令和5年度ガイド養成講座第6回「赤色顔料の生産と使用からみた山陰地方の弥生社会」公益財団法人徳島県埋蔵文化財センター 西本和哉氏 ※PDFをダウンロードのうえ、ご覧ください。

皆さんこんにちはあの徳島県から参りまし たあの西本こます今日はまあ2時間余りの 講演会ですけどどうぞよろしくお願いし ますえ先ほどあのご紹介いただきました けどもあのま徳島はですねこの赤色岩城 山地あるということで皆さん若杉山新車 採掘移籍っという移籍をご存知の方 いらっしゃいますか 意外に少ないので徳島の中ではねだいぶ あの周知されてきたけどましたけども まだまだ全国的にはねあまり有名な移籍 じゃないということが今分かりましたえ実 は私ねこの遺跡に20102015年から あの調査をあの参考してまして約5年ほど まこの遺跡にあの県の職員として関わって まりましたでそれでまそれからあの調査 きっかけに外に興味を持ってあの研究をま 細細とあのさせていただいてるんですけど もま最初にねあのそういう研究をする時に ま全国の事例をですねあの色んな地域の 報告書とか本を読みながら調べていくん ですけどもますごく驚いとこがありまして それはですね山陰山陰地方っていうのが 非常に赤色官僚がまたくさん出動してい るっていうことにまずあの驚きましたえ それはですねあのま非常にま得意なことと 思ってるんですけども実はその赤色含量が 出動したと言ってもですねあのドキとか あの石器みたいに分かりやすいものじゃ ないんですよね赤色の含量ですからこれ あの出動する時はどれも粉体になって来 ないになってるんですねですのでこれ なかなかあの見つけることが難しい思ます ですのでこれだけあの赤色岩流の資料が3 1をやるっていうことはですねまこの地方 のあの調査を担当されるま調査員の方とか あるいはあのあの作業員さんとなるいかに それを問題意識を持ってまその調査され てるかっていうことのま賜物だと思います でさらにねあのそういったあの遺跡を掘る とこう膨大な時とかね席が出しますけども まそういったものをあの埋蔵文化大 センターとか博物館に持ち帰りまして調査 していくんですけどもこの赤色含量はもう 数千点とあるいは数万点にの破片に1点 ぐらいちょこっととついてるいうケースも あるんですよねですのでま非常にこの地域 のね 究があの問題意識を持ってされてるかって いうことがあのこちらのねあの報告書を 読んでいてよく分かりましたでそれでま そういったあの研究調査研究にま私もあの 影響を受けましてあのいくつかねここ5年 ほどであの産院地域の正食管料に関わる 仕様をま拝見させていただくま市場調査さ

せていただく機会がありましたでそれで いくつかま成果を出してきたんですけども まそういったあの成果をですねまこちらの ええ方が見ていただいてま今日私がここに ね呼んでいただいたんじゃないかなという 風に思っておますで今日あの来てお話して おりますとまこの講座を受行されてまこの 後ねあのガイドさん歴史ガイドのさんとし てまあのご活躍になる方もいらっしゃる いうことをもお聞きしてますので是非ね 今日はこの関職がっていうのをよく知って いただいてま参院のね野時代を特徴付ける 1つの高校市場としてあ皆さんに紹介して いただければなという風に思っておる次第 ですでまず今日の講演の内容ですけども 大きく3つのテーマを設定しましたまずは あの野時代に赤色っていうのがどういう 意味を持ってま使われていたのかっていう のをまずこれを知っていただこうと思い ますこれはうっすらとね大枠にえ詳しい方 でしたらなんとなくあの想像はつくと思う んですけどもま今回はあの実際の事例の 写真で紹介しながらですね考えていきたい なという風に思いますそして2番目えは あの徳島県ア市のま若杉山新車籍これ残念 ながらあのあまり参の方に周知されてな いっていう事実発しましたけどもまこの 移籍をですね私調査担当してきましたので ま一番得意とする話の1つですですので これをねじっくりとお話しさせていただき たいと思いますで3つ目えこれはね地方に おける赤色含量の生産と使用について じゃあま徳島の話はさておきまあのサイ 地方ではあどういう風にあの赤色管理を 入手あるいは生産をしてどういう風に使っ てたんだろうかっていう話をですねえ そんなに量は多くないんですけどもあの今 私があの考えてることをご披露できればな という風に思っておりますでは早速ですね あのまず最初にあの赤色官僚とはあの矢代 の赤色感度どういうものだったのかって いう話をさせていただきたいんですけども まずあの前にえ書いてますようにあの赤色 で皆さんあのまイメージすると今日赤い服 切られてる方もたくさんいらっしゃいます けども実これをねあの漢字を書いてくださ いっていうとみんないろんな赤色を書き ますあのシっていう字であったりタンて いう字であったりあとは火ですねそれから くれないそれからあねまこれらね全部あの イメージとしてはま赤い色赤い色をま イメージされると思います 私たちはねまこういったあの色の元になっ てる素材とかどういうものに色がついてる かとかあるいはこの微妙なねこの夕焼けの

色とか赤い服の色とかまそういった微妙の 色調の違いによってこういったあの感じで ねこね使い分けてるんですけども実は弥 時代にはあのま漢字はあったという意見も あるんですけどまそれほど普及はしてない ですよねですのでそういったあの感じに よる別がに行われたっていう根拠はないん ですけども実は野時代の人っていうのは この自然界の植物とかあるいはあの鉱物 からいろんなこの色をね取得して使い分け てたっていうことが分かっており ますまず1つはですねあの奈良県の桜市の 牧遺跡これ日子のが住んでた山大国じゃ ないかっていうあの意見もあるような集落 ですけどもまここであったり福岡県のえ 福岡市平中遺跡分まこういったとこの弥 時代の地層を分析した方いらっしゃいまし てそのや時代の地層まや時代週末期です けどもこの地相の中からあのベガの花粉が 見つかっておりますでこれはま3世紀頃な んですけどもまあの日本日本列島でこの ベバのカとしては1番最古の例なんですよ ねですのでこういった3世紀頃に大陸から あのベニバナの栽培とかえ染色の技術が 伝わってた可能があるというま非常に 大きな発見でございますもしかするとこう いったあのベニバナで染めた赤い淡色の服 をこう身まったね人がいたんじゃないかな というようなことを想像させるようなあ 貴重な発見だと思いますそれでこういった ねベニバナのように水などの溶媒に解ける 物質を我々線量という風に呼んでますあ 徳島には愛染っていうのがありますけどね あのまそういったあのものあの水溶ける ものを線量っていう風に読んでますそれに 対しましてこう混ぜてもこう不要のもの 解けないものを我々含量という風にえ 呼び分けているわけですそしてこの含量 ですけども野時代にはあのこれまでの調査 によってま2つの残量があるってい風に 言われておりますえ1つはあの左側ですね 弁からでもう1つが酒まあの水銀酒って 言われる方もいらっしゃいますけどもま 今回のあの公ではま主で統一したいと思い ますま通この2つのあの残量がですねエジ に使われたっていうことが分かってますで この弁からについてはですねあの赤鉄鉱と かあるいはあの沼とかそういったとこに あの集積してます癌水産化鉄を焼いたもの を粉砕して作ったと言われてますですので ま集落の金辺にあの沼とかありましたらま そういうとこで取れる可能性が材料が 取れる可能性がある了りますで一方でこの 主っていうものは有価水銀の主成分とする 鉱物の新車を採あを粉砕することでま生産

されるんですねで日本にはこの新車って いう鉱物はですね熱水脈としてえ形成され るっていうことが分かりますちょっとこれ 難しい言葉ですけどもまたあの後ほどね 詳しく説明したいと思いますですのでこの 熱水鉱脈があるとこでしか取れないという とでまこういったものがこの種がですね 赤色僚の中でも弁からよりま貴重と言わ れるま理由になってますそれでじゃあ野 時代の人っていうのはまこういった官僚を どういう風に扱ってたかっていうところで ますごく興味深い研究があるんですけども これはですねあの福岡県にえいらっしゃい ますあの首の研究者の本田光子さんの研究 によりますとま北部九州の代中期後半の 白式石部のあの調査をしたんですねでその 白式石貫語の中にはこう赤色の含量が使わ れるとということでその赤色含量の石間の 中のいろんな部分をこう分析していくと 白式石間のあの中のにはこう全体にこう ベガを塗ってええおそらく遺体が埋葬され てたその遺体のあの東京部だけにこの商量 の種を使ってるっていうことがあの分かっ たそうですですのでこういったことから何 が分かるかというととこの野時代ま2つの 官僚があったんですけどもも確実に野時代 の人はこのベガと集っていうのをま 使い分けていたということがあのはっきり しており ますそうしましたこういったあの赤色のを ですね矢はどういうどういう思いを抱いて 使ってたのかっていうのがあ問題になるん ですけども実はこれが非常に難しいですえ こういったね精神面を高々学からああの 想定するっていうのは非常に難しいんです ねやはり高古枠っていうのは物に基づいた あの物の研究に基づいた学問ですのでこう いう精神名が非常に難しいただあの移行の や異物のですねまどういう風に出てくる かっていう共通性からある程度あの推測 することは可能であるという風に考えてい ますえ例えば今日はですね前に2つの写真 を用意しましたけどもあの左側は福岡県の 西部からえ佐賀県の東部にかけて次代の中 の遺跡で予ててくるニ魔剣時っていう時 ですで右側はこれよくご存知の方も いらっしゃるかもしれませんけどもえノビ 平の野時代後期の遺跡を掘ってるとま しばしば出てくるパレススタイル時と言わ れる時ですこ非常に美しいですね後が塗ら れてこれはいずれもあの時の表面にえ年柄 が塗られたま積載時という呼ばれるような あ時ですでこういったあの時がですねどう いうところで出てくるかっていうのをこう 調べていくと例えば母ですねお墓九州だと

カカが作られる母のま周りの溝であったり とかですねえそれからあの水辺の祭祀に 関わるま水が流れてるような場所で出てき たりすることからまこういった時はま祭祀 でえ使用されてたんじゃないかなっていう 意見が非常に根強い ですでそれからえ岩流を使ったあの他の例 としましては えこれ埋葬施設お墓に難を消するという声 が見られます皆さんこれは非常に馴染み 深いと思いますあの西谷分球簿のようにあ ご見学された方は非常に印象に残ってると 思うんですけどももこういったあの埋葬 施設に主を施すあ官僚を施すっていうのは ですねま既に福岡県では野時代の装備から 見受けられますそれでえ北部九州ではや 前期の公用にですね成人用のカ館これ下に あのあの吉関のあの復元模型をしてます けどもえこういったカ感が流行し始めると こう中にですねあの人の周りにをあの手で あの彩ったりあるいはこの亡くなった人に こう主をですねこう振りまくようなどうも 行為が行われてるっていうことが分かって ますえ首の研究者の一さんていう方 いらっしゃるんですけどもまこの人非常に 的を得たあのネーミングをしまして接種の 風習っていうような言い方をしましてこう いった行為はま死後の世界での安寧とかま チコがえ期待されたんじゃないかなという 風にえ考えられていますでそれからまこう いったあのえ得意な事例としてはま岡山県 倉敷市の立つ噴気のようにですねこの非想 者のを納めた目覚の木管の中にですですね あのここは32kmの あのま種があの使われてたっていう事例も あり ますまこういった事例からですねま皆さん およそまどういう時にあの時代の人が赤色 を使ってたかていうことがなんとなくです ね見えてくると思うんですけどもまず1つ はですねえ祭祀や早々といったどちらかと いうとこう生活をしてて非日常的な場面を 色ということがまなんとなく分かってき ますえそれからああいったあの縦地分球簿 などのようにですねま大業のこう種を使っ た事例を見てみますと異常な信者ああの種 っていうのは貴重ですからまそれ自体を ですね多く持ってあるいはそれを使用 するっていうことがそのあの亡くなった人 のあの権威を示すようなあの象徴になって たんじゃないかなっていうことは分かり ますまつまりですねえ当時野時代の信仰と か思想まこういったものがま野時代の人が こ信者あるいは主をですねこう求めたり あるいはあのこの後お話をしますま一生

懸命こうねえ新社を採掘するんですけども まそういった動機になったんじゃないかな ということがえ考えられ ますでそしてですねあのこういったへ時代 にま赤色官僚がまどういう風に扱われてた かということを考える上でえ皆さんよくご 存知のこのギシ馬神殿の記述っていうのは ま非常に重要な部分を占めますでこの芝 神殿はわずかですね2cmほどの文字でえ 書かれてるんですけどもその中にですね あの前に示してますように4つおそらくま 赤色含量を指すんであろうというあの記述 が見られますえまずですね1番上えこれは ですねえ当時あの和人のですねその種族に ついて書かれた部分を引用してるんです けどもまここに書いておりますようにえ下 を持ってその身体に塗るまそれがま中国で お白いを塗るようにな様子似てい るっていうことが書かれてますま当然です ねこの石神殿をあの執筆されたですね珍珠 っていう方がいらっしゃいんますけどその 人はあの和国に来てないんですねでも おそらくこの和国に来た死者にとってはは まあの和人がこの身体にですねあの手段あ ま赤い含量を塗っている様子が非常に印象 的に移ったんだろうと思いますでそれが ですね中国のお白いを塗るような風に 見えるという風にえわざわざ記述してあり ますでそれからま1つ飛ばしまして3番 ですねまこれはですねあの継承2年ま正暦 で言うと238年ですけどもこの時に日子 があの義にあの死者を送るますよねでその 時にま皇帝当時の明定がですねま非常に 喜びましてえ帰りのあの船ですねあの日子 に特別にいろんなシジをま可視するていう ものがありますでその可視されたまシジの 中にはですねえいろんなものがありまして ここには有名なあの同居100枚えあの 三角寺新宿がそうじゃないかっていうご 意見もありますけどもあの有名な同100 枚が生まれてますでその同100枚のすぐ 後ろの術にですねえ新珠お50機の たいって書いてますえこの術からですね エタンていうのはこれまだ発掘ではあの やじに使ってないですけどおそらく鉛を 焼いたま含量のことだと思いますけどもま こういったものが書かれてますでまたです ねこの前の真珠っていうのもですねま普通 に思たあのパールですねネックレスに使う 真珠という風に呼ばれるんですけどもま 研究者の中には新種あ産の主をさすんじゃ ないかっていうこと考えもありますま いずれにしてもですねまこういったあの あの岩流をですねあの工程から秘密を もらったていうことが分かりますまちなみ

にこの新珠がですね新種だったらまこの 50均っていうのはどれぐらいになるかと 言いますと50均っていうのは重さで行く と11.33Gぐらいですでちなみにこの 新車っていうのはあの水銀のとの化合物 ですから非常に比重が重いんですねでね 体積にすると大体1.4Lぐらいまこの皆 さんペットボトルでだ分かっと思ます 1.4Lあの皇帝からの贈り物にしては ちょっと寂しいなっていう風に思われる方 いらっしゃると思うんですけど実はこの後 の若杉山遺跡のお話を聞くとま非常に妥当 なあの数字じゃないかっていう風に思わ 思うかもしれませんのでちょっと覚えくて きますでそれからですねえ秘はですねこれ 4番の9ですけどヒミコはえその5年後 ですね精子2年にま再びこの銀にね記者 使い起りますえそん時にはまその当時和国 でまそそれられるま非常に一級品をねあ 携え記者に携え持っていかせるんですけど もまその中にあの成功ですねこれあの奴隷 奴隷という風にれてますそれからその次に あの和の2式とかですねこ織り物関係が 続きましてそれからまあの木の弓とかや ですねそういったものもあのあの揃えて ですね試せでその中にま3っていう記述が ありましておそらくこれはま和国さの新社 じゃないかなという風にま信者ができた あの主ですねじゃないかなっていう風に 考えるま意見が多いよですまつまりですね こういう記述からえ赤色眼病やその育の 信者っていうのがですねま当時矢当時に あの大外的な外交の版のま同等品として あの送ったりれたりするケースがあっ たっていうことが読み取れるかと思います そして最後にこの2番ですけどもこの2番 今あのこの2番の記述はですねえ和国の あのまそので取れるものとかもうそういっ たあのもう傷してる部分なんですけどです けどもえその山にはま単ありっていう風に 書れてますでこれをですねあの徳島の公園 会披露するとこれはもう絶対徳島の山の こと指してるんだだろうというま根強い ファンがいるんですねあのただねちょっと そこは慎重になりたいところなんですけど もじゃそのその山っていうのはどこを差し てるのかっていうえ問題ですただこれはね あの結論会言いますとなかなか難しいです ねあ和人典の内容っていうのがま西日本の 野社会を記録したっていうものはいうこと はですねま多くの研究者も認めるとこなん ですけども実はあのこの新社が取れるま 水銀交渉ですねも見ても九州からあのあの 見それからまその1つにま泡ですね徳島の とこがあってこう色付けしてるね日本列島

のあのあの四国から関西九州にかけてこう いったあの新車が取れる鉱脈っっていうの は確実に存在してますで実際これあの金星 の鉱山の後をこう印をつけてるんですけど もま金星はこうではこういうとこでま新車 を採掘しておりましたのでまこういった 事実からがまなかなかあのその山っていう のはですね徳島のま1つの山を差してった のかあるいはまこういったあの和国で いろんな取れる山を総称として使われてた のかっていうのがなかなかこれは証明でき ませんのでなかなかあのその山が徳島の山 でか言えないんですけどもまただ重要なの はですねあのこれから紹介する若杉山新車 掘遺跡っっていうのが実はまだあの特殊 あの全国で唯一のあのこの新車を取ってた 様子が分かるえ遺跡なんですねですので あの今日はこれを目一杯であのご説明させ ていただきたいんですけどもあの残念 ながらこ下に書いてますけどもこの山陰 地方にはこれあの新社の公約がないんです よねですのでまあのさ最初のに冒頭にです ねま参院地方ではまたくさんあのあの種が 新社が作れる種が出てくるという話をし ましたけどもおそらくこの地域の野人って いうのはあのもっぱらですね立との攻撃ま 中国であったりあのま大陸であったり あるいはその徳島もその1つだったかも しれませんけどもまそういったところから 入ってくるま主にま頼ってたっていうこと があのをお断りしとこうかなという風に 思いますえそれでえいよいよ あの若杉山新車採掘遺跡の話に入っていく んですけどもまこの遺跡自体はあの徳島県 のアナ市に所在しますえそしてなんでこの 遺跡がま注目するかっていうのは先ほど 少し申し上げたんですけどもまその遺跡が ですね非常に珍しいていうことがま言える かと思いますあの日本高校学ではね遺跡の 性格におっていろんなあのネーミングをし てます例えばあのこの後ろに岡山1号なり ますねこれはあのま分母の部類に入ります 遺跡の性格としねそれから例えば松江城 これはあの上客ですねでそれから田山遺跡 これはあの集落遺跡っていうあの日本国学 ではこういうに遺跡の性格をあの分類して おりますでその中でも日本国学では原材料 を採取して手を超えることで製品を 作り出した遺跡のことを生産遺跡と呼んで ますそしてえ全国にはですね弥時代のま 遺跡これあのま名前がついてるものもあり ますし まあの埋蔵文化の構造地ですねや時代の 遺跡がどうやあるあるだろうっていうとこ も指しますけどもこれらは3万19000

件ぐらいやのあの遺跡があるそうですで その中でもこの生産移籍ってのわずか1% ぐらいしかありますでその中の1%の中で もこの新社を取ってるっていう意味では このまだ若杉山新車採遺跡が唯一ですので あのまあの非常にねそういうこのこの分野 のをしようと思ったらま欠かすことができ ないま重要な移籍だっということは分かっ ていただけるかと思いますそしてこの遺跡 はあの徳島県とアナイスさんがですね 2017年からま2年をかけてえ調査をし てきましてまその成果が実りまして 2019年の10月16日に国の指摘に 指定されましたでまた2023年にはです ねこっから出した異物がま重要文化罪ある というまこの現と即しとした異物それぞれ がま国の指定を受けたっていう状況です そしてこの一連の調査でまどういうことが 分かってきたかと言いますとここに書いて ますようにま野次代の人々がま新社の参上 ですね新社がどういう風に山に出てる かっていうことを非常に熟地して効率的な 採掘を行ってたでそれからその採掘がです ね山のイてパッと取るだけじゃなくてその 採掘っていうのはまその徳島の地域社会 グルで非常に組織的な採掘をしてたって いうことは分かってきましたえこれまでね その新車っていうのはま5分掘ると分母 掘ると出てきます主が出てきますけども実 はこれをどういう風に入手したのかって いうのはなかなかあの法学者の中でも ちょっと分からない謎めいた部分だったん ですけどもまこの春山新車採席の調査に よってまそういったところがま徐々にあの 分かってきたんじゃないかなという風に 思いますではえ具体的なその遺跡の場所 から紹介していきたいんですけども え徳島県安市の場所ですね今日私聞きまし たけど大体あの車で5時間5時間僕もこの 穴で住んでるんですけどま5時間かけて2 に行こうっていう人が公園の最後に現れ たらいいと思いますけどもえ徳島市がです ねちょうどこのあの沿岸にありますけど 徳島市からさらにあの車を走らせてえ南に 2020kmほどといったとこにまアナン 子がございますでアナ市にはねあの四国の 第2の高さがあるあの健山あの健山山が ありますね健山からこう流れた一級河川の 中川っていう川大きな川がねあの流れて おりますであの市役所があるあの富岡って いうところはまその加工付近にあるんです けどもさらにそっからですねあの10km ぐらいあのあの直山の中をずっと入ってい でこの山はですねあのまあの四国産地 の1番東端でしてこのア市っていうのは

ですねあの四国にまたくさん市町村あり ますけどもえ四国の中でも1番東に位置 するまあの市町村ということであのえ位置 的な環境をねあ整理していただければと 思いますでこうあの中側に沿ってずっと山 の方四国産地に入っていきますとちょうど このあの沿岸部から10kmぐらい来た ところでもうあの兵がなくなりましてね こんなあの山の世界3頂になってきますえ 3幹部に入るとあのこの中側ですねこの3 幹部のこ低いとこを打するようにえ流れて おりましてずっと遡っていきますとまこ あのまこういった風景がえ見られますこれ はちょっと遺跡のあの北側の上空からこ 俯瞰するように撮影したものなんですけど もえ跡がどこにあるかと言いますとこの 中側にえこの怪山という山からですね流れ てくる小さな他人の底を川が流れてます この川をま若杉谷川って呼んでますけども そのあの吐き出し口はこの辺りにあります でそれがずっとですねあの谷をあの山の あの海石にの中を流れてまして大体こう 中側から歩いて30分ぐらいあのうる山道 を上がっていくとあの若杉山新車最遺跡に 到達しますでちなみにね今海遊山っていう 言い方しましたけどもちょうどここはね あの大寺っていうあの四国88所レジンの 21万所はこの山のあの女付近ありまして あのあのお変さんがねあの今こう歩いてる 場所にもなってますその遺跡に行くとこう た白小を来たねおさんがあのとはま すれ違うことがまあるかもしれないでどう してじゃこんな山の中の遺跡で発見された のかと言いますと実はこれはかなりあのが 古いんですよねえ実はあのこの遺跡がま 見直されるきっかけになったのはえ 1953年にあのあのこの鴨田村っていう 村があったんですけどもまそれがまあの 町村合併をする時にまあ尊師を作ろうと いうことであのま地元の共同歯科があの 研究会をあの立ち上げるんですけどもえ その研究会があのま調査したことは しっかりですでその研究会が出した差しは これなんですけどその中にこの発見の経緯 が書かれております え太平洋戦争中にえ兵器民主をする水銀を 探してえ赤海岸の下を掘ったところま貝が 畳のように並べられていて人骨一体が横 だっていたとえその辺りには久保ととき 称する叩き石が数子あり赤海岸の小石が 薄く捕まえ高く置かれ思うに石時代の罪 静かであろうかすでにあの戦事中ですね 太平洋戦争中にま地元の人たちの中では どうも石器がゴロゴロ落ちてるということ でまここに遺跡があるんだろうということ

が言われてましたただねあのその辺にあの その辺に人骨があったということで当時は ねまだあのこれはあの古いお墓なんだろう という風な認識だったそうですそれで 1953年に結成された研究会がこの翌年 にですねえそのあの付近のあのにあった 岩影のま洞窟ですね洞窟の中を調査するん ですけどもまあのその洞窟はですね当時ま この洞窟に人が住んでたんだろうっていう ことを想定してその洞窟の中を調査してみ たんですけど残念ながらそういったあの 生活の痕跡っていうのがあ見られなかった んですただですねその調査まわずか戦後 あの9年目ぐらいの調査ですけどもその 調査の時にまこれも地元のあの方ですねえ 地元に富岡西等学校っていうあの高校が今 もあるんですけどもそこのあの先生がです ね常ます先生と言いますけどもまこの先生 は非常にその互学にあの詳しい方でしてま その人がその研究会と一緒にですねその 調査をした洞窟をあのあのに同行するん ですねえその時にこの先生がですねえま これはま洞窟ではなくてま付近に時がま 採集されることからおそらくこれは新車を あとあの採掘したま弥時代の遺跡なんじゃ ないかなっていうことを最初にあの指摘さ れましたまこれがねあのま戦後9年なん ですけども初めてこの新車採掘移籍って いうのがま日本で位置付けられたえ時に なりますでその後1969年少し間開くん ですけどもその時にわずか3日間の調査な んですけど当時あの日本のま今もそうです けどねあの主の研究をま牽引されるあの 一芸ささんがあの現地を調査されましたね まこれはあのあの常松先生は言ようにあの この私が探し求めてきたあの新車採掘遺跡 がようやく見つかったんだっていうことを ですねこう新聞にですね地元の新聞にあの 投稿されてますまこういった経緯でねあの 移籍が見つかりまして1969年にはあの あの市の指定指定遺と席としてね 若杉山遺跡の名前でまアナ氏の史跡にえ 指定されることになりましたただねあの皆 さんよくよく考えてくださいあのこの新社 採掘遺跡っていうのは今現段階でもねこれ が唯一なんですよねあの全国に他にないな のに私はずっとであの思ってるんですけど なんでこんなに累でがないえ性格の遺跡な のにこのあの地元のね京都歯科の常松先生 はこれが新車採掘遺跡 ということが言い当てられたま研究外が 調査をしてると言ってもま今のようなねま 何日もかけて調査するように発掘じゃない んですねただ単にこう不要度を取り除く ようなあの調査だったんですじゃどうして

こんなことを言い当てられたのかていうの がすごく気になりましたねま色々調べたん ですけど分からなかったですただねあの1 つ言えるのはこのアガンていう土地柄がま そういったあの遺跡の発見に影響してるん じゃないかっていう風に私考ありますま ちょっとここからはねあのお国自前になる のでお付き合いいただきたいんですけども 実はアナ氏っていうのはね江戸時代から この今現在至るまでもう様々な鉱物をま 採掘してきた歴史がありますちょうどこれ 左下の写真あの図がですねこの色分けして ますけどもえこれはあの柳市の地図に柳市 の地方表層知識と言いますけども地方面に どういったあの岩石が出てくるかていうを 示しますそしてこの緑色の部分がまサガと か霊眼でそれからこの青色の筋があります よねえこれがせかでそれからこの黄色い ところこの筋がありますこれがチャート なりますでこのようにですねアナンの地 表面っていうのはちょちょっと歩くと ちょっと歩くともうあの面に出てくるあの 岩石の成果が変わってくるってい目 まぶしく変わるようなね土なんですなので まいろんなあ鉱物あ岩石た鉱物はですね地 表面に現れていますそれで江戸時代から 現在に至るまで赤海岸大石チャートジモン ガえそれから新車え満貫湖鉄鉱石王子え いろんなね あの岩石やあの鉱物をあの採掘しましてま それを工業化してきたっていう歴史があに なるんですねまちなみにえこれ右側の写真 えこれはですねアナであの のある第席の採掘上の写真になりますえ ここのアとアと横 の中町というところで取られたあの理席は あのま非常にたくさんの場所に作られて ましてえ例えばあの国会議事党ですね国会 議事道それからあの大阪の中島の中央公海 道えそれから皆さん言ったことあると思い ますけどもあの東京国立博物館のあります よねきれな階段の大席が一面に貼られて ますけどもいたところの装飾の石材として え供給されましたでこのようにねやっぱり アナには元々こういう好物に対する知識が あったってことは影響してるんじゃないか なとそしてこの新社についてもですねこの 新社っていうのはから作られる水銀って いうのはですね明治以降医薬品とか軽量 機器蛍光ランプボタ電池とかまそういった ね製品にえ使用されいうことでま日本デト の各地であの採掘が行われてましたでアナ 氏もまそれに漏れずですねあのそのあの 水銀をあの生成するためのま新車が採掘さ れてました中でも若杉山遺跡のある若杉谷

ですねその1つ東側の谷があるんですね そこをあの寒い谷と書いてま神棚て呼んで ますけどもこの神谷ではですねあの非常に あの大きなあのあの信者の脈が見つかった ということでま水鉱山という名前でま本格 的なあの創業がされましたえこの水鉱山は ま明治9年に開口されてからま戦後少しの 昭和2020年23年頃まであの創業した んですけどま今ね新車は採掘してはいけ ませんのでもう今は閉山して るっていうことですただね現地に聞きます とこのようなですね当時の行動をま大きな 石で閉塞してるんですけどもあのこういっ たとこを見ることができます でそれからねあの貴重な写真も見つかって ますまこの2枚の写真はですねあの戦後 あのあの連合国最高司令官総指令ま通称 GQあのこれはあの皆さんマッカーサーで あよくあのご存知だと思いますけどもこの あのアメリカ軍がですね連合国軍ですね あのまあ戦後日本でま占領政策を行って ですけどもこのGHQの中に天然資源局 っていう曲があの設置されましたでこの 天然資源局っていうのはま日本とか朝鮮の ま農業とか漁業林業いはその工業ですね こういったあの当時の日本と朝鮮の資源を ですね調査をしてまそれをレポートに まとめてま最高司令化にあの報告するって いうあの業務を担当してた局なんですけど もこのあの天局によってえ水講座も調査が されましたでその時に押されたであろう 写真を今前に載せておりますまずこれ左側 はですねあの中側のあの下半に作られた あの精錬度のあの写真ですねこレガにし てる様子が見てくれると思うんですけども おそらく山あの報道で採掘した新車をえ ここに持ってきてえそれでまそれをあの 砕いて焼くことでえまあのあの水銀を 効かせでそれをま水中にくぐらせてま水銀 を生成するっていうようなことをここでし てたようですでそれからあのこの右側は ですねおそらく山のま中辺りにあったま 行動から取ってきたあの新車を含むあの あの岩石をですねま砕く砕いたりま より分けるっていうよな先行上の後だと 思いますこのローテ部にたくさんのこの 鉱石が置かれてましてえそれをま女性4人 が囲んでねこう意思を者のついてる意を より分けてるっていうなあの状況を映し てるんだろうと思い ますでこのようにやっぱりあのこういった あのま明治時代からま現在に至るまでま こういった あのあの法物や岩石に対する知識があり ましておそらくあの常先生が

あのこれが新車の採掘跡だというようなま 理解に繋がったんだろうという風に思い ますでそれでいよいよですねあの 本題の若杉山遺跡の内容に入りたいんです けども えま市の指定を受けてからですねま実は その後どんどん調査が進んでいくのと思い はま15年ぐらいま遺跡はですね指定はさ れるんですけど手ずのままずっと過ごして たんですねで初めてこの若杉山新社最遺跡 にま八空調査のメスが入るのは1984年 のことですえ当時ですね徳島県立博物館が ま現代の生産遺跡最初に申し上げました けど生産移籍の調査をまテーマにかげてい ましてまこの遺跡をに白ハのやが立ったと いう経緯がありましたでこの調査ではえ 大体141平米ぐらいのところにまあの 各所にですねこう小さなトレンチを開けて いくんですねえただあのまま当時の写真を こう載せてるんですけどもえ市の指定を 受けてた当時の若杉山遺跡の範囲っていう のはえこういう風にですねねあの畑になっ ておりましてこう13段ぐらいのひ状に なってたんですねだから残念ながらあの 当時や当時の地形が損なわれていたので あのあのここで採掘をしてた新車の採掘を してたっていうところを特定するまでには 至らなかったんですねただあの出動品が たくさん出ましたこういったあの右上に ありますように時がたくさん出ましてま こういった時からあの採掘をした期間が だいぶ分かってきたんですねそれは野時代 の後期の全容から古墳時代の初頭まで大体 250年間ぐらいあの採掘があ当然まあの 整水はあったと思うんですけども行われて たっていうことが分かりましたでさらに ですねあのこういったあの石器ですね採掘 に使った採掘道具の石器がたくさん出てき ましたま大きくこの石切と言われるこう手 に持って使うあの道具ですねとイウスって いうそれとついになってま下でその石石 と石を受け止めるような大きなあの席で 構成されるんですけどもこの石切が大体 300点以上出しましたでこの石ウに関し てもま40点ぐらい出しということが 分かりましたで当時のあの担当者ですね そういったあの石器をあの分析していき ましてこうあのここではガ板に含まれる 新車を打ってえボガを砕いてで末にして いってえ新社をえ取り出してたっていう ことまであの復元されてますでこのように ですねあの当時あのあの4年間かけてあの 八空調査が実施されたんですけども実は 当時これ非常に珍しい調査でしてあのま今 から30年以上前のことなんですけども

あのこの調査はですねあの地質学者とか あのまそういった分析をするような方とか まそれは当然高古学者も含めこういろんな ねあの分野の研究されてる方が一緒になっ てま非常に学際的なあの調査をしました今 あの我々が発調査をする時ですねまこう いった体制多分野のあの研究者が集まって 一緒に調査をするっていうことはま 当たり前になりつつあるんですけどもこの 当時としましては非常にま最先端の考え方 であったそういった中でま色々な成果が あったということで今徳島県の中でもこの あの徳島県立博物館のっていうのは非常に 高くですね評価されて ますえそしていよいよあの私も参加した あの近年の調査になっておりますえまず え最初に行ったのは2015年のことでし た今が8年ぐらい前ですねのことでした けどもえまず最初に怒ったのが真山中を ひたすら歩くということですねえこの若 新車採掘遺跡え非常に険しい場所になり ます大体あのシドがあの30°か40° ぐらいあります今あの普通に立ってるん ですけどこの男性の後ろを見ていただくと ですねこの非常にこう斜面が急だってこと 分かりますあのちなみにあのスキーの ジャンプ台あのラージヒありますねあれが 大体35°ぐらいということなので我々は 日々ですねそれあの月のジャンプ台を登っ たり浮いたりするようなあの調査をしてて まとりあえず席を歩き回りましたでええ そしてあのこのあの歩いてる最長に見つけ たのがあのこういった石がたくさん ゴロゴロ転がってるとこなんですねえ ちなみにこの遺跡じゃないところの斜面は 当然あの山の中なんなのであの落ち葉が 落ちてこう不用土がずっと広がってるん ですよねでもこの遺跡の付近にまこういう 石がゴロゴロゴロゴロあの転がって写メに 転がってました皆さんあの岩銀山とか言わ れともしかした展示の中でずり山まそう いったもの あのことが聞かれたことがあるかもしれ ませんけどあの鉱山ではですねもうあの 目的とする鉱物が取れてそれ以外のボガ ですよねはもうあのいらないっていうこと でよく捨てられて山になってることをあの 釣り屋というに呼ぶんですけどもじゃそれ に習ってあの釣り場っていう言葉を勝手に 作っちゃいましたでその釣り場をですね ずっとこう観察していくと今ここの女性が ですねピっとこう指を差してますけど とどにこういう石ですね先ほど見て いただいたあの石のキがですねをあの 混じってるんですねでその石の多くがこう

破損してるどうやら石として使ったん だろうということでおそらくこれは先ほど 申しましたように新車にを取ったことに よってあの不要な鉱物がこう体積したあ 痕跡なんだろうということが考えられる ようになりましたそしてあのその後あの系 を測量しましてそのずり の範囲にですね色付けしていきますえ ちなみに最初徳島県博物が30年前に調査 したこの範囲大体2000mこの三角形の 範囲が死の指定になっておりますただです ねこの周りは歩いと出るは出るはで いろんなとこにこう石切が落ちてるんです よねでこれこの黒に点が1つ1つがこう 石切が落ちてる場所ですそしてこれでえ それからこの緑の場所青い場所赤い場所で 示してるのがこのあの先ほどの破された歴 が斜面に転がっている範囲これ見て いただくと見事にですねこの釣り場とこう いったあの採掘道具の石切とかですねそう いったものの分布が合致するっていうこと がえ分かると思いますでこういった範囲の 抑えていきますと当初え2000平米 くらいだと思ってたのがまその10倍の 2万平米ぐらいの大きさがあるっていう ことが随分分かってきましたえそれでえ ちなみにこの1番右側の緑色の釣り場これ はま肘1番3つの釣り場の中でも1番 大きいものでして大体 あのあの車距離が150mぐらいあります でテニスコートにするに換算するとテニス コート10面分ぐらいの大きさがあります なので非常にここでそれだけの大きな釣り あの破力にですね釣り場を形成してるので え大きな採掘が行えたっていうことが予想 されましたでこう歩いていきますと ちょうどこの多い釣り場の1番上のとこ ですこれ頭の1番こっちが山の上になり ますこっち側あの川が流れてる斜面下に なりますけど1番上のところであの先ほど あの1950年に鴨田にあのえ京都市研究 会が調査をした洞窟があるっていうのが ありましたけどもまそれがここで見つかっ たんですね残念ながら我々あの長い年月の うちにどこにあるのかっていうのはあの 分からなかったんですけど歩いてくと とっかりここに洞窟があることが分かり ましたえこれはあのあの採掘光っていう風 にこれを読んでますえ1つありましてその 数メ下にもう1期あの入り口がもうあの 不要でで埋まってるんですけど見つける ことができましたでさらにですね え見つけることができましたそしてえじゃ ここでですねちょっとま話は変るんです けどもなぜねあのこのアナンのあのま30

でこの新車があ取れるのかっていう話を まず皆さんにしておかないといけませんま 先ほどあのあの図でですね表層地アナ氏の 表面に出てくる思想の話をしたんですけど も実はこのアナ氏っていうのは日本列島 東西に横断する父部隊という地質祭に属し てますま俗にあの不という風に言われます えこの付加はですねあのここの図にあり ますようにま非常にダイナミックな話して いきますけども えこの海洋のプレートがありますね海洋の プレートがま大陸プレートにこう沈み込む 時にえこの海底にこう体積してた基礎が この沈み込む時にこの開口と言われるこの ま開口あのトラフとかりますねよくあの 地震のニュースとかで何回トラフだとか いう話がしありますけどこういうその プレートの境い目でこの海洋プレートの上 に体積してた物がこの大陸プレートの減に ですねこのあの剥ぎ取られるどんどん潜っ ていてこう剥ぎ取られるんですねえそれで えこの付加体が形成されますで四国産地 っていうのはこの開口付近でできた付帯が どんどんどんどんこう流記してえ山を形成 してますですのでえ今四国産地の山の中ま ア市の山の中を歩くとあの元々この海でで あの体積したあの地質がですね見ることが できると思います例えばあの1番あのえ 多いのがですねえこれですね高山中とか 海面動物ののからからやえ骨片が海底に 体積してできたチャートこの紫色の チャートですねそれから炭酸カルシウムを 主成分とする35礁や有効中の意外が足り できたあの35礁のとこ思い浮かべて 欲しいんですよこういったあの海底の火山 の上にはまあ上は浅くなりますのでねそう いったとこに35礁が形成されてそれがま 切開癌としてえ体積しているええといった あのものとそれからあのこの開口付近に 体積するえ砂とか泥とかこういったものが 体積して固まったサとかデがですねまそう いったものがこの四国のあの山の中でえ 見ることができますそしてこれこの大陸 ケトがにあえに付加したっていうのは実は これはあの非常に前のことでして今から 3億年前と2億4000年前ま気が遠く なるほど昔ですけどもまだこの頃っていう のはあのこのが深田ができた頃ってのは 日本列島がまだこのユーラシア大陸の東端 にあのくっついてた時のことですねでその 後どんどんどんどん時間が経ちまして一気 に新しくなります約1500万年ぐらいに なるとえ日本レッドがですねユアシア体力 からこう離れてきて独立してきますでその 後約1400万年前にこ激しい火山活動が

起こるんですねでその時にこのマグマから 派生した高温の熱水がですねま先ほどの 岩石の割れ目まチャートとか切開癌とか 左眼とまそういった岩石の割れ目をあの この熱水がですね上昇してあの表面に来て 温度の低下とともにま結晶化したのが熱水 交渉っていうりますでこの 若杉山遺跡一体ではですねその熱水脈中に 有価水ぷぷがですねでそれがえ表面付近で 結晶化してま新車が作られたということが わかますですのであの新車の母がである 切開癌やあのチャートとあの新車ができた 時代っていうのは全く違うんですねだから 新車はその割目に後からできたとことが 言えますまちなみに皆さんがよくご存知の 伊銀山もあのこれ熱水鉱脈を採掘対処とし てること皆さんご存知ですよねでそ たまたまここはあのま議員だったわけです けどももし岩銀山にあの審者ができてた もしかしたらここはあの銀銀山じゃなくて 新車で採掘水銀講座だったかしないですね まこれ冗談ですけどもまアの場合はこう いったあの議員ではなくて新社いうあの 分かっていただけばと思いますそれでえま そういったあの知子の知識をですねえ持ち ながら遺跡をらく歩いていきますとここで あの遺跡の真ん中のこの線破線を引いて ますけどもここにですね遺跡をこう縦に こう横断重感するようにまここちらが南側 が赤海この北側がチャークこう大きなその 付加体の体積のこの境い目があ るってことが分かりましたで知子の先生に よるとまこういった切開癌とチャートの ように岩石が違うとこていうのは非常に 大きな熱水の脈になるっていうことが考え られますそしてその脈からまこの切開 あるいはチャートの方に小さな熱の主脈が 発生してる可能性があるということを聞し ましたまそういった知識を得た上でこう もう一度この遺跡を歩いてますとこの青色 のずりの1番上のところにですねあのこの 写真になりますようにこれは切開がの中に こうよく見ますがねこの白い筋があります けどもこういう熱水の痕跡をあの現地で 見つけることができたですねそしてこの あの赤海岸の路頭の山側にはですね ちょうどいつも僕たちがこうお弁当を 食べる場所があって小さな平場があったん ですちょうどこのあの舞台ぐらいですかね 非常に小さなあのあの平場があったんです でその平場を歩いてるとやっぱり石とか ですね新車のあの鉱石が拾えましたのでえ どうやらこういった30°も40°もある とこのこういったあの数少ない平場って いうのはま採掘の作業の何らかに使用され

た可能性があるんじゃないかと思いまして 徳島県ではですねまずここにあの発調査を するこの赤い中心のとこですね発調査の トレン地を設定することにしましたで一方 でアスタの方はここであの見つかったあの 採掘光の後の調査を実施することになり ますでえ県が調査をしていきますとまず あの掘り始めると50cm掘るとですね もうすぐにこのあの大きなあのあのせかの 石薄が出てきましたなんで石薄かと分かり といいますとこの表面にポツポツこ穴が 開いてますこの穴っていうのはま後で説明 しますけど新車をこ砕いていく時にあの 形成されたくみなんですよねえそういった ものが出てきましたそれからやい時の破も 出てます一方でこれをあのの横さらに 掘り進めていきますとまこの切開側の路頭 がどんどんどんどん荒になっていくますで その赤海岸のこの同等がですね大体高さ 3.7m以上ま4m以上以上のですねあの このあの壁面になりましてま長さも 8.5m以上これちょっと危険なんでもう ここで発掘止めたんですけども実は まだまだこの壁面は下に続いていますで 注目したのがですねこのあの白アワになっ たこの壁面の様子なんですねちょっとこの 写真では分かりづらいんですけどもこの 表面にこう無数のこの亀裂が入ってえこの 石の表面にえ三角とか崩壊といったそう いう熱水に由来する鉱物がたくさん付着し てたんですねでそこであの私あのスポンジ を水を沢持ってきまして沢で水を組んで あの一生懸命あのささんとこの壁に毎日 へばりついて壁を洗っていったんですね ただ残念ながらこの新車は見つからないん ですそれであの苦労しましてもついに科学 の力に頼ったんですよねあのあの徳島大学 のあの地学者安先生っていうがですねこの 蛍光型のあの蛍光X線装置持ってますこの 蛍光X線装置っっていうのはその測定物に 含まれてるあの元素ですねのまあののは どういう元素が含まれてるかあるいはその 比率がどれぐらいの比率で含まれてる かっていうのをこれも1分ぐらいで測り くることができるような優れた機会なん ですねこれを現時に持ち込んでいただいて こういう風に壁に当てて測定してきました でするとこのあのま水銀を示すHGですね の元素がポンとですね高い数値を示しまし たこに驚きましたね他の場所全然関係ない これ亀裂が入ってない場所を測ってもほぼ 0なんですねその水銀が入ってただこの壁 に限っては非常にたくさんの地点をでその 水銀が検出されましたでさらにあの同じく あの豊島大学の石田先生地質学の先生が

その発掘の時に出るこの配慮ですね白調査 をした時の配慮をこう土に貯めてたんです けどそれを一部持ち替えられましてまそれ をこうあの洗いましてね重先行してあの 顕微鏡で見た結果このようにですねあの新 の細かい粒とですねたくさん見つかりまし たこれ全部1mm以下ぐらいの大きさなん ですまということでどうやらここの壁って いうのはあの熱水交渉そのものだったん だろうということがああ分かるようになっ ていましたただですね皆さんちょっとここ で疑問に思うことがあると思うんですけど も先ほど私その熱水交渉っていうのは岩石 の割れ目をこう伝うようにして熱水が 上がってきてできるっていう話をさせて もらいましたけど先ほどの壁はうんこれ 片っぽがないんですね片っぽがないのに どうしてこの壁に熱水が張り付いてる こんなことありえないわけですね岩石の脈 じゃないですからなのでええ非常にあの どういったことかよく分かりませんでした でそこでえ注目したのがですねこの壁面を 埋めてるこの我が掘り下げてきたあの土上 なんですねただ土上と言ってもですねこれ 横からあの写真を見ていただいたらですよ ほとんど土はないんですほとんどはこう あのせか癌のこの出でできてますでこれを 横から見ると下のほど下の歴ほど大きいで 上に行くほどどんどんどんどんこう歴の 大きさが小さくなってきますね下はもう 子供の頭より大きいもありますけども上に 行くと本当にあのレが細かく砕かれてよう なものが解してましたえこういったのはね なかなか自然の体積では考えにくいだろ うっていう地質学のアドバイスもいただき ましてまさらにあの次はですねそういった あの思想から出てくるなどういった席が出 てくるかっていうことをあの調べました そうすると歴が大きい仮想の方ですね例は あの4km最大4kmの石切りが出てき 大体2kmぐらいあるようなものも たくさん出てきましま2kgあると両手で 持たないとあの使えないぐらいの重さなん ですけどあのあの大きな歴なところほど 大きな石はいそして上に行くほどま比較的 こう半ですね片手で持てるような小さな石 が出てきますさらに1番上の層ではあの 石牛ま細かくあの鉱石を砕くような石牛が 出てきましたえこういった状況からですね つまりあの仮装っていうのは大型の石を 使ってこう現をしていく段階で出た破で 一番上の方は比でこう小さな石でま細かく くといったものがあの解析してるんだろう という風に考えましたまそういった現象面 からですね色々想定して考え出したのがえ

こういった状況です我々が調査したのは この細布地点Aと呼んでる場所なんです けどもおそらくここはま最初の採掘地に なったんだろうで貫入面に沿って今面が壁 ができてましたけどその壁の貫入面に沿っ て壁の片側だけどんどんどんどん採掘して でそこで採掘で出た火災歴は斜面の下に すられてここのあの釣り場を青いの釣り場 を形成したそしてそこでま新車が取れなく なるま深くなって取れなくなるとどんどん どんどんこの熱水の脈を折ってですねあの 採掘視点が斜面の上の方に展開していった んだろうという風に考えましたそしてまだ 発調査行ってないんですけどおそらく上の 方にも本来の小作の上の方にも採掘があっ てまそこで最初にどんどんどんどんの 近づく掘った大きな出来と壊れてしまった 石が最初にすられて1番仮想の大子な排 ましたでそれでだんだんだんだんあの上で は細かい作業が中心になってきてえそれを 捨てるのでついにその南北のあの壁面を 埋まってしまっただ最後あの1番上のとこ で大きな石が出てましたねですのであの石 を使った細かい作業がまそこで行われたん じゃないかなという風に考えましたもう 少しですね詳しくあの見ていきましょう これはあの元にあのあの同じ図があります ちょっと小さかったらそれを見ていただき たいんですけどもこれがこちら側面の情報 こっちが斜面の方下ですね下方ですで我々 が調査をあの設定したのはこの辺りで最初 はこの斜面の下のとこのあの新車のね水脈 を取るんですけども全部取っていて大変な 努力なのであの貫入面の片側だけはこう いう風にどんどんどんどんあの採掘をして いますでここで出たあの破できが斜面の下 の方にどんどんどんどん捨てられて釣り場 を形成していきましたでいずれここのあの あの新車が取れなくなるとあここには 大きなあの穴がきますよねでそ次はあの 採掘地点はさらに斜面の上のとこに熱い 込めを掘るようになりますで最初は どんどんどんどん上りをしていきますので 大きな体積があ斜面の下にすらてその斜面 の下にはあその全段階に採掘をしてた壁が ありますでその採掘再歴によってこの壁が どんどんどんどん埋まってしまうで埋まっ てしまった最後平らになったとこ我々が あのお昼ご飯を食べてた平のとこで石を 使ったような細かい先行の作用が行われた んじゃないかという風に考えまし たそしてえ次にですねえ採掘光の方これ アナさんが調査された方ですけどもえここ を見ていきましょうえこれはですね実は あの先ほど申し上げたのが露天言われる

ようにあのオープン放っていくのに対して ここは横方向にですねあの穴をういて うがってあの角あの最してるようですえ ここちょっと男性が立ってるますけど 入り口はですねこんな狭いあの四つばに なってこう行かないといけないですねこ 調査して何人かあの真に噛まれましたえま これ余ですけどもま中に入ってみますとえ 大体長さは12mぐらいありますでえ入口 から大体3M50cmぐらいいったところ で南側にあのあの分岐してましてこちらも 外に向かって開口しておりますでさらに 6m進んだとこでも二股に分かれて大体 12m12mのえ70cmぐらいのとこで ま穴が終わってるってことですそしてこれ はですね あの調査をすると中にですねこういう風に 石切がたくさん散ってましたし えま当然破壊された歴も出てますで調査を 進めていくとこのあの橋の方ですねその熱 あの新車の脈もあの確認されましたので おそらくこう新車の脈を追ってこうさぼり をしてまこういう形になったんだろうと いう風に考えられてますただですねあの 調査によってあの中からやい時のあの破片 も出たんですけどあの中世ですねあのなん とか古代のあの橋座もあの出動してます ですのであの屋時代に採掘が行われたこと は間違いないんですけどもあのその後あの 構成に人が入ってますのでまどれほど当時 のあの状況が残ってるかっていうのはまだ ちょっとあの疑問が残ると部分ですまこれ から師さんの調査にま期待がかかると そして次はですねあの出動したあ物ですね 出動品からまどういったことが分かってき たのかっていうのもあのご紹介したいと 思いますまずあの1つはですねあの最初に も言いましたけどもあの採掘の期間ですね これが大体の後期からえ人 そしてえそれぞれえ出てきた時ですねの数 を数えていきますとどうやらえ採掘のピー クっていうのがま野時代の後期の後半から 週末期にあったんだろうということが 分かりましたこれはまあの日子の時代です ねみんなすごく喜ぶんですけどそういうと あのままさにそういった石人前に書れた 時代時期にあのこの若杉山がピークを迎え たいうことが分かりますえそれからあの 集落と比でね非常に亀のあの比率が少ない んですというのはやっぱり亀っていうのは 当時あの2たに使いですねご飯を作ったり 使う道具なのでまそういったのが少ないて ことはま特進がいいかなという風に思い ますそれから中にはですねあの時にえ非常 に細かくなったほぼ粉体になったですね

あのま一向にも新車というよりは主と言っ てもいいようなあの赤い含量がついてまし たでそれのついてる場所を調べていくと 内面だけについてるものが899%でそれ から両方についてるのが8%で外面にあの ついてるのが3%だけだったんですねです のでこういったあの時っていうのはま いろんな機種がありましたけどもここで 採掘したあの新車ないま種ですねそれをま 入れる容器として使われてるのかろうと いう風に考え ますえそれからあの原石も出てますええ これはですねあの実はあの新車の細布席を 掘ってるんだからま新車なんていっぱい 出るだろうと思うんですけど実はなかなか 見つけられないですね我々の目でも おそらくあの非常に取り越し苦労 ですねあの新車がありますちょっとこの 赤いとこ分かりますかねこのこの辺りの アップなんですけどもこれがあの今回の 調査で出た最大のま新車の粒でしてえ 13mmなりますあのおそらくこういった ものをこう集めることであのちあの採掘と してましたでさらにですねこれチャートの 母案についたあの信者なんですけどこれは 無数にこうちっちゃい粒がプツプツ プツプツとついてるんですけどこれどれも 表面についての1mm以下のあの者どう やらまこういったねわずかな新者を集めて あの採掘をしてたっていうことがこういっ たあの当時の人が取りこぼしたあの原石 から分かってますなのでえ先ほど あの日子に送られた新車がもしかするとま 11.3kmでしたかていう話を最初義姉 は人しましたけど実はあれだけの信者を あの若杉山遺跡であのそのしようと思うと ま気の遠くなるようなねあの作業が行れた んじゃないかなという風に思いますそして あの次に紹介したいのはこの石切ですね 石切ですで大体この遺跡からもう300点 から400点ぐらいの石切が出てるんです けどもまその大半の石っていうのはこの あの奇跡の下の中側っていう川でねあ 取れるあのサガっていう石が使われてます でただ1割ぐらいの比率でこのって言わ れるま火山癌がね生まれてるんですでこの 火山癌はどっから来たのかっていうのを 調べようと思いましてま中川の上流に行っ たりとか色々県南歩き回ったんですけど 徳島は先ほど申し上げましたようにあの 県南はあの不体なので体積が多いんですだ からサガとかチャートとかそういった岩石 はまその辺りに容易に拾えるんですけども こういったですねあの火山がなかなか拾え ないんですねあのても全くこれとあの様子

が違うような石が広えでそれでま色々探し てあの行きついたのかですね香川県の東 香川市にあるこの塩越海岸とあの海岸をま 色々回って最終的に行ったんですねそこに 行くとままるでこう売り2つのですねあの 石がこう河原で拾えましたえ後から 申し上げますけどもいはこの あの若杉新車最遺跡とこの香川の集団って いうのは非常にこう密接な関係がありまし ておそらくこのあの石っていうのは香川の 方からあのまだまだ40km離れた香川 からこう持ち込まれたんじゃないかなと いうのが今の考えですえちなみになぜ 持ち込まれったかと言いますと地元で 取れるサっていうのはこう体積がなので 体積のこう目があるんですよねですので こう使ってるとその目に沿ってパーンと こう割れてしまうまるでこう竹終わった ように割れてしまうことが多くて実際に こう遺跡で発掘されるものも割れてるもの が多いんですけども実はこのヒがっていう のはま火山癌で非常に均質なんですねです のでこう我々の実験をしてみたんですけど なかなかこうあの割れないま小さな薄は できるんですけどもあのさがに半分にバン と割れてしまうようなことがないんですね なので非常にあの採掘に適した道具と考え られますのでまそういったものをわざわざ 香川の方から運んできたってことが言える かと思いますそしてまこういったあの石と か石失まを紹介しますけども実はまどれを 取ってもねま自然の石を取ってき使います のでま同じ形のものはないんですま2て避 なるものがたくさん出てるんですでえその 中からそういった設を使ってどういう風な 細かい採掘の工程が行われかっていうのを ま不言するためにま我々はその意思をま 実測をしましてでそれでこの石にどういっ たの使用の痕跡が残ってるかっていうのを 逐一調べていきましたで多く見られるのは こういう風にあの根でも石するでもそう ですけどこういう叩く声が中心になります のでこういった細かいくぼみですねがアト 状にバーっと広がっておりますでそれから こう先ほど申しましたように大きなあの あの力であの迫りして割れてしまってかけ てしまったものであったりま中にはこう いうあの叩くじゃなくてこう横にするよう なね動作をしたことによって海岸になって ま昨今が無についてるようなシ石染まり ましたでこういったものをま6つぐらいに 分類しましてえ導き出したのがこういった サイクスの工程ですまず最初はですねあの 掘削と言いましてまこれはですねま岩脈を あの移行で見ていただきましたけど岩脈を

目指してどんどんどんどんあの新車の脈を 折って掘り進む最でそこからあの新車をの 含む熱脈が取れますとえ石牛と比較的多く な石切を使って勢いを変っていくでさらに それを繰り返していくことでどんどん どんどんこの余分なボガですね切開癌とか チャートをのけていくいう作業が行われれ たんだろうと思いますでどんどんそのあの 新車が含まれる熱水の部分が集まってくる とこういったくぼみのある石ウと一角で 小さな石切を使ってえコンコンコンコン あのどんどんどんどん小さくねあ砕いて いきますで最終的にはこういう平らな面を 持つ石と椅でえこうスリスしてですねあの 粉体にしていだっていうことまでえ復元 することができましたただねこの粉体に なった状態1番右の状態ではまだあのボガ である石階癌とかチャートとかとあの新車 があのこに混じってるような状態だと思う んですねまそこからどういう風に新車だけ を取り出したかていうのは実はこれはま これまでの手相品から発言することはでき てませんただま有力な候補としてはま 先ほど申しましたようにあの新車っていう のは水銀が入って化合物ですのでまが 重たいということであの金を取るみたいに ですねこう推をしてあのあの重たいあの 新車だけを取り出したんじゃないかなて いう意見がま有力でござい ますはいそれで最後にですねあのあのその 最後じゃないですねごめんあのそういった あの発掘の あの意向であったり白さに分かった意行で あったりえその後分析した異物の結果から ですねまこういったあのあの予定採掘は こういった状況っなったんじゃないかなて いうのを描いておましたえまこれは色々 あのみんなで思考錯誤しながら書いたん ですけどもまこれがあの県が調査したあの あの壁面ですねおそらくここにあの面に 加入していたあの熱水なをに含ま新車を採 するためにまこういう風な大きな意を持っ てですねこ両手でどんどんどんどんあの 掘り進んできましたで当然不要なあの切開 が出てきますのでそれはまこういった風に ですねあの斜面の下にあの捨ててしまうっ ていうことでえ下に大きな釣り場が形成さ れましたそして近くでえ石が出てますので おそらくあの付近で えそっからあの割りとったえ熱水構面を さらに細かくくいてえ熱水脈の部分だけを 取り出していく作業というのがま近くで 行われてまそういったものが最終的にこう ドキに入れられてえ遺跡の外にええ 持ち出されたんじゃないかなという風に

考えて ますちなみにねあの岩見銀山とか皆さん 行くとあのこういったあの採掘の工程が 色々勉強できると思うんですけども それぞれの工程が分かれてますよね例えば マブの1番奥はではあの採掘が行れる採掘 場がありますでマブから出てくるとまず その出てきたものを集積する場所こあの その熱水が入ったものを集積する場所が あってその近くが多分おそらく先行上が あるますで先行するとは別にまた声援を する場所がまこういう風にですねあの 近現代のあのその鉱脈の採掘さていうのは 採掘あの鉱山っていうのはそういった それぞれの工程があのそれぞれあの場所を 選んであのあの細分化されて るっていうことが言えるかと思います一方 でこの野時代のこの露点採掘場っていうの はま採掘からこの先行までにですねこ非常 に近い位置関係で行われてるっていうのが ですねあのこれは実は今回の白調査によっ てま証明されたっていうことの1つかと 思いますでさらにですねあのじゃこういっ た採掘っていうのがじゃ誰がしてたの かっていうのがこれあの1番興味深いこと の1つではあると思いますでまそれを復元 するために行ったのがまずドキをよく見る とこですねまこれはあの古学部の上等手段 なんですけどもロキっていうのはあの村 ですねその人たちが集団がが住んでる場所 村がある場所のの近くの粘土を取ってきて ここで作村で制作をしますですのでその村 のま近くのあのあるあの年の中にはそ村の 近くのあの鉱物であったりえ鉱石があの武 の中に含まれますですのでえあの例えばA というとこで作られた武があのBのとこに 移るとあのBの村の中にAで作られた ちょっと違う態度の粘度年度の作られた時 が入り込んでると我々はすぐそれを認識 できるわけですですので若杉山遺跡でも 大体3細かい範が330点ぐらいあったん ですけどそれを1つ1つルーペとか県語で 見ましてねどういった鉱物が生まれている かっていうのを見ていきましたでおよそ4 つあることが分かりましたまず1つはです ねこれあの決勝変なというあのえ石が入っ てますでこれはですねあの三波川編成され ている今ま今の徳島市とか辺りですね遺跡 から20kmぐらい離れたとこのま井川の 有一の集落で作られた時ですでそれからえ 2万のこの態度B2類っていうのはですね これはあのあの阻害に由来するようなま 長石とか石絵といった鉱物が含まれてい ましたで先ほどえここは不加体という話を しましたけどもおそらくこの2類っていう

のはま地元で作られた可能性がある武器な んじゃないかなという思いましたそれから 3類これについてはですねま街路とかそう の物がま特徴的に含まれるんですけど なかなかこう特までは見られないえ態度な んですけどおそらくどこからか持ち込まれ たことは分かるんですけどもそれがどこか ちょっと分からなかったとですそれからえ 4類っていうのはまこれは非常に特徴的で ま白線石あるいは金とか言われる時でして え形もすごく特徴的でまこれらの武器は ですねえ高平の頭が遊で作られたという ことが分かりましたまそしてここで注目し て欲しいんですけどもこの他にも山陰事故 それから内機内地域の特徴持時がわずかに あの確認されましたえまえそれの パーセンテージでいきますとま20km 離れた井川借地まこれはね徳島ではあの 非常に大きな集落ま拠点的な集落と言い ますけどもまそういったものが形成され てるえ地域の時が大体5%で地元の中川 流域のえ武が2%で政策不明が11%で 寒きさが6%これ非常に多いんですね集落 を掘っても2%ぐらいしか出ないのでえ 寒きの武器が非常に多くでそれから機内と かサイが1%ま1%って書いてますけど これ山陰の時1ぺだけなんですけどあの3 ので含まれてましたでこういった状況から ですね大体あのあの地元の時っていうの 1/4程度にとまってまして実はこの採掘 を中心に行ってたのは徳島でも1番拠点的 な大きな集落がある約20km離れた場所 の集団がわざわざここまで新車を取りに来 てたっていうことが分かりますでこれが あの山陰系のドキの写真をちょっとあの 貼ってきたんですけどもあおそらくこれは あのこういったあの本時代の初頭頃のこの 亀のですねあの富豪公園のに当たるんじゃ ないかなという風に考えてますまこの時も ですね態度をよく見てみますと徳島の態度 ではございませんでま徳島の時っていうの はこうあの褐色系の色をしてるんですけど これ非常に白っぽい色をしてるんですね おそらく徳島で作られたものじゃないので まぜひね今後あの参院の方に見ていただい てあの産院のまどの地域の武器だっていう ことがなが分かったらねあの非常に楽しい かなていう風に考えて ますそれからあの採掘してた採掘をに従事 していた人がまどういったものをその山の 中でね食べていたかっていうのも分かって きましたま僕らもねあのわざわざあの県長 や毎分センターに帰ることができないので 毎日あのユックの中に弁当を入れてねあの 発掘に行ってたんですけどもま当時の人も

そうです周りにそのあの集落は形成できる ような平場がないんですねおそらくあの 近くにどっか離れたとこに集落を構えてえ 毎日ねあのお弁当を持って帰ってたと思う んですけど実はあのお弁当じゃない可能性 が出てきましたえそれはなぜかと言います とこの遺跡を発掘してるとま貝殻とかあの 魚の骨とか獣の骨が結構出てくるんですよ ねでこういったものを調べていきますとま ここは山の中ですよ山の中ですけどもえな ので炭水産のまま市人とかねまそういった ものも出てくるんですけどもま奇子酸の 真書きとかねえ海水産の冷子海外蛤それ から赤にサザエなんかもでそれから魚の骨 これ炭水の場所にナズも食べてで海水さん のブリサメ岩代天狗ダ黒ダま非常にいい ものを食べてるだていう印象があります けどもまこういった海水酸と排水酸のま 10kmぐらい離れたとこでしか取れない ようなところのあの魚の骨なんかも出てき ましたで中には鹿の骨はの中にはですね この肩甲骨にこの解体の跡がついてるもの もありましたのでまおそらく山の中でで そういうのも捕まえてえ食べる可能性が ありますえちなみにまこういったあの食事 事情からね分かるのはおそらくあの単に 行って採掘するんではなくても採掘をする 人以外にねこういったあの食料を調達 するっていうような人も想定されますので ま非常にこういった食事事情から組織的な 採掘が行われてたっていうことも言えるか と思いますますでちなみに遺跡からは たくさんこう亀の武器もまあ集落遺跡に 比べて少ないんですけども出ていますので えお弁当ではなくてま現地でま調理をして 食べてた可能性っていうのがえ指定されて おりますえそしてえいよいよですねあの サイの話をしていきたいんですけどもま あの一生懸命あの徳島の話をしていきたん ですけどもま報道にも触れましたけども 残念ながらねサイ方には新社の鉱脈がない んですね今発見されてませんなのでま新社 はあの外からのねあの公益とかによるに 頼ってたていうことが言えるかと思うん ですけどもただですねこのベガもう1つの 了ですね便柄はどうやらあの地元でま生産 してたんじゃないかっていう席があ 見つかっていますえこれはあのお隣のです ねあの鳥取県の事例なんですけどもま東白 軍小浦町ののえ梅田遺跡それから同じえ 小倉町の笠第3遺跡とかまこういった遺跡 それからあの東白東白君の国営長の西高 遺跡こういった遺跡でねあのそういう柄を 生産してた痕跡の遺物が出としております えこれは笠第3遺跡でま調査させて

いただいた時に撮影したあの写真なんです けどもえこのようにですねあのあの おそらくあの赤鉄鉱ま参加した工部ですね まの大きな破片であったりえ石とかあの石 ま大石と言いますけど大石なんかが出動し てますでこのあの注目したいのはねこの あの原石の方なんですけどもまこういった あの拳台ぐらいを最大とするな大きな破片 が出てましてえこういったあの柔らかい 部分とちょっとここ筋に通ってますけど 1cmぐらいでこういう硬い部分が構成さ れてるあのおそらくあの石鉄鉱なんですね でえこういったものもあるんですけど中に はこういう硬い部分だけがこう残ってる ものがありますでこの硬い部分でヘべく 残ってる部分の破片をよく観察しますとま 表面にねこう無数のこのサコがすりつけた ような痕跡が見られるんですねでおそらく えこの野時代の村ではあのこの材にですね この石鉄鉱の柔らかい部分を一生懸命こう すりすりつけてですねこう粉末にすること でこうベガを作ってたんじゃないかなと いう風に思いますですので硬いところは ちょっと削るところが大変なのでそ硬い 部分だけはこう風にもう赤い部分を取り 切ったら硬い部分だけがこう捨てられると いうような状況が見受けられるんじゃない かなと思いますちなみにこの遺跡ではです ねこベガを塗った時に出動してますのでま 自分のところ集落でレガを作ってそれを時 に塗るっていうことがされてたもですで さらにえサイにおけるですね次はええ種の 使用方法を見ていきたいんですけどもま これはもう皆さんよくご存知のところで 1番よく周知されてるのがこの分母におけ るえ種の仕様ですえ野時代の後期になると やはりこの山陰地域でも他と同じように ですね埋葬施設で主をする事例が多く認め られますで多くはですねこう頭部とか胸の 部分とかだけにこう主を巻くっていうのが あの多いんですけども中にですねこ西台 本宮号のようにえとかま鳥取島ですね そして差しえ不差し置き号機によですねま 非常に大量のま主が検出された文があり ますちみにこれあの出雲市の坂本さんの 近年の研究によるとですねえ西谷分球房の 第1主体部第4主体部だけでもそれぞれ 10km第3主体部で5kmえ第4種とで も4kmに及ぶこのあの種が使われてで 当然あの日体噴気全部掘ってませんので もしかすると送料としてはこの先ほど冒頭 に紹介した岡山の縦分球房より多くなる 可能性も あの考えられますのでま非常に多くのま種 が島根研でえ入手され使われてたっていう

ことはこれ1つからも言えると思います ちなみにこちらのあの鳥取県の事例では ですね館内に 7cmぐらいの厚みでま種が使敷かれてい たということが分かってますのでこういっ た3のま各うちの当時の主張っていうのは ま主をたくさん入手してま自分のこの権を ですね象徴するかのようにま分母にこう いった種をまふだに使ってたていうことが 分かると思いますでそれからあの分母に 持ち込まれた種のことでもう1つ私が注目 してるのが えあの分母にですねあのの生産部を 持ち込んだ事例がああるということです これはですねえ島大学におられた あ渡辺佐幸先生がですねまこサイ長では 最初にご指摘をされたんですけども西3号 問第1主体部上でこう演劇が出てるます この主がついてる演劇が出てるんですけど もまそれがえ早々の際に行れるま使われる 主をですの種の最終的なま調整に使用され たんじゃないかっていうまご指摘をされ ましたでその後ですねこのあの地元のあの 研究であります大谷さんが大谷浩司さんが あのそういった事例をですね調べていき ますとえ山陰のあの分母の主体部将から こういったようにですね時に混じってあの あの1個しよこなる石がま使われている 事例があってまどうやらこういったあの 分母上の行為もですねまサイ特有のま無上 リレを示してるんじゃないかっていうご 指摘をされました ま非常にあのこういった研究に影響を受け ましてね私も以前あのこの産院に通いまし てまこういった事例をあのもう1度確認し ていきましたまするとですねえいくつか 事例がありましてま中にはですねしっかり こう主がの付着ま年柄の可能性もあるもの があるんですけどもこういった含量がです ねあのついたこう石切ま3石がですね雲母 場からま出動してる自衛がありますでよく ぽいうのを見てみますとまどれもですね あの使用のその魔法の度合っていうのは 違うんですけどもまいずれもこう実用性を 備えたま使をする道具はですねこの分母の あの上から上上とかま中行の中から出て くるとことが分かりましたえなのでまこう いったあの主のサイではこういった種の 生産をまあのボにですね表見するという ようなま声が確かにえ渡先生や谷さんが 指摘するようにあったんだろうということ が分かりますそしてさらにですね視野を 広げてまこういった事例をですねもう ちょっと劣等的にあの調べてみましたで これはあの通時的にですね野時代の後期の

後半頃からえ古墳時代の電気にかけでどう いう風にそういった分母上分母の中に種の 生産が出てくるかっていうもののま変遷を 表しているんですけどもえまず最初にこう いった行為が始まるのはまあ日本海 え特にこのあの山陰地方に事例が集中する んですよねでその後え野事の週になるとま 瀬戸内の東であるいは大阪大阪湾の沿岸で あったり番の西岸地域などにまそういった 事例が広がっていくていうことが分かり ましたそして古墳時代になるとまこれは 古府時代前期までしか示してないんです けども古府時代前期の後半頃にはま東北 地方の南部のまこういった行為が見受け られるっていうことが分かりましたま つまりこういったことからどういったこと が言いたいかと言いますとこの栄時代の 講義から週末期のあのま3地方ではですね こういって分母とま週っていうのがま非常 に強い繋がりがあったんだろうということ を言えるかと思いますでさらにですねま こういった種の生産部をこの分部に 持ち込んでいくっていう行為がですねこの 山陰地域でま生み出されてその後あの日本 のあの各地にこう広がっていった可能性も 考えられるんじゃないかなという風に考え ておりますそしてえ最後にですねえ集落で 出てくるえ種にえ注目したいんですでこれ はですねあの記念あのえ島県のセンターに らしておりますあの上山明子さんが阪にえ 研究されてまそれにまた影響を受けてです ね私もちょっと調べてみたんですけどもま おさんのご研究によりますと出雲とか岩見 地域ではA時代中期からこの時代の前期 消灯にかけてこの集のあの使用頻度がぐっ こう高くなるとこを指摘されています とりわけその内面付着率っていうものがま たくさんあの確認されるんだていうことを あの論文で書かれておりますえこの新しい 言葉が出てきましたけどこの内弁主婦着時 っていうのですねこれはあの最初にも出て きましたけども主の研究者の本田光子さん ががま名付けたあの時の名前なんですねま 名前名前の通り内弁に時の内弁にこう主が ついてでそれ以外にもあのこう時に生じた こうフラックですね日々にこう主が 染み込んでような状況にでさらにロキの 外面にはますすが不着しているのでえと いうような特徴が見受けられるそうです さらにまた多くの時にはこういうあのこう 島根県で出をした内面集着載せてますけど こういう風にあの 注ぎ口をがこう作り出された部品が多いっ ていうことが言えますまこういった点から ですねこの内面周布着時の中にはえどう

いう風に使れたかと言いますと中に液体と 死を入れてそれでまあの熱を加えて何らか の行為をしてたんだろうということがま 従来は言われておりましたでこの用途に ついてはですねじゃ何をしてるのかって いうことですけどもま様々なね説が提示さ れてきましたえ1つはね戦薬調合容器節ま 勝手に名前をつけたんですけどもあのこれ はねあの中国の古代の中国の新撰思想と いう思想がありますよねこの新撰思想の中 に あの000人になれる不不老不死のあの薬 があるまそれを作る容器だったんじゃない かなというような指摘のがされたことは ありますでさらに新車生成用鬼節まこれは あのまそういった新車戦略じゃなくてま 新車を生成する要するに新車にあの粉体に なった新車にま不純物が混じってたらその 赤い部分だけを取り出したいのでまこれに 水と新車を入れてまグズグズあの加熱する ことでまその加熱によってこう富裕をさせ てあの純粋なあの主だをあ主や新車を 取り出すんだっていうように考え方も提示 されましたでさらに再用度設というもあり ますこれはですねあのそういったものでは なくてあのこのこの時そのものが修学で 行われた主を用いた祭祀で使われたものな んだていう説ですねまおよそ分類すると こういった大き3つのですね説が出される ことんですただねあのままこれを所研究し ていってまどれもねなかなかあのあの女で その通りと言えるものがなかったんですね 例えばその戦略にしてももう新選思想が どれだけこの当時野時代にあの和人が理解 をしていたかっていうこともよくわかり ませんしあの新社の生成用季節これについ てもま新社がどういう状態で流通してる かっていうこともなかなか証明されてい ませんですでさらに再議用度節についても とですねこれがもし祭につかれてたんだっ たらがこの内面着時っていうのは九州から 東海地方まで出てくるんですよねですので まそういった広い範囲を包括的にそういっ た範囲で包括的に行われてた祭祀っていう のはあ例えそれ制動機の祭子だってもま そういった範広い範囲で行われてる祭祀 っていうのはま良い時代を通しても見受け られないですねですのでなかなかあのこう いった3つの説に賛同できないでいたん ですねそういった中ねあの色々あの思いを 巡らしていたんですけど1つ あの立域の事例を調べててま気になったの がありましたまそれがまたあの産院のあの 鳥取市のあの青屋上口関の市ですねまこの 報告書を見てると見事にですねこう左側の

ように木製品に主をりったあのこれ仮高槻 って言わあの高槻型の木星なんですけども まそれが出場してましたでその報告書には ですねこの遺跡でどういう風に時代の人が こういう着色をしてたかっていうことが あの報告されてましたでえ1つはですね あのこの左側の写真にございますように この一番下はこの木なんですね機の部分で その上にえ黒いうを塗ってえすウを塗って 最後に主を混ぜたうでコーティングをし てるというような義法がありましたま つまりあの今の皆さん使ってウ番と同じ ですねウを使ってうしに混ぜることで含量 をあの木に塗ってるっていう技法があり ましたで一方であのこちら右側っていうの はそういったうしが検修されなくてこの 木端にですねこう次回に集がにられてるわ んですねで私もこれやってみようと思い ましてカモ行ったに一生懸命水で解いた あの酒をね塗る実験をしてみたんですただ あの新車あ新車ができる種っていうのは これ官僚なので何らかの固着剤がないと あの塗り付けることはできないんですね私 が塗ったカボ板に塗ったあの酒がですね 乾く旗からどんどん剥がれていきまして 塗ることができませんでしたですのんで こちらの木製費にも何らかの固着剤が使わ れているんじゃないかなという考えをり ましたそしてこういっったあの着色の対象 物と酒をこう直に塗るってい声ですねま今 もこう脈々と日本画の技術こう受け継がれ てるんですねえそしてえ日本画ではですね あのこの固着剤にあの二川を使っており ますで二川についてはですね実はこれ私が 最初に言ったになってま産院のあのでは こういっ縦にですね酒を見るような実験も されてたり中にはあの科が疲れてるや疲れ てんじゃないかっていうご指摘がもうあり ましたそういった中であのじゃあの なかなかみんなそのを証明できずにいたん ですねまそういった中ですねあの あの徳島県のあの武器を使ってですねあの 今の技術でその二河をあのなんとかこう 分析できないかていう考えになりました 色々まずは最初に目視を調査したんです けどもま二川っていうのはこの二川って いう感じで書きますけども動物の骨とかあ 川にですね含まれるタパ質コラーですねに 熱を超えることで中出されるゼラチなん ですねですのでこれはあの長い年月にロキ が土上に埋まってると分解されてしまって いくら私がこう市場調査で見てもそれが 三川表面についてたっていうことをえ 見つけ出すことは不可能ですねそこであの 東京大学2の総合研究博物館においました

宮さんという方にお願いしてですねその ドキを一部すりつぶしてそのドキの中に未 物にえされなかった二河の生はないかって いうのを調べてましたでするとえその態度 の中から植物性と動物性のま脂質が検出さ れましたえ当然二川は油れですのでま二河 の可能性がありますでさらにその分析を 続けていくとえこの動物性の油っていうの があいわゆる非半数動物半数動物牛とかね 馬とかこういうあの咀嚼をしてそれを胃に あの踏み込んでまたそれを戻戻してまた 咀嚼してという繰り返す動物ですけどもま そういった動物ではないっていうことがま 原生の動物とのデータと比較すると分かっ てきましたまそこでここ鹿とか命とか勝手 にあのヒルト書いてるんですけども おそらくこういったま動物から身をまず あの作ったんじゃないか川とか骨とかを グツグツ煮ることによって床を作ったん じゃないかでそれにま腫瘍を混ぜてえこう あのドロドロのあのあの鉄町の食の塗料を 作ってたんじゃないかなという風に考え ましたじゃああのこれは徳島のあの写あの 内面集着室の写真ですけどもまどうして この概念にねこのあの黒いスがつくの かっていう疑問が残りますけどもこれは よく二河の特徴をあのしてたら分かるん ですけども日本画でもねあこれはあの二河 っていうのはゼラチン状なのでこれ水分が 飛んだり冷えたりするとあのこのゲル上に 固まってしまうんですねでなのでゲル上に 固まるとこれ塗ることができできなくなっ てしまうですのでおそらく野時代にもそう いうことが起きたんじゃないかなそして ただあのゲルこの内面付着時の中でえ水が あの蒸発してしまって残量があの下場に なったとしてもですね再びこう水を加えて 加熱することによって元のあの赤色眼あ 赤色の塗料の濡れる状態にえ復縁すること ができるんじゃないかなという解釈をし ましたですので私はまいろんな説があった んですけど今現段階でこの内面集付着時 っていうのはですねこういった木製品とか に塗る赤色の塗料を作るためのま道具が あのなんじゃないかなという風に考えてお ますまこういったものがあのえ島根県のま 各地のやり集落で手術をしておりますえ そこで気になるのがですねじゃあそういっ た塗ったものっていうのはどれだけ 見つかってるのっていうことですけども これは残念が徳島でもあんまり残ってない んですただあのあるにはあるんですけども あのこの木製品っていうのは非常にあの 不食しやすいものなのでこう粘土出数に タックされた必な情じゃないと残らない

ですただあの島根県でも出雲市のごタバ 遺跡ではこ縦とかえ容器の客あるいは炭鉱 じゃないかと鎧ですねじゃないかと言わ れる木星品にま種が塗られてる事例があり ますそれからあの同じく出雲市の会場遺跡 まここではこう写真お借りしましたけども 縦ですね事の縦にこ主は塗られた事例 なんかも見つかっていますまですのであの 内面主付着時っていうのは時なのでま腐ら ずによく残るんですけどもまこういった 木製品もはまあの腐りやすいっていうこと を考えら考えるとま あの内面集付着時ですねそういった赤色の 塗料を作る道具とあ考えられる可能性も あるんじゃないかなという風にえ考えてい ますでえそういったものをで色々想像を 膨らませながらえ描いたのがえこの絵に なりますえこれはねあの徳島県のあの平土 遺跡っっていう遺跡を元に描いたものなん ですけどおよそ似たような状況がこちらの 産院でも広がってたんじゃないかと思い ますこう縦穴式縦穴住居の中にではまこう いったですねあの石を使ってま新車を吸い してあのペースト上のあの粉末のま塩を 作っていく声が行われますそれでその塩を 作ると同時にこの後ろにですね鹿の角とか の川越してますけどもまこういったもの からあの身を中止しましてえ路で温め ながらまそういった川 と赤色の眼を混ぜてえ着動を使ってえ生息 塗料を作ったそしてえこの横ではそれを 乾く前に早速たとかですね あのいったまあの木製品にこ使を持って いるっていうとこがあの想像できるんじゃ ないかなと思いますただですねまこういっ たあの貴重なあの州を塗った木星品って いうのはやはりそんなにたくさん出てくる ものじゃないんですね木星普通の木星品に 比べると非常に数が少ないということが 言えると思いますのでこういった種の木製 品っていうのはま祭祀とか利で使用される ようなま特別な木製品だったんじゃないか なという風に考えておりますえそして最後 にですね今日のあのお話をまとめたいん ですけどもえま3地方ではえ新車の参事は なかったんですねないんですねただま公益 によってえそこから大量の死を入手して たっていうことは言えるかと思いますえ それからははあの生産できなかったんです けど年柄はあ赤鉄鉱からま独自に生産して た可能性が非常に高いえそれからあのその 種の使用状況を見ていきます積書管理の 使用状況を見ていきますとま分母における 早々技術とかあるいは武器や木製品に採食 することにま赤色管理を使われて使ってい

ましたそしてあの鳥取県のあの鳥の青上席 っていうのがまままのあの手利目製品の 政策値としてあの非常にクローズアップさ れることが多いんですけどももし内面着 付着時がですね私が申し上げたようにえ 赤色塗料をま作る道具であったならばこう いった木製品っていうのはあ島根県のま 集落でもま作られた可能性作られた可能性 があるんじゃないかなっていうことを 申し上げましたえこのようにですねえ州 付着時があの 多く出てますしまそれ以外にもですねま主 の関連資料がたくさん出動する産院地域 っていうのはこのあの赤色官僚の研究を する上では非常に重要なフィールドなん ですねですのでま今後もですね私もこの 地域のま白調査の成果とか えあるいはその研究の成果をま注視し ながらですねまあの自分のま研究にもあの 関連できればなという風に思っております え以上で私のえ声を終わらせていただき ますどうもありがとうございまし [拍手] たえどうもありがとうございましたあの 少しお時間ありますがご質問があればお受 したいと思いますがいかがでしょう か あの非常に分かりやすい説明でありがとう ございますあの出てきた七節高隊熱水なん ですけどもあれ点々と審者だとか鉄海岸が 取れる関東の秩父の武行山から始まる地行 隊の流れの橋川の辺りにあたるんじゃない かなと思ったんですけどもそれで間違い ない ですあの白通りであの秩父隊の秩父隊って いうのはあの埼玉県の秩父からま捉えた あの地帯の名が でおり ますありがとうございますえ他に方がごい ますでしょう かありがとうございますあの津山と申し ますえっと週の基調さみたいなのすごい あの初めて知ったんですけどもで逆にこの 3位地方では使われている分析はあるけど 算出はないっていうことでじゃその貴重な そをま貿易で大量 にそ3位に持ってくる上でのま対価という か何と交換していたのかとかそれの物流と いうかどういうコース通っていたかみたい なのってなんか知っておられます でしょうそうですねそのまここ産院地域に まかいますとまこれ行くまでにその3地の ですね研究っていうのがあんまりされて ないどっから記憶されたかっていうのはま 法学的にはあの研究あまりないんですけど

もまこうあの自然科学の分野ではまその主 に含まれるこ誘導遺体っていうのを測定し ましてまそのがどこの鉱山の動いとあの 合致するかっていう研究があの新大学に よられるその南先生のグループを中心にさ れてるんですねそういった中で え例えばあの有名なところでは西谷分球簿 なんかま中国産のま分析結果が出ており ますし えおそらくあの中国さもしそれがあの研究 が正しいとするとま中国産の信者があった だろうという考えますそれから あのまただ法学的にはなかなか粉体なので あのあの主と何をあのあの主がどっから 持ち込まれたかってのは主そのものの研究 では分からないですねただまこれはあの 正直って分からないとこなんですけどもま その週以外にですねいくつからあの考えて いく必要があろうかと思いますただま徳島 のですね主がじゃどこからどこに行ったの かっていう研究は実は広報学的にも色々 あの考研究されてましてこれは徳島にあの 菅泰さんという研究者の方がいらっしゃる んですけども 実はこの若杉山新者採掘遺跡の周りから たくさんあの道徳が出てくるんですねそう いった道徳のこの紋様でその産地をあの 推測されましてまそれがどうやら瀬戸内の 東部の辺りの道徳の模様とよく共通して るっていうことでおそらく あの主をあの瀬戸内の東部にえもたらさ もたらす代わりにま道をま大下としてあの 入手たんじゃないかっていうような研究も されてますなのであのま繰り返しなんです けどこれはなかなか主だけを研究してたら 分からないことであの今後ですねまそう いった今日はま香川の時がたくさんあの 遺跡に来てるま香川でえ取れる石切があの 採掘場でたくさん出るっていう話をしまし たけどそういった州以外のあの外野の遺物 からま今後その流通先とかをあの考えて いかないといけないんじゃないかなという 風にえ通過してると ありがとうございます他にどか方 いらっしゃいますでしょう か

当日配布資料PDFダウンロード
文字資料
https://www.yakumotatu-fudokinooka.jp/wp/wp-content/uploads/2024/01/231209nishimoto-1.pdf
図版
https://www.yakumotatu-fudokinooka.jp/wp/wp-content/uploads/2024/01/231209nishimoto-2.pdf

八雲立つ風土記の丘イメージソング
「風土記への道~Road to Fudoki ~」
作曲 櫻岡史子
パンフルート演奏と編曲 李濬廷
https://www.youtube.com/channel/UCCwkV1v-3avSWDwWhADZdOw/videos

島根県立八雲立つ風土記の丘
所在地:島根県松江市大庭町456
電話:0852-23-2485
URL:https://www.yakumotatu-fudokinooka.jp​
Facebook:https://www.facebook.com/YakumotatsuFudokinoOka/
 八雲立つ風土記の丘は、全国で6番目の風土記の丘として昭和47年にオープンしました。現在では日本全国で17の風土記の丘があります。平成19年7月21日、八雲立つ風土記の丘はそれまでの資料館から展示学習館としてリニューアルオープンしました。
 八雲立つ風土記の丘一帯は、奈良時代に編さんされた「出雲国風土記」の
くにびき神話を起源とする意宇郡の中心にあたる地域です。
 この周辺には縄文時代、弥生時代の遺跡をはじめ方墳や円墳、前方後方墳などの多くの古墳が分布し、また国庁、国分寺といった奈良時代の政治、経済、文化の中心地でもあり、出雲国造家にゆかりのある神社や寺もあって、まさに文化財の一大宝庫です。
 八雲立つ風土記の丘は、それらの遺跡を整備し、総合的に保存活用する目的でつくられました。これは国の指導による風土記の丘構想の一環に基づき、全国で6番目にできた施設で、島根の古代文化紹介と保護を目途としています。
 その中心となる展示学習館には、風土記の丘地内出土の遺物をはじめ出雲国風土記の写本、県内の古代史をかたる多くの資料が展示してあり、地内には「額田部臣」の銘文入り大刀が出土した岡田山1号墳や風土記植物園もあります。
 はるか古代にいざなう、神話時代の風を体感しにどうぞお越しください。

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