保は、地上の存在の使い回しをもっと深く考えるべきだ。同じ自分が、この地上に現れることなんて200兆年掛けても起らない。弥勒さんだって間に合わないんだよ。他者に依存して生きていることこそ有難がるべきだよ!!!

  3. こんにちは。(はじめまして?)
    コメントさせて頂けること、有難く思います。

    ユーチューブを見ていて、いきなり飛び込んできたこのお二人の対談に心惹かれました。
    見終わって、即チャンネル登録もさせて頂きました。

    コロナ禍前の何年前でしょうか?「大重まつり」、及び前夜祭に参加させて頂いた、名もなき関西のオバチャンです。

    過去の動画を含めて、鎌田先生のお話に触れられる機会を与えてくださったこと、心より感謝申し上げます。

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