「託されたバトンをつなぐ」拉致問題の作文が全国最優秀賞 鹿児島の中学生の思いに迫る (24/02/01 10:30)

ただいまお 帰りそんな何気ない会話さえできない家族 が私の近くに いる中の時作を読むのは鹿児島の中学生橋 と家族はと北朝鮮による拉被害者家族への 思いをりまし た母の手料理を食べる兄弟と遊ぶそんな 我がに置き換えるとぎっと目が締めつけ られ た大の院中 学校さんは現在中学3年 生じ部の 2はのか ちょっとなんか 優みたいな真面目な感じですね真面目だ けどなんかちょっとね抜けてる とこそんな橋さんが拉致問題に興味を持っ たのは先生の推薦で拉致問題を学ぶ中学の サミットへの参加が決まったことが きっかけでした何も知らずにくのは思って 自分でちょっとノートにまとめたりとか 色々して関心が深まったってのはあり ますこちらは鹿島さんが拉致問題について まとめた ノート資料などで調べ上げたことが びっしりと書かれてい ます結局台風の影響でサミットには参加 できませんでしたが拉への心を深めた 当事者の声を聞きたいと去年8月には金屋 市に住む拉致被害者家族の市川健一さんの 自宅を訪問しましたあの素直な子であの 兄ちゃん兄ちゃん ね1978年8月12 日川さんの弟一さんは市の上浜近くで 北朝鮮に拉致されまし た私はね両親に高齢なんです心配なん ですどのように伝えていいか分かりませ ん解決を見ないまま経過した45年という 歳月橋さんは市川さんから一さんへの思い などを聞きまし たさんが帰って来られたらどんな言葉を かけたどんな言葉をかけるん だろうお帰りか [音楽] なシお兄ちゃんにたからね兄ちゃん ただいまから帰りとしかないのかな うんついです ね本人 肩聞くってのは なんか言葉の重みが違うという か私何できるんだろうとか色々思ったり ちょっと複雑な気持ちになりながら聞いて ました ね15歳の橋さんは自ら学んだ拉致問題を 1200時の作分にまめまし

た名 は [拍手] 健一さんは兄ちゃんと呼ぶ一さんをとても 可愛がっていたからそんな弟と急に会え なくなるとは考えもしなかったそうだ一 さんは初空良でお母様に大島つの着物を プレゼントしたが拉が起き1度もを通す ことなくタスに眠ったままだと いうお母様は週1が帰ってきた時これを着 て出迎えると言われていたが叶わぬまま 亡くなっ たご夫婦の話に私は大きく心を揺さられ たとにかく伝われっていう思いと自分の 気持ちを込めてってのがあって 週のこと書いてくれてありがとうって言わ れた時にあなんかこうまだ終わりじゃない けどちょっと自分は役に立ててよかった なっていう思いがあり [音楽] ます45年以上が経過した今も懸命な救出 活動を続ける市川 さんあの日島さんの作分を会場で聞いてい ました何回もね練習されたと思うそれがね 私たちのね心の中にすずに入ってきた熱心 にね訴えられるその姿が今でも忘れられ ないこの出会いがきっかけで橋さんが通う 中学校では市川さん夫婦による講演会も 行われ友達も拉致問題に興味を持つように なりましたこれをいろんな人に広めたいな と思ったしいろんな人と一緒にこの問題に ついて話していきたいなと思いましたあの 署名活動されてる時があったら私も是非 参加しあのその署名したいと思いました 自分から今度は友達にそして友達からまた 他の人にってなっていけば嬉しいので自分 にできることは全部というか全てやって いけたらなと思い ます拉を知らない世代としてさんからの バトを受け取った橋 さん作分をこう締めくくりまし た市川さん夫婦から託されたこの バト今度は私が皆にひどく伝え渡す番 だ皆の人権が尊重される当たり前の日々を 願い命と何気ない日々に感謝しましょう とDET

鹿児島・吹上浜で市川修一さんが北朝鮮に拉致されたのは1978年8月。45年以上の歳月が過ぎた今、関係者の高齢化が進み、風化が懸念されています。そんな中、全国の拉致に関する作文コンクールで12月、鹿児島県薩摩川内市の女子中学生が最優秀賞を受賞しました。彼女が作文に込めた思いを取材しました。

祁答院中学校3年・羽島奈穂さん
「『ただいま』『おかえり』そんな何気ない会話さえできない家族が私の近くにいる」

作文を読むのは鹿児島の中学生、羽島奈穂さん。北朝鮮による拉致被害者家族への思いをつづりました。

羽島さんの作文
「母の手料理を食べる、兄弟と遊ぶ、そんな当たり前のことができない。我が身に置き換えると、ぎゅっと胸が締め付けられた」

薩摩川内市の祁答院中学校。羽島さんは現在3年生。高校受験を控え、放課後も友達と勉強の話をします。

同じ吹奏楽部の友達2人から見た羽島さんの印象はー

羽島さんの友人・宮坂薫子さん
「優等生みたいな感じ」

Q.真面目な感じ?
羽島さんの友人・寳満美羽さん
「真面目だけど、なんか抜けているところも(笑)」

そんな羽島さんが拉致問題に興味を持ったのは、先生の推薦で、拉致問題を学ぶ中学生のサミットへの参加が決まったことがきっかけでした。

祁答院中学校3年・羽島奈穂さん
「『何も知らずにいくのは(ちょっと)』と思って、自分でノートにまとめたりして、関心が深まったというのはあります」

羽島さんが拉致問題についてまとめたノートを見せてもらいました。資料などで調べ上げたことがびっしりと書かれています。

結局、台風の影響でサミットには参加できませんでしたが、拉致への関心を深めた羽島さん。「当事者の声を聞きたい」と、2023年8月には、鹿屋市輝北町に住む、拉致被害者家族の市川健一さんの自宅を訪問しました。1978年8月12日、健一さんの弟、市川修一さんは日置市の吹上浜近くで北朝鮮に拉致されました。

拉致被害者・市川修一さんの兄 市川健一さん
「(修一さんは)素直な子で、兄ちゃん兄ちゃんって」

修一さんが拉致されてから24年後の2002年、北朝鮮は日本側に、拉致被害者5人が生存していると伝え、5人はその後帰国しましたが、市川修一さんについては「死亡」と伝えました。

それを受けての会見で健一さんは「両親が高齢なんです、心配なんです。どのように伝えていいかわかりません」と声を震わせました。

拉致問題が解決を見ないまま経過した歳月。羽島さんは市川さんから当時の話、今も続く苦悩、修一さんへの思いなどを聞きました。

祁答院中3年・羽島奈穂さん
「修一さんが帰ってきたらどんな言葉をかけたいですか」

市川健一さん
「どんな言葉をかけるだろう(笑)? おかえりかな・・・修一はいつも『兄ちゃん兄ちゃん』と言っていたからね。『兄ちゃんただいま』(と言う)かな。『おかえり』と言うしかないのかな」

市川健一さんの妻・龍子さん
「聞きたいですね。『ただいま』というのを聞きたい」

祁答院中3年・羽島奈穂さん
「本人から聞くのは言葉の重みが違う。心が本当に痛むってこのことなんだと思ったり、涙が出そうになったり。私に何ができるんだろうとか複雑な気持ちになりながら聞いていた」

15歳の羽島さんは、自ら学んだ拉致問題を1200字の作文にまとめました。題名は「市川さんに託されたバトン」。

全国3500点を超える応募の中で最優秀賞を受賞し、12月、羽島さんは拉致被害者家族らが参加する東京のシンポジウムで作文を朗読しました。

羽島さんの作文
「修一さんは初給料でお母さま(故・トミさん)に大島紬の着物をプレゼントしたが、拉致が起き、一度も袖を通すことなくタンスに眠ったままだという。お母さまは『修一が帰ってきた時、これを着て出迎える』と言われていたが、かなわぬまま亡くなった。ご夫婦のお話に、私は大きく心を揺さぶられた」

羽島さんは「とにかく伝われ、という思いと、自分の気持ちを込めて(読んだ)」と振り返りました。そして「市川さんに『修一のことを書いてくれてありがとう』と言われた時に、まだ終わりではないけれど、ちょっと自分も役に立ててよかった」と話しました。

45年以上が経過した今も懸命な救出活動を続ける市川さん。実はあの日、羽島さんの作文を会場で聞いていました。

市川健一さん
「何回も練習したと思う。それが私たちの心の中にスムーズに入ってきた。熱心に訴えられるその姿が今でも忘れられない。若い世代の人たちが拉致問題に関心を持ってくれることは本当にありがたい」

この出会いがきっかけで、羽島さんが通う祁答院中学校では、市川さん夫婦による講演会も行われ、友達も拉致問題に興味を持つようになりました。

羽島さんの友人・宮坂薫子さん
「(拉致問題を)色々な人に広めたいなと思ったし、色々な人と一緒にこの問題について話していきたいなと思った」

羽島さんの友人・寳満美羽さん
「署名活動している時があったら、私もぜひ署名したいと思った。真穂ちゃん(羽島さん)からもらったバトンを、もっと他の人にも渡したいと思った」

祁答院中3年・羽島奈穂さん
「自分から友達に、友達から他の人にと、なっていけばうれしい。自分にできることはすべてやっていけたらと思います」

拉致を知らない世代として、市川さんからのバトンを受け取った羽島さん。作文をこう締めくくりました。

羽島さんの作文
「市川さん夫妻から託されたこのバトン、今度は私が皆に広く伝え、渡す番だ。今度は私が皆に広く伝え、渡す番だ。『皆の人権が尊重される当たり前の日々を願い、命と、何気ない日々に、感謝しましょう』と」

*羽島さんの作文(全文)は「北朝鮮人権侵害問題啓発週間作文コンクール2023(政府拉致問題対策本部主催)」のHPに掲載されています

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