こ、この変態スバル社員を止めてくれーーーッ!!総集編【ゆっくり解説】

今日は趣味でWRCに参戦して優勝して しまったり趣味が講じてスバルのSTI 設立のきっかけを作ってしまったやばい スバル社員を解説するぜまたスバル社員君 かそれとスバルといえば4駆だけどみんな はどの駆動方式が好きかなぜひコメントで 教えて欲しいぜ4駆乗ると軽量なFRや FFが羨ましくなるしFRやFF乗ると 4駆の立ち上がり加速が欲しくなるのよね ふふ隣の人妻はピンク色に見えるという やつだなまあ早速始めようストーリーは 1959年から始まる高卒で富士十工業に 入社した1人の社員がいたその名は戸籍 典行熱からの車好きで高校生の時には バイクで全国を旅をするほどアグレッシブ な若者でもあったそんな高校生の頃から バイクを触っていた戸籍さんの運転技術や 車両評価能力というのは他人よりも優れて いたということもありテストドライブなど の車両評価を担当する部署でもある車両 実験部に配属されることになるこの戸籍 さんを車両実験部という運転の基礎に 関わる部署にに配属したのが今後のWRC の勝利や現在のスバルのブランドを作る ことにつがるえどういうことなのふふふ 人王って解説するぜ一方1960年代に ホンダ創業者のホンダ総一郎は国内 サーキットの建設をしようと考えていた 当時の戦後の日本ではまともなレース シーンが存在しなく本田総一郎はレースの 勝利と日本のモータースポーツの普及の ためには本格的なサーキットが必要である と考えたそこで建設したのが1962年に 建設された鈴鹿サーキットであるその鈴鹿 サーキット建設の翌年に行われたのが日本 発の専用放送コースにおける本格的4輪 レースである第1回日本グランプリだった 本格的な4輪レースが始まるということで スバルもこのビッグウェイブに乗るしか ないと漢字参戦することになると言っても 開催については急遽発表されたこともあり 大した準備期間が設けられることはなかっ たそのためスバルでは車内で早いやつを 緊急的に招集しとりあえず人を集めたそこ で群馬のの峠でも激はだった戸籍さんが 車内ドライバーの1人として抜擢されると いう話につながるわけだ群馬のテスト ドライバー券峠の走り屋のスバル社員が 日本発の本格4輪レースに参加するの なかなか熱いわねさらに社外のドライバー として2輪のプロとして活躍していた 大久保さんをスバル日本グランプリ参戦 チームのドライバーとして迎えた4輪 レース自体がほとんどなかったから2輪の プロを連れてきたわけかそうだぜそして

大久保さんはスバルの契約ドライバーとし てチームに参戦することになる参戦車両は スバル360とスバル450しかしスバル の監督は何を考えたのか高を開いた 43ccのスバル450で700cc クラスのトヨタパブリカに勝ったらなんか かっこよくね1960年から変態スバル君 が出ちゃってるそれに対してスバルの チームはうおそれかけやっちまおうぜと 噴気した草さすがに2輪でのレース経験が 豊富な社のさんはいやさすがにそれはと 助言するがうおそんなの画然燃えるぜと いった感じにスバル社員チームは画然燃え てしまった誰かこの変態を止めてやれと 言っても問題の700ccクラスに出場 するのはスバル45502台チーム内で 1番早かった社外から呼んだドライバーの 多く堀さんと2番目に早かったスバル社員 の戸籍さんを700ccクラスにスバル 4550で参戦させるそして他のシャイン ドライバーは400ccクラスにスバル 360で戦うといった体勢にしたそして第 1回日本グランプリ当日レース自体は戦後 日本での初のレース開催ということもあり 大荒れの大会となった一方700cc クラスに参戦したスバル4550の大久保 さんと小関さんはうおお排気量が何ぼの もんじゃいと小石さん大久保さんは 700ccのトヨタパブリカの1/2の 排気量であるスバル4550で果敢に挑む が当たり前のように惨敗上位はパブリカが 閉めることになりスバル45丸や一緒に 参戦していた三菱500はレースの上位 争いにも込むことができなかったさらに レースで無双したトヨタはこのレース結果 を受けて販売台数が増える結果となった ため日本で初めてレースは儲かるという ことが実証されることになった400cc クラスに参戦していた他の社員ドライバー が買ったスバル360も鈴木社に破れ惨敗 思った以上に甘く見ていたレース結果を 受け第1回日本グランプリの夜のスバル内 での夕食会 はくくそなんでいやまてよく考えたら 700ccのトヨタパブリカには負けた けど同クラスの600ccの三菱500に 勝った俺ら強くねあ確かにおいおい おいおいしかもこの短期間で全然準備でき なかったのに排気量が上の三菱500に 勝った我らスバルやばくねややべえ てか車を早くする改造ってこうすれば いやいやこっちの方が直線スピードをと 夕食会はなぜか次のレースで勝つためには どうするかの議論大会になってしまった マジで技術ジャンキーで草その時スバルの

全身でもあるゼロ戦などをっていた千中の 中島飛行機の時のような空気感があったと 大久保さんは語るえつまり戦時中の中島 飛行機時代からこの変態エンジニアの空気 感がはびこっていたのかあと当時のスバル に乗っていたオーナーたちも俺の乗ってる スバルが負けてんだけどふざけんなと たくさんの苦情を出したというこのスバル オーナーの一癖ある漢字をこの頃から 受け継いでるのももはや社会の授業でやる べきでしょ庶民の憧れを実現してくれ車を 身近な存在にしてくれた日本で最初の モデルがスバルだったからこそ期待も注目 度も高かったわけだ当時就任したばかりの 富士重工業横田信社長もレースの結果を 受けて悔しいこれはチームを作ってレース を本格的にやらないとダメだとスバル車内 でも本気でレースをする動きになったその ため翌年の第2回日本グランプリに向けて スバルは春奈さんの有料道路をスバルの 起業パワーで貸し切りテストコースとした 700ccクラスと400ccの日本建て は厳しいという判断となり社員ドライバー の戸籍さんと社外ドライバーの大久保さん に全てを託し400ccクラスのスバル3 60で優勝を目指すことにしたまずは レースに勝つため峠に車両を持ち込み車を 鍛え上げていくはなさんの下り坂を攻めれ ばブレーキはフェイドコーナーでは オーバースピードで横転しそうになるそし たら全てを改善するそれを何度も群馬の峠 で繰り返し改善したしかし空冷式である スバルさ60を登りで全回で登ろうとする とどうしてもオーバーヒートしてしまう これではサーキットに持っていっても同じ ようなオーバーヒートが起こる可能性が大 だそこで戸籍さんは考えるエンジンルーム に水を吹いたら冷えるんじゃね2輪の レース経験が豊富な大久保さんが言ういや さすがにそれはルール違反じゃ ルールブックには乗ってないからバレ なきゃ平気平気そんなハナさんで鍛え上げ られたスバル360と石さんの裏技ザ ウォータースプレイを積んで第2回日本 グランプリに出場するしかし予選の時 スバル360の後ろを走ると謎の水滴が つくという話をスバルチームは耳にした ため秘密のウォータースプレがばれること を恐れ本線ではバレそうだなこのボタンは ぞの時にだけ使うぞと大久保さんはぞの時 だけ使うようにしていたがシャイン ドライバーの戸籍さんはうおウーター スプレイウータースプレイウアパ連打して いたという戸籍さん狂ってて草しかしなん と結果としてはワツフィニッシュの優勝

スバルとしての初優勝となりスバルの モータースポーツ師としての一歩を社外の 大久保さんと社員の戸籍さんで刻むことに なるそして日本グランプリをに導いた1人 でありさらに24歳でスバルのテスト ドライバーのリーダーとなったドラテクの 鬼の戸籍さんはモータースポーツで走りを 磨き上げるのが車の性能を高める最善だと 確信することになっていくこの第2回日本 グランプリはスバルにとっても戸籍さに とっても大きなターニングポイントになり そうねうむしかし翌年の第3回日本 グランプリの開催の内容は打って変わって 大きく変更された内容としてはダットサン フェアレディアス2000gtプリンスR 380といった高成のスポーツカーや プロトタイプカーの身による大会に変更さ れたそのため高成のスポーツの ラインナップを持たないスバルは事実上の 撤退となるしかし諦められなかった戸籍 さんとそのチームはフォーミュラカーを 自作して第3回日本グランプリの前座に 参加したり新型スバル戦を使った他の耐久 レースへの参戦を行っていたが少しずつ スバルワークスとしてのレースの参戦は 縮小していくことになってしまったしかし そこで諦めなかったのが戸籍さんであった 基本的にスバル社員は諦めが悪のはもう 完全に理解しました会社が金を出してくれ ないのであればもう個人でモーター スポーツの活動をやってしまった方が早 そうだなということでプライベートでは 上州オートクラブを設立しこのクラブで モータースポーツで車は進化するという 立証を個人で初めてしまうえ社員が プライベートでスバル車の進化を追い求め ちゃってるそこで当時からスバル車は ラリーに売ってつけとも考えた戸籍さんは ラリーを戦上に移すことになる当時は主に 日本アルペンラリーというラリー大会に 参戦をしていき腕と車の進化を極めていく ちなみに日本アルペンラリーは東京から 埼玉栃木群馬長野岐阜山梨などまだ見舗装 ばかりの峠を指定された時間通りに走ると いう形態のラリーだ今のWRCみたいな 特定区間のタイムアタック主体のラリーと いうよりは長距離走行で耐久性が必要とさ れるラリーといった感じかそうだぜと言っ てもハイアベレージ区間というのがあって スピードをきそうスペシャルステージ相当 の区間もあったので時にはスピードが求め られることもあったそこでそのラリーに ドライバーとして参戦をしたスバル社員の 戸籍さんそして後に一緒にSTIを 立ち上げることになる高橋安夫さんや

STI初代社長のク龍一郎さんたちとペア を組んでいくことになるスバルの レジェンドたちがこの時から顔見知りで ラリーに参戦していたのねなんかドキドキ だわしかもこの日本アルペンラリー初期で はまだまだラリー霊明期ということもあり ルールが曖昧だったそのためトヨタ日産 三菱やメーカーと深い関わりのある レーシングクラブがガチチーンでこの ラリーに参戦をしプライベートは入る好き もない状態になってくるプライベートの 戸籍さんたちが辛いやつねしかし戸籍さん は当時のスバル車であれば勝てると信じて いた当時のラリーで使用されていたのは スバル線やその光景のスバルff1という 車両だ特にスバル線は富士重工業の全身で ある中島飛行機のエンジニアが設計や開発 に多数名が関わっているため航空機製造 技術に基づいたユニクかつ合理的な エンジニアリングを詰め込まれた車でも あるんだうしこの技術は他のメーカーじゃ 真似できんだろうしそのため技術市場主義 の車なんて言われていたんだぜうわあ変態 だこのスバル線はまさに今のスバリストと いう言葉を生み出した車と言われることも 多い車なんだぜこのスバルセンとff1の 目立つスペック面としては全輪駆道だった というところだ同クラスの他のカローラや サニーは高輪駆道を採用している中スバル は全輪駆道を採用していたそのためラリー という競技では他の車種は高輪道という こともあり見舗装道路では不安定で崖から 落ちてしまうという事故もあったが安定性 の高い全道のスバル車は大きな事故もなく 順位を上げていくさらにこの頃のスバル車 内での戸籍さんの立ち1がスバル車の進化 を加速させていくこの頃の戸籍さんは車両 実験部のリーダーつまり車の評価に関わる チームのリーダーだっ たこれさこの辺りがよく壊れるしコスト 抑えることもできるこういう改良し ないここの摩擦による損出をこうやって 改良すると燃費も加速も良くなる よとあくまでも趣味としてしていたラリー からのフィードバックをそのまま反映して いた趣味のラリーでいた知識を仕事に持っ てきて車を進化させる戸籍さん強すぎる こういった改良のおかげもあり1970年 発売のスバルff11300Gによって スバルのラリーでの地位をかっこたるもの にすることになるこの車の登場によって 古籍3チームは無敵のスバルプライベート チームとなってしまうわけだスバルの ラリー伝説の始まりだff1にて初 3000年の1970年には2000cc

以下のクラスで優勝さらに翌年の1971 年にも優勝と2年連勝過激なチューンを するワークスチームに打ち勝ち 2000cc以下のクラスのラリーでは 1300ccの全輪駆道のスバルが最強と 言われるほど独断状とかしてきた社員の 趣味の半中超えてきてる小関さんはなぜ 走るかという問に対してそこに道がある からだと答えている式を超え様々な道を 走ることが車を進化させる証なのだそこで 1970年代国内ラリーを制した戸籍さん が選んだ道は世界だった そして戸籍さんは最強国内仕様のスバル ff1をメキシコに送り群馬ナンバーに手 世界を目指す次なる夢が始まるといった ところで後編に続くぜ え前回はスバルのモータースポーツの歴史 の石だけではなく今のスバルのブランド 作りの石も作ってしまうようなやべえ スバル社員がいる話をしたちなみにこの 動画は後編なので前編を見ていない人は 前編を見てから見ることをお勧めするぜ 前編は70年代にはスバルとしての モータースポーツの活動は縮小してしまっ たことによりあるスバル社員が趣味で モータースポーツを始めその フィードバックをスバルの開発に反映して いた変態社員がいた話だったよなその社員 は戸籍さんだったわよね国内での連覇を きっかけに海外を目指すことになったのよ ねWRC3戦のキーマンとなるとかどうと かそうだぜ日本アルペンラリーを連勝する ことでスバル者は峠の帝を溶かしてきた そこで小関さんが目指したのは海外という 道だったという話で終わったんだよなうん 続き教えて教えて小関さんは日本アルペン ラリーで連勝したFF1300Gをベース に改造した車両をメキシコに送るそして 1970年6月メキシコバハ カリフォルニア半島を舞台としたオフ ロードラリー第5回バハ500マイル レースに参戦地元のスバルディーラーの セールスマンであるピートペトロスキーに ドライバーをお願いし戸籍さんのチームは サポートする形で参戦した結果としては スバル車としても海外は初参戦ながらも 国内で鍛えられたff1がもいを古い クラス3という公成績を叩き出す戸籍さん がスバル者として海外発参戦とはすごい アグレッシブすぎるそしてその3年後の 1973年戸籍さんは大きな決断をする ことになるそれは戸籍さん自身での超過酷 な海外ラリー参戦というものだった画面の 前のみんなイメージしてくれもし40日間 以上も連続でラリーをするという超過酷な

環境のラリーイベントがあったら参加する しかねえよな待って会社どうするのよふふ その通りで小関さんがこの40以上の挑戦 を海外でプライベートで参戦するってこと を上司に言った時戸籍お前40間以上も 会社を休んだら帰ってきた時に机はないぞ と伝えられたしかしその忠国を押し切って 戸籍さんは後のSTI立ち上げにも関わる スバル社員の高岡よおさんサード ドライバーとなるモータージャーナリスト の岡崎浩さんと共に超過酷なラリーに出場 を決意してしまう参加しちゃったよこの人 超か国なラリーの名ロンドンシドニー3万 キラリー名前の通りイギリスロンドンから ストラリアシドニーまで車で駆け抜ける 強調距離ラリーだほぼ世界一周みたいな ものねさらに同時期の77年に全輪駆道 から4wd化されたレオーネ1604WD が販売されたこともありこれロンドン シドニーラリーで使ったらどこでも爆走 できるし最強でしょとレオーネを チューニングしそのまま参戦してしまうと 言ってもこの時の4wdは業務用向け みたいな感じでまだまだスポーツという 分野からは駆け離れていたものであった なんたって最初は東北電力が季節路を走れ てなおかつ快適に移動できる車両が欲しい という注文によって4wdに改造した1 オフのFF1を作ったのがきっかけでそこ から発展させたのがこのレオーネ4wd だったさらに4wdクラスに小型セダで 参加するというのはジープタイプが主流の 当時としては珍しすぎてぷぷあのアジア人 小型セダで4wdクラスに参戦って間違っ て参戦しちゃったのかなしかし実際この レオーネをジャッキアップしたり高速域の 走りを見せると周りはそのに驚き下を巻い たというななんだあの日本の車メーカー 変態アスバルというメーカーか最終的には 感想順位はクラス4位総合80代中19位 結果としてはまあまあ頑張れたとサード ドライバーの岡崎さんは自身のチームを 表化したちなみにこのロンドンシドラリー では面白い話があるいくつの国をまいで ゴールまで行くため途中情勢の不安定な アフガニスタンではラリー中 には危険だからクストルってやるよと銃を 売り付けられたりインドでは車を止めて しまうと群衆に囲まれて車両を叩かれたり 乗られたり渋谷ハロウィンイベントが 起こってしまったためアクセル前回で群衆 に向かう必要があったりと今のラリーの 大会にはあまりないような過酷差がある ラリーの大会でもあるんだぜでもさ あくまでも個人の趣味であって

プライベートでの参加だったんでしょ毎年 ラリーカーの購入や遠征費や参加費はどう したのいい質問だな戸籍さんといえど スバルの1社員でしかなくスバル内では 車両実験部のリーダーを担当をしていたの で給与は良かったと思うが実際のところは 資金クリには相当苦労したという海外発 参戦の時のバハ500マイルレースでは 地元のスバルディーラーがスポンサーとし て資金を援助してくれたがそれ以外は基本 的に小関さんの自腹であったそのため時計 や自宅を売ったりと見にを切ってラリーに 参戦していたというとある海外ラリーの 現場ではラリー参戦したのはいいけど現地 で買うガソリンのお金もないひとまずこの カメラを売ってガソリン台にするかという 実話があるくらいお金の問題は常に突き 回っていたぜスバル社員ということで得し ていることもあるだろうけどそれでも常に お金お金なんだわねしかし戸籍さんが そんな水にを切ってこのレオネ4wdで 参加したという鉱石は大きかった小型セダ の4wdでもジープタイプの車にも匹敵 する走破性そしてセダという高速の走行 性能がある4wdは速さをきそうモーター スポーツでも使えるという立証になった スポーツ4wdのパイオニアでありスバル にスポーツ4wdの要素を取り入れる きっかけになるわけだそうなんだぜ そもそもワクロをゆっっくり確実に走る ための4wdだったがスバルはアクロを 確実かつ高速で走るツールへと変えていく んだと言ってもロンドンシドニーラリー から帰国した戸籍さんの机はなくなってい たんだけどなままあそうよねそういう約束 だ もの机がねまあまあそういう約束だった ものの実際そうなると辛いな妻と子供も いるしさんはスバルのために頑張っている のにそういう社員を切ってしまうのは もったいないわねそしてそんな戸籍さんに スバルは命ずる戸籍ロンドンシドニー ラリーはすごかったしかし君は今の立場で 身勝手な行動をされては困るすみませんだ から忠告した通り今までの立場で仕事を することは許すことはできないはいだから 君にはテストドライバーとラリーに専念し てもらいたくお前のために受け追い会社を 用意した社員としての席は残しては奥が スバルからがガガ仕事を渡すからラリーに 専念しスバル者の進化に貢献して くれえ え富士重工業は趣味で参戦していたラリー によってスバル者の進化に貢献してくれた 戸籍さんを評価しラリーに集中させるため

の会社を戸籍さんへプレゼントをした うひゃあ何そのサプライズ筋金君をスバル 車に入れた時並の感動そして80年代小関 さんはその会社と自身のモータースポーツ クラブによる海外参戦専門プライベート チームであるスバルモータースポーツ グループを設立舞台をあの有名なサファリ ラリーに移すことを決断する会社から活動 が半分認められる形となった戸籍さんは スバルミタ工場からエンジンの供給や ブリヂストンからはタイヤ香からは サスペンション関連の供給を受けることに もなっていくさらにスバルから仕事は もらっているといえまだまだ金は足りない そのため先ほど話をした通り現地で時計を 売ってガソリン台にしたり純正パーツなど のいらないパーツを売りさばいてその場を しのぐのは上等手段になっていたいつも カツカツねとはいえサファリラリーは WRCの中の一戦であるつまりスバル車で WRCに初参戦したのは戸籍さんの プライベートチームなんだぜフル参戦では なくサファリラリーのみのスポット参戦だ がなそれで成績はどうだったの1979年 からスバルレオーネスイングバックにて サファリラリーに参戦しなんと翌年の 1980年のサファリラリーではクラス 優勝ぶわ強すぎるスバルの4wd世界伝説 の開始って感じだねさらにWRCに開発で スポーツ4wdとして初めて参戦したのが スバル車のレオーネスイングバックという 実績も作ってしまう一般的にはWRCの4 wd初投入はアウディのクワトロと言われ ているが実はそれより前に先に投入したの は古籍さんなんだぜチャッカリスバル社員 が伝説級のことを成し遂げてるの草まあ スバルはスポット参戦であるという違いは あるけどなそしてさらに1983年の サファリラリーでは戸籍さんが同じく監督 として新しくスバルレオーネ4WDRクス を投入そしてなんとそのレオネ4WDRク にて高岡吉尾砂原し組がグループAクラス での優勝さらに当時の日本人で最高順位と なる総合5位でフィニッシュするという 記録も作ってしまうわけだえシレットまた 伝説作っているしドライバーの高岡さんも スバルシャインなんだよな最終的な戸籍 さんが参戦した80年代のサファリラリー の戦績としては4回の優勝を得るという 驚愕の結果を生み出してしまうしかも全て あくまで社員というダチ1でWRCに参戦 し4回もを収めるという常人には理解でき ないことを小関さんはやってのけてしまっ た趣味で世界戦士権で優勝してるのやべえ よやべえよしかしそんな戸籍さんが最強の

スバル者を作って記録を残している傍海外 でのスバルへの一般的な評価はこんな感じ だったスバル何その会社スバルああ4wd の農民向けの車ねとスバルを知っている人 がいても評価が低いというのが海外からの 見え方だった世界的にはまだまだだったか でも籍さんは車の進化のための活動であっ て宣伝という意味では効果を出しきれない のはしょうがないまあ戸籍さんたちがやっ てきた活動はあくまでも会社とは切り離さ れたプライベートな活動だしなしかし スバルとしては水平対抗エンジンという ユニークなエンジンそして4wdスポーツ というまだ市場的には未発展な分野で 最高峰の技術を持っていたのにそれらを 海外にうまく伝えられないのがスバルとし てはジレンマだったそこで乗り出したのが 以前に国内や海外で戸籍サトラリーをやっ ていたクさんと当時のスバルの宣伝部長 のりさんだったスバルをもっと世界に広め たいけど宣伝予算も他者と比べてそんなに ないんだよなそうそう他のメーカーはお金 がある分宣伝が派手でその中でスバルが 小さな広告などを打っても無意味に近いし などうしたものかとスバル者の宣伝を 考えるにもなかなかいい手が見つから なかったしかしクさんは長年戸籍さんと モータースポーツの活動を一緒に行ったり 間近で見ていたこともあり大きく戸籍さの 影響を受けていた車は走ることで進化する 今のスバルに必要なのは派手な宣伝では なくスバルの進化をモータースポーツで 示すことだ誤籍がスバルのモーター スポーツの石を作ってくれていたが会社は 戸籍という個人に頼りすぎだだからこそ 戸籍の作った石を受け継ぎそろそろ会社と して宣伝も兼ねたモータースポーツへ本腰 を入れるべきだろうとクさんはモーター スポーツの重要さを再度思い出すさらに 80年代にはTRDNISMOラリーアト 無限といったモータースポーツ事業を行う メーカー直系の公会者を持つのが当時は 一般的ではあったがまだスバルにはそれら に該当するものがなかったそこでスバルと してモータースポーツを正式に行いたいと いう事業内ようで提案書を作り当時の田島 社長に提案をしたところくくくやっと自動 車メーカーらしい提案が出たじゃないか 戸籍も巻き込んで是非やってみなさい戸籍 さんが20年以上個人でやってきた モータースポーツによる車の進化を 追い求めるというやり方が会社にも正式に 受け継がれる瞬間でもあったとはいえ モータースポーツ事業は金食い無視事業と も言われてい銀行から出行してきた役員

たちは嫌な顔をしたがこのスバルの モータースポーツ事業を受けSTIという 会社は儲かりますモータースポーツの他に もスバルからのエンジンのリビルド業務を 受けおいますと企画書に成田さんがSTI という会社は金儲けもできるという胸を 書いたこともありなんとか役員たちからも 合サインが出ることになる成田さんナイス アシストをやったぜさらにSTI設立後 戸籍さんはSTIの部調色につくことにも なり本格的にスバルのモータースポーツが ここから動き出すことになるちなみに STI設立直後のストーリーについてはF 1エンジン開発などとても興味深い話が あるのだが今回は少しはってまた今度話を しようえF1STIってそんなことも手を 出していたのかそれも小関さんが携わって いたプロジェクトの1つなんだぜすごすぎ て草もはや小関さんF1に勝手に参戦し てる説もありそうだわねそしてSTI設立 後に初めてよに出された企画というのが 初代レガシーのプロモーションだった従来 として宣伝したかったスバルの後機能な4 wdシステムや走りを求めた車であること を発売予定のレガシーを使って宣伝すべく fia国際自動車連盟公認競技の10万 km世界速度記録に挑戦することになる これは連続10万km走行し給油時間や 修理時間も含めた平均速度を基礎競技だ そのため故障は絶対に許されないし常に 200km以上の超高速に耐えうる走行 性能が求められる競技だぜリーダーは戸籍 3を抜擢それに加えて100名以上の スバル社員と関連スタッフがこの記録更新 に挑むことになる結果としてはSTIとし ては初めての仕事になるが世界一記録を 樹立戸籍3も含めたスバル社員が 入れ替わりで20下間も連続走行し10万 km走行を達成平均速度は223. 33kmだったこの記録は2005年に メルセデスベンツe320CDによって 更新されることになるが15年間記録の 維持をしたのはこの初代レガシーであった しかもメルセデスの平均速度は約 225kmと初代レガシーと平均速度が 2kmしか違わないということを見ると 当時からスバルの技術はとても素晴らしい ものだったわけだな80年代のスバルは 技術的に有利な直列エンジンを作りたかっ たっていう話もあったけど水平対抗 エンジンもよくできてるじゃないかそんな STIを通じた技術的なアピールも成功し たこともあり初代レガシーは大成功STI としても次のステップに進むことになる そして次のプロジェクトとしてはこの初代

レガシーでWRCに参戦そして皆さんご 存知のインプレッサでのWRC参戦そして 連勝へとつがる このWRCの伝説的勝利も合ってSTIの 当初の目的であったスバルシャを世界に 広めるということは成功どころか大量の スバリストを生む結果となってしまった このスバルの活躍はスバリストの量産だけ ではなく車の魅力に気づかされたきっかけ になった人も多いだろうねそう考えると スバルのモータースポーツの石を築いた 戸籍さんがいたからこそねしかしそんな 戸籍さんの大胆な行動は実際会社の中から は木なめで見られることだけではなく一部 の社員からは戸籍さんのことを良いと思わ ない人も少なくなかったしかし戸籍さんの 影響力というのはスバルという会社 イメージの石を築いたと言っても過言では ないスバルワークスとしてのWRC3戦後 もその戸籍さんのカリスマぶりは各所で 発揮されていたしな実際のスバルのWRC チームの運営はプロドライブ車に委託をし ていたが戸籍さんはプロドライブ車に スバル社員として最も足を運んだ人物でも あったんだスバルの技術者の言葉を正確に 伝えプロドライブが本当に望んでいるもの をスバル側に伝えるという橋渡し役として もとても活躍したこのようにワークス時代 の戸籍さんは技術者としてだけではなく スバルの外交官としても活躍をするわけだ が時には運営母体のfiaから理不尽な 扱いをされることもあったがそういった時 は戸籍さんがフロントに立ち果敢に ぶち切れに行ったというしなこんな汚い やり方がお前らヨーロッパのやり方なのか としるが最終的には円満になるようことを 進めたりとスバルにとっては外部要因に 振り回されずに技術開発に集中するために も欠かせない人材でもあった強すぎる もはやみんなの親分だわねそうなんだぜ 車内では戸籍さんは親分とも呼ばれていた 戸籍さんはラリードライバーとしての腕 だけではなく組織や人材の育成外部組織と の交渉そしてスバルというブランドを 作り上げたスバルの大分でもあるんだそう いったこともあって90年代には マニュファクチャーズタイトル3年連続 獲得というスバルのWRC黄金機を作る きっかけにもなったのねそんな戸籍さんも 2000年頃には定年退職となり社員とし ての活動は幕を閉じるその後は自身が所有 していたクラブショップにて群馬を中心に モータースポーツイベントの運営や活動に プライベートとして携わっていたしかし 2009年11月30日長い病生活の上

69歳という年齢でこのよ去ってしまう 最後までスバルを愛しスバル者の進化に 貢献をしSTIの設立からWRC参戦 そして現在のスバルブランドイメージの石 まで作ってしまった戸籍を呼ぶ当時の スバルのWRCチーム運営をを行っていた プロドライブ者のテクニカルディレクター であるデイビッドラップワースさんは戸籍 さんをこのように評価する戸籍とクは とてもアグレッシブで素晴らしかっただ からこそ戸籍とクがいなくなってからの スバルは大きな挑戦ができる決断を持つ人 がいなくなってしまったように思える くらいだ戸籍親分は入社からこのよ去る まで目の前に大きな壁があろうと挑戦をし 続けたしかしその挑戦への道は決して常に 平坦ではなかった何度もくじけ何度も点に 見放されただろうしかし戸籍親分はそこに 道がある限り諦めることはなかっ たそこに道があるから人間も車も道を進む ことで進化する式を超え様々な道を走る ことで進化するん だ戸籍親分とそのチームが走った証は道が 存在する限り国境を超えボクサーサウンド として轟き続けていくだろうそしてスバル の歴史が最も詰まった2022年発売の wraクにもその証は継承し続けられて いることを願いつつその進化した証を 見せつけて欲しいぜ他にも解説して欲しい お話があれば是非コメントに書いて欲しい わねでは今日はここまでサラダ [音楽] バー

この社員がいなかったら今のスバルはまた少し違う会社になっていたのかもしれない…。
このチャンネルは8割の人がチャンネル登録していないので登録しとくだわよ…。

00:00 前編
12:40 後編
28:44 ここだけは見てほしい

今回は打って変わってスバル社員を解説!?SUBARUのモータースポーツの礎を築いた「小関典幸」。
全てはこの男がいたからこそ、現在のスバルというブランドがあるといっても過言ではない。
前にやるといってなかなか出来なかったのでここで解説するぜ~。

スバルといったら4WD。そしてラリー。
全てはこの「小関典幸」が礎を作ったからこそ、今のスバルのブランドがある。
あくまでもプライベーター・ワークスといっても半分非公式という活動だった故、表舞台で目立つことは少なくなってしまった。
そんなスバルのモータースポーツを最も支えた「小関典幸」とその歴史をまとめてみました。
スバリスト必見です!!!

# ▼ メンバーシップのURLはこちら! ▼
https://www.youtube.com/channel/UC7AnBGoQKgUAuCyxgaG9FxA/join

# ニュルちゃんのサブチャンネル
https://www.youtube.com/@user-xj3id7ff6b

# この動画の元動画
【前編】https://youtu.be/fEovURVBrsM
【後編】https://youtu.be/iVebu8B0h_E

# 書籍
https://amzn.to/41IL5yJ

#ゆっくり解説
#スバル
#wrc

22 Comments

  1. スバルの社用車の場合、まずMT車から使われるそうです。
    そして上司と部下で乗るわけですが、そういう時は普通は部下が運転するんだけど、スバルの場合は上司風を吹かせて運転するんだとか。
    それが判ってるから、部下も真っ先に運転席に乗り込んで、ハンドルに嚙り付いて離れない人もいるそうです。
    何というか、車が好きで運転が好きな人が多いメーカーなんでしょうね。

  2. この人の名前はおぼえておきます。
    ここまでやる人、いまや、立場は違えど、モリゾーさんしかいないでしょうね、
    初代のレガシーのABSを効かせながらの異次元のコーナリング、すっ飛ぶかと思っても
    ありえないスピードで曲がる、当時は異次元
    凄い車たちをありがとうございます。

  3. DRIVE!って漫画で
    「モーターレースで勝つにはネジ外れてなきゃ勝てねぇんだ」
    ってあったけど、スバル社員やべーやつすぎて面白すぎる

  4. レオーネRX4WDはクラス優勝記念モデルとして、市販されてます。元祖スバリストの友人は買っていまだに乗ってます。先日たまたま尋ねたら、車検に出して受け取りに行くから店まで乗せて行ってくれと言われて一緒に行きましたが、お店の方に「もう部品がないものもあるから壊れたら動かなくなる可能性がある。」と言われてました。カーステレオも今は無いSONYのカーステレオ。アイドリングは安定しないし、パートタイム4駆だから、4WDにしてハンドル切ってアクセル離すとエンストすることがある。クソ乗りにくい車。でも本人は大のお気に入り、一時期持ってた、インプレッサSTIの記念モデル(今もあったら1000万位するだろうな。)を手放してまで持っているくらいだから。(ずっと一人もんだったが、結婚を機にどっちかを手放すことになってインプ手放した。)

  5. 零戦は三菱ですな。中島は零戦にも劣らぬ傑作・一式戦「隼」、そして文句なく大戦期日本の最高傑作機であった四式戦「疾風」の開発元でありますよ。

  6. スバルオーナーとしては二ヒヒと笑いながら見てました。

    ダイハツのミゼット2なんかも紹介して欲しいなあ。

  7. モタスポ好きだったけど、技術が人間の限界超えてレギュがガチガチになってから見る頻度減っちゃったな
    こういう各社の変態技術戦みたいなのが好きだったのに

  8. スバルが大好きで少し前までスバル車に乗っていましたが、衝突事故にあって泣く泣くスバル車が廃車になって、スバル車を諦めたものの、スバルに通っている身では、こういう話が聞けるのが嬉しいです!

  9. 26:38
    スバル車のプラグ交換楽し〜〜〜〜〜!!!

    楽しくねぇよ!エンジンルームギッチギチで工具入らなくて●意湧くわ!!笑笑(byスバリスト)

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