『一念覚知説の研究』【総集編】by「桜嵐坊🌸の仏教部屋」

参りくださいました本日もさくらんぼの 仏教部屋でございますはいどうもお待たせ いたしました一生懸命レジメを作っており ましてですねギリギリになってしまいまし たお待たせいたしましたありがとうござい ますえっと今日もまたくさんの方来て くださいましてよろしくお願いいたします 今日ご正記でございましたですけれどもね えっと16日までえ本山の方でえ西の方で ねずっとお参りがつまっておるわけで ございます昨日芦原先生がねええ不段を やってくださっておりましたありがたい ことでございましたね今日またよろしくお 願いいたしますコメントから読まして いただきますはいえっとエリザベスさん ありがとござますこんばんはでございます 兄にはあゴタ豚ゴリラといば呼れています そうなんですかエリザベスとブゴリよりは 同じあれなんです ねや面白いですありがとうございますこそ よこそよろしくお願いしますこちらこそ ありがとうございますお世話になります様 さんね今年もよろしくお願いいたします話 になりますね今日は今年はどこでお会い できますでしょうかありがとうございます ねありがとうございますベリキャブさん どうもどうもこんばんどもでございます 本日もどうぞよろしくお願いしますえ こないだのお深いね残念でございました またねやらせていただきますので来月ね よろしくお願いしオフ会ってね僕勘違いし てましたオフというのはオンラインのオフ ということでね実際に会うことでござい ましたが全然あのみんなにのいただきまし てオフ会じゃないよって話ねまただ単に あの配信しないで皆さんでお話をする会と いうことで会とは言わないんですねすい ませんなさんありがとうございますげ相子 桜さん初めての方こんにちはでございます こんばんなもですいつも楽しみしており ますありがとうございますささん ありがとうございますこの間ねえっとその オンラインのね え配信しない会で参加いただきまして ありがとうございましたよこそよこそ こんばんもよろしくよくお願いしますお 世話になりますえコエドさんありがとう ございますこれ面白いですね片方がピコっ とこんな目になっておりますから ありがとうございます今日はいろんなとこ に告知しておりましたんでねえっと いろんな方が来てくださってるの楽しみに しておりますお世話になりますはいどうも 白さんこんばんはよろしくお願いします 今日もかき回してくださいますように

ありがとうございますかさんすいませんこ どもねえっと皆さんの会でちょっと不敵は ありましてね今度またねあのちゃんと できるようにしましょうねすいません ありがとうございますよろしくお願いし ますどうもみ先生よろしくお願いします よろしくお願いします補足がありましたら どうぞよろしくお願いしますね世になり ますおさんこんばんはでございます今日も よろしくお願いしますたさんありがとう ございますいつもいつもありがとうござい ますこばでござい今日もまた新集がっつり の本でございますが申し訳ございません よろしくお願いしますそれさんありがとう ございますこんばんはお久しぶりでござい ますよろしくお願いしますお世話になり ますあとございますぼさみさんこんばんな でございますそうそう星星さん今日もです ねいろんなあのバックナンバーを見ており ました星星さんがねえコメントして いらっしゃるのも拝見させていただきまし たですね ねいろんなあの立位の方がね今日も来て くださってると思うんですけれどもね どうぞよろしくお願いいたし ますはいどうもどうもえ金太さんよろしく お願いしますはいこんばんは仙台にあるえ 大崎八幡宮ではどんど焼きどんど焼きにて 裸祭りをする行事がありますなるほどね まあでも本当仙台仙台も結構寒いでしょ ねえですまでも本当にもう冬の祭りという のはねいろんなものがありますけれども 裸祭り北海道にもあいますねこんなあの 開始神こガって噛みしめておいてですね顔 やっていて後ろからバ後ろからこうやって 水をガバガバかけるというそんなあ祭りと かもねありますけどねねえいろんな祭り ありますけどもどうぞお金を引きません ようにどうぞよろしくお願いしますはいと いうことでねまたコメントいただきながら と思いますが今日のお話でございますはい ざんということでねえと新乱会さんと本願 派さんどう違うえ1年各節の研究総集編と いうのをね今日は予定させていただいて おりますねあのずっとですねこの勾配AK 先生のですね動画をおえ2話まで作ったん ですけどもねえですけどもそれで3話目を 作るというのでもうすでに1年が経って おりましてねえそろそろこれも完成させて いただきさせていただきたいと思いまして ね今日はお時間を取らしていただきまして この総集編もう最初の1話も2話もね今日 見ていただこうと思っておりますけどもね えどんなお話でありましたかと言いますと ですねまこれまた見ていただきたいと思っ

ておりますはいちょっとくさいよちょっと ねレジメがねちょっと間に合わなくてね もうこのワードのママでございますけどね ちょっと共有しますねすいませんねえっと ねこれでございますよ ねはいすいませんこんな画面で申し訳ない ですけど1年各設の研究勾配永見先生の 論文を今日は解説させていただくという ことでございますね初めにってことで えっと1番最初にですねこの新州10馬を 避難攻撃する診断会っていうところから スタートしたしますこのようなことがね 最初の方に書かれてありますこれあのお話 する前にねこれあの1つだけお断りしたい のですけどもこの論文が出されましたのは なんとも50年近く昔の話でございました ねねですからもうかなりもうなんですか 一昔どころかもう反石ぐらい昔のこれ論文 でございますのでねだから今あの信頼会様 がは1年各地だなどということではないん ですで逆に言ったらですね当時の40確か 8年前のえ診断会さは1年各地でありまし たということなんですねで逆にそのその この公募AK先生のこの論文などのこの 本願寺側もしくは他のね えこの非制教団側からのこの論難っていう かその論文を読んでそれで色々とこう変革 していったのが今の信頼会様ですよって いうのがありましてね別に今どこだって 言ってるんではなくてそういうルーツを 持った教団であるというのをですねもし 教団の方があの今ご覧でいらっしゃいます アーカイブでもご覧でございましたらで それを一度あの勉強するのもいいんじゃ ないかと思いますねもう本当に宮沢先生の お話を聞きますと言うと自分たちのその 教団でもあるにも関わらず自分たちのその 歴史というものをほどご存じないというね 全くほとんど昔はこんなことを言っていた ということを今の会員さんはほとんど 知らされていないというところがありまし てでは今48年前はあの高森先生はどう いうことを解いていたのかっちゅうのを この論文を見ることによりまして 解き明かすことができるというのでねです からよく言いますよね水際だとかいうのを ねあの今日も出てまいりますあのコメント が入ってますねえそういう水際だとかねえ こいもありましたね たけのこ肘だとかですねとかあの小田安心 じゃろうとかですねこれ全て1年各地と 関係のある言葉でございますからねそう いう言葉を今お使いとか記憶であのご存知 だということはそういう歴史を持った かつては一年各種であった教団であると

いうのをですねうん確認していただくとが とっても大事なことじゃないかなと思い ますね本願寺の方ではですねそういう本願 寺死歴史の死というのがちゃんとありまし たね当時はこんなことありましたよって いうの全部歴史として残ってるんですけど も白さんにはそういうのがないようで ございますのでね是非ぜひあのこれまで あの学んでいただければなと思っており ます別にあの避難攻撃するつもりはあり ませんえそういうあの歴史を探ることに よって僕もですね間違っていたああそうな んだていうことがいっぱいあって勉強させ ていただくことができますのでねですから 本当にこうやっていろんなあの論争の中で ね本当のことが紡ぎ出されていく信男さん に通ていく商業にはどう書いてあるんだと いうことがね学んでいけるというので とても有意な勉強法だと私は思っており ますちょっとコメント読みますねあや薬師 はさんですよろしくお願いします こんばんはですはい先日はオンラインでし かあオンラインでしたが憧れの桜んぼ先生 とお話ができて何をしませああやし 嬉しかったですこちらこそですありがとう ございます えっとご正記え保温校中なのでえ突きまり え携帯掃除をしながらポケットにえスマホ を入れながらお参り聴聞しておりますいや えらい偉いですねあこさんもありがとう ございますようこそですね素晴らしいです ねプロささんありがとうございます さくらんぼさんこんばんは本日もよろしく お願いいたしますお世話になります ありがとうございますさあそんなところで ねまず話を進めさせていただきたいと思っ ております最初の冒頭にはですねこういう 風なことが書かれてあります本当は全部 読めばいいんですけどもねね抜粋してまず 説明させてもらいますはい始めに新州10 号は避難攻撃する信乱会当時も当時は過激 にやってたんですねこういう文面です東西 両方がを始め規制新州教団は低迷久しで ほとんど生命のないものであるただ乱会 のみが土州の生命線であり近将来にはを 変革するものであると自覚自負しているの であるってねそしてえ覇者検証の名のもに 各地で現在の本願寺教団を避難攻撃してい たのが今から48年前でありましたねで この小先生が本を出すそうすることでそれ によって反論本を出すかと思いきやシラス に乱入するというねそういう過激極まり ない時代があったんですよえ今おしいです けども ねというのがありましてねそこで公判先生

はこの本を書くということで例えばその 診断会当時の診断会様は1年隠しであると かそれでねえ管理商員であるだとか全治式 頼みであるとか地獄指示であるとか本尊論 などがありますけれどもいろんな問題が ありますけれども私はここで安心そして 新人問題に最も直接的に関わりを持ちます 1年各地の問題を取り上げて検討したいと 思いますということでこの本がスタート するわけなんですけれどもねということな んですねということでえっとですねまず 最初にこういう駆け出しからやっており まして えこういうのねそれでまたその第1章こう いうのが出てまりますねはいえ1高森氏の 覇者検証の姿勢ね新人正員そして王城一条 の自覚がはっきりするすに私は新人をね いいたとかですねこれで王城が定まったと いうのが大年に文部にはですねはっきり するんだというのが信さんの主張で市長 主張でありましたそこでえ神林AK先生は じゃあ信頼様はどうなのかなっていうこと で紐解いていくわけです結論先に言います というと信男様も新人欠場したえ新人がね いだいたえ王城一条王城が定まったという 自覚がはっきりしていましたよという風に 解いていかれます ねそもしあの新羅さんの指摘のように新人 欠場してでやるとか王城一条の自覚なんて ものは文部にあるはずはないですよなどと いうねえ人がいたならばこれは改めなけれ ばなりませんよという風に言っていかれた わけなんですよねこののところをですね あの別れをすくするために僕がその動画を ですねえ作っていたわけでございますこれ をねまずねえ見ていただきたいと思って おりますえ信男様ははっきりしていた1年 各地ねこの動画をねまず見ていただきたい と思いますどうぞが相がたくして今会う ことを得たり聞きがくして今すでに聞く ことを得たり自分はすでに新人欠場のみと なりましたよという新人告白なんだと 王一のない 不純真実新人ではないと述べているので あり [音楽] ます南仏なまな皆様ようこそお参り くださいました本日も桜ん坊の仏教部屋で ございます前回から1年隠しというお話を させていただいております回のお話は覚え ていないと絶対ダメかというお話でござい ました信頼証人の本願ジジ門の一年は 私たちボブのはっきり体験のことを言っ てるわけじゃないんですよというお話で ございましたね信頼証人のおっしゃる1年

とは1つ目信行開発の自刻の極白新人が 開きおこる最初の意味そしてその時に症状 女に入るこれが1つ目でございました2つ 目は無心二心がないという意味でござい ましたこれが信男様の1年のご解釈でした ねそういうお話をさせていただきました そして今回2回目のお話になりますが先日 友人から他州の話より集の中のことを問題 にした方が建設的だと思います実行安心や 本学思想みたいなご法和や公式文章が たまにありますよねという貴重な アドバイスをいただきましたま実行安中は ですね安倍信先生が今節丁寧なお話を来て くださいましたのでちょうど今1年各地の お話をさせていただいておりますの で1年各地ににまつわる新州内の問題に ついてお話をさせていただこうと思い ます前回のお話は長本愛二先生の1年各地 についてというお説を中心にお話しさせて いただきましたが今回は勾配英健先生の1 年各地の研究というお説を伺ってみたいと 存じ ます同じ本願中の中でも解釈が異なるのが この信頼様においては新人欠場王城一条の 自覚がはっきりしていたという説といや そうではなくて本願に対する疑いは生涯 晴れなかったのだという2つの説がある ように思うんです ね今日は勾配栄先生のお説を伺ってみたい と存じ ます永先生はこうおっしゃいます信男様に は新人逆の喜びの自覚はなかったのかと 言うとそうではないと信男様は競業新相除 に喜ばしいことにインド再生の制電中国 日本の阻止方の解釈に会いがたいのに今 会うことができました聞きがたいのに すでに聞くことができまし た会うことも聞くことも難しいつまりこの 上土真州に今すでに会うことができた聞く ことができたその喜びを語っておられます よというんです ねここで言う合うというのはこちらの合で はないんですねこちらの合は一般的な人 同士の対面こっちのグの合は人とか出来事 との偶然的な対面を意味し ます1年他年もいに会うということは真の 意味を持つんだとおっしゃいますまた聞く ということは何かと言いますと耳で単に 応用に聞くのではなくて新刊にお経に聞く というのは主上仏眼の正気本末仏眼の正気 本末と言いますのはあ様が私たちを哀れん で48癌を立てくださいましたそしてその 癌が完成しナア仏となってくださったん ですよそのナアダ物によって私たちは必ず 王城成仏させていただけるのですよ

これが仏眼の正気本末ということこれを 聞いて疑い心が全てなくなったこれをも 聞くと言うんですよとおっしゃいます1年 他年問いには聞くというのは仏眼を聞いて 疑う心がないのを聞くというのですよまた 聞くというのは新人を表しますよとあり ますまた有心正門員には聞くというのは 信人を表します よ孫心臓名門には聞くというのは如来の誓 のみなつまり名前あ様の名前名あ仏を 信じることを言いますよとあるようにも 聞くとは単に耳で聞くことではなくてそれ はそのまま真を意味するんですですから 信男様が会いがくして今会うことを得たり 聞きがくして今すでに聞くことを得たりと おっしゃっていることは自分はすでに新人 欠場のみとなりましたよという新人告白な んだと勾配先生はおっしゃい ますこのことは業官に大日の眼線つまり おじ悲の願いの船にすでに乗せていただい た安らかな境地を語っていらっしゃるんだ とまた期間には三岸転入の門には久しく 18眼に帰依し入って仏様の合音の深い ことを知りましたと述べており ます女には誠に喜ばしいことである心を 本願の大地に 立て思いよ不可思議の大会に流す深き如来 の慈悲のお心を知り誠におし様の熱い五音 を仰ぐ とあ様の願いの海に帰依した喜びを述べて いることからも明らかですとおっしゃい ますしかも今日喜ぶについて有信相問いに は今日喜ぶというのは新人を得て後に喜ぶ 心と述べているのですから喜ばしいかなと はもうすでに新人をいいた後の喜び すなわち新人決定の自覚の上での喜びとし て述べていらいらっしゃるんです ねまたこの新人信行について教行新相の 神官の自弱には本当に知ることができた 疑いの蓋を交えないからこれを信行と 名付けるんですよ信行とは一心一心とは 真実心なりとあり ます神官の法弱には信行つまり新人とは義 possible建造なき 心本願に疑いのない心であるとお述べです また孫心臓名門には信行というのは如来様 の本願が真実であることを二心なく深く 信じて疑わないのを信行というです よ1年他年もいには新人とは本願に対する 疑い晴れた心なんですよとも述べられて おりますつまり信男様は本願に疑いの晴れ た新人欠場の自覚や王城一条の自覚が はっきりしていたというのがこれが勾配栄 先生のお説 ですしかしまた一方で信男様は至るところ

で自力の 就寝自力心への執着心こだわりの心や真実 心がないことを嘆いていらっしゃいます これは一体どういうことでしょうか ねこの問を先生は立てられまして教行新相 の神官に悲しことに愚信頼は愛欲の広い海 に沈み明利の深い山に迷って症状樹に入っ ていることを喜ばず真実の悟りに近づく ことを楽しいとも思わないとあります一年 他年もいに はボブというのは私どもの身には無名煩悩 が満ち満ちており欲望も多く怒り腹立ちや そみ妬む心ばかりが絶え間なく起こり まさに命が終わろうとするその時まで 止まることもなく消えることもなく耐える こともないとおっしゃっておいで です本幹寺の先生の中にもこの部分を読ん でですね信男様は生涯真実心がないという 嘆きが続いていたのだとか本願に疑い晴れ た新人欠場の自覚や王城一条の確信など なかったんだという先生がおいでになり ますもっと進めて言えば本願に対する疑い は晴れるものではないとか王場一条の自覚 などあるはずはないという考えはこれを 義心王城の意義と言って否定されるんだと 先生はおっしゃい ます信男様は悲10回和さに上土真州にき すれども真実の真はありがたしコケ富実の 我が身にて症状の真もさらになしと おっしゃいまし たしかしそれは 本願に対する疑惑であると考えてはいけ ないんだと先生はおっしゃい ますこれは信頼様ご自身の煩悩が盛んで 真実など何もない我が身であるという嘆で あって本願に対する疑惑ではないんだと 言うんです ね本願に対する疑い晴れた喜びの中で自分 の心の中を反省なさ言葉であり本願に 対する疑いの心とは全くの別物なんだと おっしゃい ます単章の第9条 に信男様はゆ遠望に対して急いで上土へ 参りたい心のないような煩悩の盛なものを 特に哀れんでくださるのが身の大悲なのだ からいよいよ 情間違いないではないかとおっしゃって いらっしゃい ます急ぎ上土に参りたき心がないという ことは本願に対する疑いではなくてこの ように執着し続ける自分の姿を悲しんで いらっしゃるのであってこれは二主人身の 木の人心の姿を素直にお述べになっている んですというんですね しかしそこには本願にお任せした真

すなわち法の人身に関する一点の疑いも ない信頼様のお心持ちが示されているんだ とこのように信頼さもお書物の至るところ に見られる煩悩が盛である真実なる心の ない自分に対する悲嘆の拷問があるからと 言って信男様は本願に対する疑いが晴れ なかったとか王城一条の確信はなかった などと理解するようなことは全くの誤りで あることは明らかでしょうとおっしゃい ます孫心臓名門には接収信仰上昇号という のは新人を得た人を無好物つまりあ物の心 の光が常に照らしてお守りくださるために 煩悩の闇が晴れ少女の迷いを繰り返した 長い夜もすでに明けになったと知りなさい ということ ですいのスハ無明案というのはこの心を 示したもので新人を売れば赤きになるよう なものであると知りなさい ということ です東内心臓し運上布真実新人天というの は私たちの貪欲や愛欲怒りや憎しみの心を 雲や霧に例えてそれが常に真実という天を 覆っていると知りなさいということ です尿 日光 むあというのは太陽や月は雲や霧に覆わ れるけれども心の闇は晴れていてちょうど 雲や霧の下が明るいように貪欲や愛欲怒り や憎しみの雲や霧に新人は覆われていても 王城に生りがあるはずがないと知りなさい ということですとおっしゃっていますよう に本願を信じる身になった後も東内心臓の 煩悩は起こってくるのであるのですが すでに真人を得ていれば凡の不足の事故 これを承徳の木を嘆きながらも王城一条の 確信つまり王城は間違いないのだなという 確信ははっきりしていたということはこの ことからも明らかですとおっしゃい ますまた高宗和さんに不如術修行と言える こと卵子借してのた枠一社新人預からず 若園若をするゆにとありますこの存毛を するゆ上にのさおがにある時はさもと思う ある時は叶うまじと思うなりとあります ようにある時は助かるように思いある時は 助からないと思う心すなわち助かるか 助からないかわからない王女一生の確信の ない心というのは人 これを不 純心で あり真実信人ではないと述べているので あり ますこのように信男様の真は本願に疑い 晴れた救われることを確信した王城一条の 心なのである と以上のように信頼様においては新人欠場

王城一条の自覚がはっきりしていたという ことは明らかであると先生はおっしゃい ます従って本願に疑いの晴れた新人欠場 王城石上の確信ははっきりあるのが当然だ とするま高森氏の主張はこの点においては 正当なものと言えると言われ ます高森氏の避難する本願に対する疑いは 晴れるものではないとか新人欠場とか王女 石上の自覚など文部にあるはずはないと いうような主張がもし本願寺教団内でなさ れているとするならばこれは応に反省し なければならないでしょうとおっしゃって おり ますどういかがでございましたでしょうか 以上が勾配遠見先生の1年隠し説の研究と いうお説でございましたここで注意して いただきたいんですが公売英検先生は新人 を得た時がいつであったかを必ず覚えてい なければならないという診断解散の1年 隠し説には反対をなさっていらっしゃい ます昨年9月28日に仏教部屋にご出演 いただきました勾配衛和上ハからの説とは 診断会との論争という動画の中でたっぷり 語っていただいておりますのでねどうぞ 合わせてご覧いただきたいと存じ ます本願寺派はなんと言いましても巨大 教団でございましてね多くの優秀な先生方 が障害をかけて検算をされております そして今も検算し続けておいででござい ますこの先生方が考え研ぎ出してください ました宝石のようなこの見えをご問と様方 にお取り次ぎさせていただきますのが 私たち不教師のお仕事でございますま言え ば学者様方が製造もでありましたらば 私たち不教師は宣伝販売配達業務を担当 するお立場でございますので日々勉強させ ていただきたく存じます今回は勾配A先生 のお説を紹介させていただきましたが他に もいろんなお説があろうと思いますのでね 降に触れましてご紹介させていただきたい と存じます本日は誠にありがとうござい ましたこの動画が気に入っていただきまし たらグッドマークもっともっと気に入って いただきましたらござますえいかがで ございましたでしょうかこれねえちょうど 1年以上前の動画でございましたです けれどもねま要するにここまでねお話させ ていただきましたら何のお話かと言います と言うとちょっとすいませんねこれね 申し訳ないですね えっと画面共有しますね今まで何のお話か と言いますと言うと要するにえ新人欠場 そして王城一条の自覚ははっきりするん ですよという高森さんの主張というのはえ これは間違いないですよねもしそんなもの

は王女の自覚に本分に自覚なんかあるはず ないというのがあいらっしゃったならば それは改めた方がいいですよというところ をこの動画にしていたわけですねえここは 間違いないとこですねちょっとコメント 読ましていただきますねはいそれからみ さんこんばんはでございますわさん よろしくお願いしますお世話になりますあ そうとねありがとうございますプロささん えスーパーチャットたまりました320ね 物本願力もみよ行場カシと被告時2人で 泊まりましたオフスはですね先生方のご 放れさせていただきますどうぞありがとう ございました感謝申し上げ ますということなんですけれどもねえっと ですねそれからですねなまん だということでねもう1つ聞きましたね 川崎正美さんありがとうございます よろしくお願いしますねやせやかさんはい トラ猫大和さんありがとうございます こんばんは小心げのナマダブスのね 繰り返しところがのフがサザの波上に君を 守ってやるよとのしょうがない暦でござい ます私も今年もあの年男でございますから 暦をえさせていだきますためでございます ねよろしくお願いしますねそうですよね私 を守って君を守ってあげるよね必ず応させ てあげるよっっていうのがねえまさに何な でございますね素晴らしいです ねありがとうございますよこそよこそか さんよこそでございます皆さんこんばん仏 でございますお世話になりますということ で大体お分かりいだきましたでしょうかね 要するにここはまあ第1回1ですよね者 検証の姿勢とこの次ですねこの次その 次第2章1年各種の意義と高森氏の主張の 問題点というところに入っていきたいと 思います1年各種の意義と言いますと何か と言いますというと入信の時の記憶を持っ て真の証拠とするねつまりこの高森の主張 の中にはですね1年の自覚は必ずあるはず だとねそれのないものは真を得ていないん だよという風な主張が当初なされており ましたこれというのは先ほどのね新一条 自分が新人ねいいたとか王城が決まったと いう自覚とはまた別にねその1年の自覚が あるあの時にとかですねえそういう時が なきゃだめだという意見はこれは新1年の 核不を論ずる意義でありますますよこう いうことなんですねこことところとですね ことはねここが1番のこの論文の中で大事 なところですよね時間後その真の時がいつ であったのかここをあの論じるというのが 問題がありますよということなんです けれども

ねこれもまたねえっともうちょっとし動画 見てもらえますからねちょっとコメントも 読ましていただきましょうかねはい ありがとうございますすいません ねはいどうもどうもはい健二さん ありがとうございますしらさんにえ騙され ても食いないですありがとうございえ信男 様のようなね本年様にすかされ参らして もっていう言葉ですねありがとうござい ます素晴らしいですよねはい佐々木さん ありがとうございますえ桜本さんかさん こんばんなもでございますよろしくお願い し ますということでね次のね動画を行きたい と思いますそのこの後にですね作りました この1年各地の井と高森氏の主張の問題点 という動画をですね作りましたのでこれを 是非見ていただきたいと思いますどうぞ よろしくお願いいたします近言ってないと いうものの彼らが完全に1年各施設を改め たのかというとそうではないと僕は思うん です新1年の自覚は必ずなければならない それのないものは新人を得ていないのだと 市長は意義であるという現に今でも1年 各地の慰安んの人がいるということですよ ね難万ダ仏難万だつナマなつナマな皆様 ようこそお参りくださいました本日も 桜ん坊の仏教部屋でございます前回はです ね香林エケ先生の1年各説の研究という 論文をご紹介いたしました今回はその続き でございますこの1年各地シリーズを始め てから知人から最近の診断会は1年隠し なんて言わないよと教えていただきました あそうなんだと思う反面えそうかなと思う ところもあるんですね島さんたちと論争し ておりますとね本願寺派の新人獲得は 単なる思い込みだと言ってくるその根底に はやはりこの考え方がかなり影響してるん じゃないかと僕は思っているんですね宮田 さんにお伺いしますと信男会は批判を 受けると微妙に言い方を変えてくるって いうんですね以前高森会長が仕切りに行っ ていた祝前論というのがありましたそして いろんな方面からこの祝前論が批判を受け ますというと突然祝前とは言ってはなら ないという通達が出たと言います宮田さん は言ってはならんて言ったってわしらこの 耳で聞いとったんやけどなあておっしゃっ ておりましたですがそれで祝前論はやめた のかと言うとそうではありません教団でお 金が必要な状態になるっていとまた祝前を 詰めで始まったと言い ます1年隠しだってかつてはあれほど自慢 自信満々で攻撃していたわけですからね 最近言ってないというものの彼らが完全に

1年確設を改めたのかというとそうでは ないと僕は思うん です人の考え方ってねそうそう変わるもん じゃないと思うんですけども ねそれにこの1年隠しの意義と言いますの は江戸時代からある問題で診断会さんだけ の問題ではありません他の団体でも似た ような考えをする教団がありますいつ どんな教団からまた論難を受けないとも 限りませんいつ1年各施設をね唱える人 から論難を受けても大丈夫なようにね再 確認しておいた方がいいと私は思います ませっかく40年前先生方がご研究 くださったその論文があるわけですからね それをしっかり読ませていただいておく これが大切だと私は思いますましかし学者 の先生の論文というのはまあ難しいんです よねですからできるだけここでは分かり やすく顧問と様にもご理解いただけるよう にと思いましてこの動画を作っている次第 でございますさあ 神林先生の第2部1年各地の意義と高森首 の主張の問題点を呼んでまいり ましょう新人虐がいつだったのかを覚えて いることこそが新人獲得の証拠だという この1年各地の意義がいつ頃起こったのか と言いますというと大原のお説によります というと3号枠の頃まで遡り3号奇妙説の 典型と言われているんですねまずこの3号 枠というのは一体何かと言いますというと 江戸時代の中期の上土真州本願寺派の競技 を巡って発生した大紛争なんです ね宗派内では解決することができなくて 自社業まで乗り出す大騒ぎとなりまし た西本願寺教団市場最大の慰安人遺事件と 言われており ますまず無名安心という異安神が北陸中心 に広まっていました無奇妙安心と言います とは実行の昔にあ物が成仏した時にすでに 私たち主上の救済も成就されているのだ からそれを忘れないのが新人であるという 説ですただただふむふむと聞いて知って 忘れなければいいというある意味あ様の 救いを頼りにする心頼む心帰依する心が 乏しいという異人だったんです ねそこで西本願人第6代農家農家と言い ますのは修文1番の学者様です学です存師 がこれを抑えるために福井五ぼに赴いて その首相者でありますその説を唱えている ジョガジ竜陽師を問いただしたと言います この時の問答を岩礁奇妙弁に表しまし たしかしこの内容が体と口と心の真悔の産 号でもって産号でもって網物に救済を求め 真空の3号でもって奇妙する姿が伴わ なければなりませんよという非常に自力的

な要素を含む3号奇妙説だったんです ね幸存氏は王場するまでの30年以上脳 家職を務めましたが著書の岩礁決め弁に 対する批判はすでに起こっていたというん ですそして第7代農家に就任しました弟子 の地道氏が無料受教の公設の中で3号奇妙 説を唱えたことでこの紛争が拡大していっ たと言いますこれが3号枠事件なんです ねそしてこの幸存師が岩礁奇妙弁を表した ほぼ同じ頃に作られた被書ま秘密の書です ねである包容省という書物にはこうあり ます何年何月何日何時頃にお助けに預かっ たという記憶もないのにお助け一条だの私 の王城は定まったなのと言っているまた真 の全自式に会っていないのに紛れもなく 長文申し訳ただのと言ってもそれは意味の ない悲しいことです とありますこのことから見ても3号枠の 前期法力の頃からこの意義が唱え出された と考えており ますこの主張をしたグループを3号派と 言います3号派と言いますのは以号心に より9号口に より信号体によるこの真区の号通してあ物 に救済を求めそれぞれの号に奇妙の姿が 伴ってなければならないという自力的な 様子を含むグループだったんですそして その3号派に対していやそうじゃない だろうと反対した派がありますそれを小派 と言い ますこの小派の人々の意見を記録した 書物事件日誌には第7代能家であります 地道氏も6代目の幸存師と同じ主張であっ たようでござい ます小道業は新人を得た時刻を記憶して 忘れないためにその時国を書き記して仏壇 の脇に張って忘れないようにしていたと 言われてありますこの3号枠事件というの は3年1806年11月第19世本如収支 の5災談の5章が出されることによって 集結いたしましたそこにはこうあります 近頃は新人を得た時の年月事を覚えている か覚えていないかを論じたりあるいはア物 に帰依する1年にこだわって真クの3号を いましめてあ物を頼りとすることを 嫌い迷うものがいるまにもって投げかわし 次第であるとありますつまりあ様に帰依し た1年これを真の1年の年月美事を覚えて いるとかいないとか論じることは意義で あるとされたわけなんですねですから新1 年の年月美事の覚えがなくてはならないと 執着するのも意義ですしまた覚えがあって はならないと執着するのも意義ということ になりますよ ね本波の先哲の中で3号和蘭の集結に人力

された広島の大士九州の同恩師のの論文に はこうあり ます真の1年は非以後である被以後という のは真空の3つで頼むことではありません よという ことま大体その後は大体この新一年は非 以後で不である不というのは文部の心や 意識には全く現れませんよという説がなさ れて行くわけなんです ねしかし広島の義男氏や大阪の千明市の 主張には新1年の非以後は主張するけれど も核の場合もある つまりつまりですね真の1年は真区の3つ で頼むことではありませんが年月日事を 覚えている場合もありますよと述べられて いるんですね義山師や千明師ももちろん新 1年の二の記憶があることを持って真の 証拠として必ず隠しがなければならないと いうのは意義であるけれども全てが全て 必ず不確であるつまり文部の心や意識に 全く現れませんよとは言わないんです ね千明死の以非以号の論にこうあります 念願ピを覚えていてもいいし覚えてなくて もいいんですとに仏様の知恵に新々する ことを持って正しい上土真州の安心とし ますですから連日証人も年が美事の核不を 論じてはおりませ んのご文主様の多くは年月を期しては いらっしゃいませんただ信男様はこれを 来されましたよそれはなぜかと言えば親の 懐で育ったものは何年何月に親であること を知りましたとは言わないでしょうといつ の間にやら親であることを知ったんです 生まれた時から新州の見しの中で育てられ たものはこれに当たりますまた生まれて から他人に育てられて大きくなってから家 に帰ってきたものは何年何月に私は親を 知りましたというように 省略覚えているのが良いと計らうのも良く ないし覚えてないのが正しいのだというの も良くないんだとすなわち各不覚えている とか覚えていないなどということを論ずる べきではありませんよと裁断されたもの ですよとあるんですねつまりは年月を覚え ていてもいいし覚えてなくてもいいとに仏 様の知恵に新人することを持って正しい 上土真州の安心としますよと主張 するこう主張します千明師の立場が最も まと得たものと言えます ねしかし高森氏は逆心新人を新人を得た その1年にはっきり自覚があることを著作 や新聞などに力説しております検証には 真実の信仰には1年がある1年とは疑い 晴れて大満足の地にした思いをいい略今 まで閉塞していた心の中が開発して信行と

晴れ渡った1年言説やしの及ぶところでは ない点同地の一切なを言うのであるしかし 主力分別を超えると言っても意外無の信行 の開発する初期の真であるから無念無双で あるはずはもないからやはり明らかな自覚 の諸説なを一念と解かれたのだとあり こんなことが知りたい丸1にはこの暗い心 は新人約束するとつゆちりほどもなくなり ます救われていない人には思ってみようと しても出てこない心ですしかもこの心は あっという1年で晴れ渡るのですその時を 真の1年とか頼む1年とか奇妙の1年とか 言うのですまた法線にはあっという間も ない地獄の極くに我々の苦悩を抜き取り 無常の幸福を与えてくださいますこれを バック与楽と言われ ますあ物の救いはこのように極めてきりし ていますからこれで助かったのだろうかと かこれで多の新人を得たのだろうかと自分 で試案したり他人に尋ねたりする必要の ないものです日に触ったようにはっきり するもの ですなどとあるように新1年の自覚が はっきりあることを強調するの です神に述べたように本願字派の先の中で 義山師千明師においては新1年について 覚えていても良いし覚えていなくてもいい の立場を取るのでありまして高森市の市長 もま単にご自身の進行体験として真の1年 の自覚を語るのみであるならばま一概に これは慰安人だと知りづけることもでき ないでしょうけれど も検証には 1年が上土真州の四国であるからこの1年 の妙味がなければ信仰を開発した人とは 言えないのであるとありますし百道ゆには あ物の救いは断じていつとはなしではない 今こそ明らかに知られたりと驚き立つ1年 の体験なのであるとありますし証新聞には 物のの救いは断じていつとはなしではない 今こそ明らかに知られたりと驚きたつ一年 の救いなのであるたきになるまで聞き のこうとありますまた本願疑心は米俵の米 のようにジロジロと少しずつなくなって いくようにいつしかなくなるのではあり ません新人の人には義親が1年にち破られ た体験があるはずですなどとありますよう にいつと話しに真を得たとか少しずつ疑い がなくなったとかいうようなことは絶対に ないのであり必ず新1年の自覚がはっきり なければならないことを主張しているので あり ますこのように高森氏は新1年の自覚は 必ずなければならないとと強調しそれの ないものは真人を得ていないのだという

主張をするんですねこれまさに新1年の核 不覚を論ずるものであり紛れもなく意義で あると言わなければなりません ね以上が勾配先生の汚説でござい ます実は先日1年各地丸1新1年覚えてい ないと絶対だめかという動画のコメント欄 に坪井邦彦さんという方からコメントが 入っておりましていつと話に助かるという コダアジかとありましたあこれまさに高森 氏の米田の例えですよ ね坪井さんという方が信会かどうかは 分かりませんが現に今でも各の異人の人が いるということですよ ね表面上は言わなくなったとしてもこの1 年各地が全くなくなったということでは ないということなんですよ ね江戸時代から未だに1年各施設を唱える 人は後を経ちませんいつまた論難を受けて も大丈夫なように再確認しておく僕はその 方がはるかに建設的だと思いますけど ねさあここで気をつけないといけない ポイントがござい ます新人の年が美事の核不確を論ずる つまり新人逆の年賀美事を覚えていなけれ ばならないかという問題と新欠場の自覚 新人が決まる新人が決まるというのは私が 王女成仏させていただくことが決まるその 自覚が文部の私にはっきり分かるかどうか というこの2つの事柄が述べられてあると いうことなんです ねキーワードとなる言葉がこの非以号と いう言葉この意味はいまいちちょっと 分からなかったので勾配先生にご質問をし たところ今節丁寧なご回答をいただきまし た小派の人々の意見を記録した 事件日誌に会者省の以号の億年奇妙の一年 についてこうあり ますその頼りにすることは口で頼むでも ない体で頼むのでもないただただ本願を 信じて網物に帰依する1年が起こることで あるですから心で億年奇妙の1年と言って も 文部の私が心で頑張って作る憶念奇妙では ありませんただお聞かせいただいた六次 名号がボブの心の中に現れること を以後億年奇妙というのです よ異なる考え方を持つもの間違った知識で 持って発願器具願いを起こし祈りを求める という思いを作り出すこととは大いに 異なりますよですから身を頼むというのも 新人を取るというのも名号の強直帰依せよ という教えでありご命令なんだそれを聞い て心に疑いなく受け取らせていただく1年 の起こること以外にはありませんよとお時 でございますつまり

この非号という言葉の意味は文部の私たち が心で起こす信人ではないという意味で ありまして文部の心や意識に全く現れない という意味ではないということなんだ と新人欠場の自覚真の核は全くないていう ことではないんだとこれが近年誤りが生じ て非号とは全くボブの意識にかからないと いう考え方が出てきて混乱しているんです と勾配先生はおっしゃるわけなんです ね大子同音師より後の説では真の1年は非 以後で不であるということになっているん ですが不であるとはダエしも同音しも言っ ていないと思いますよとおっしゃられ ますあすいませんマイク入ってませんでし たねどうでしょうちょっと長かったです けどもねえということでございますけども ねえさてとねそれでもうちょっと時間も あるんですけれどもねこれですねまだ途中 なんでございましてねえっとねそこでき ましたねそしてここまできましたねするに そうやってその1年自覚私いつ信じをいい たかいいてないのかこれ覚えてる覚えてな いっていうのをですねごちゃごちゃ言うの を各不を論ずるのは意義であるっちこと ですねかつては中さんはそうでありました よっていうことなんですねはいということ でございますそしてですねここからがです 今日の始まりいい長いことかかりましたが ですねここから今日の本当の今まで言って ないところに入ってまいります今日 ちょっとね時間オーバーするかもしれませ んもしの方眠い方はアーカイブで見て いただければと思いますよろしくお願いし ます33章高森氏の弁名いつ救われたこと がはっきり分からなければならないという のであれば当然年月ピの自己え実が問題に なりますよ実に用事はないと言いながら実 は実を問題にしてるんじゃないでしょうか とこなんですねここがねあの実を問題に する実とというのに負けましてねそれで 実情言わなければ刑事えという風にすれば 実はじあの1年隠しはないと逃れられる だろうというところが実はあるんじゃない かなというとこなんですねでもそれとは 問題なくてですねこれが最後のね動画に 作ってきた動画になりますがこれを見て いただければあの1年隠しかどうかね自分 が1年隠しかどうかっていうのがはっきり しますのでここだけ見ていただけますよう ねよろしくお願いしますよどうぞお願いし ますそれでは勾配先生の結論3高森氏の 弁名に参ります高森氏は自分の主張は1年 各地の意義ではない上土真州の教えに背く ものではないということをいろんな書物で 弁名しております検証検証新聞こんなこと

が知りたいなどに は1年各地の意義とは新人欠場した年が ペジの記憶の有無をやかましく強調する ものを言う仏教では時を語るのに実刑事と いうことが言われる実とは午前8時30分 とか午後3時10分とかいうような本病 多いそれに対して蜂にさされた時とか夢の 覚めた時とかいう時を刑事という 新人欠場の実など分かるはずもなければ 記憶できる通りはないから私は逆心の1年 後何月何日何時何分の実では語ってい ない現今の本願寺は1年の不確知説を持っ て正しい新人として救われた新1年の体験 を語るものまでを1年各地の意義と避し その根拠として五裁断の5所に核不を論説 ずとあるのを持ち出して核を排して不に 集字て1年不可設を持って正位安心とし1 年を解くものを意義と攻撃するが核不覚を 論説ずというのであれば1年の核を主張 するも不を主張するも とに周囲に反することになるのであり不確 設を主張する現本願寺こそ慰安人の集団で ある信男証人ははっきり真の一年の尺を 示されているのに本願寺の学者はいつとは なしに救われるのでありみに救われた時は 必ずあるが私たちには助かったやら助から ぬやら分からんものであるという新1年の 妙味は大安心大満足の心が生ずることで ある からこれが分からないというバカなことは 断じてないはずで ある助かった味ははっきりするのであり これを1年各地の意義というものは無安神 の親玉である本願寺の人たちはア物に救わ れた1年の妙見は分かるものではないと いうその理由としてこれが分かると言えば 異を新人の上で語り自力に乱ずる恐れあり といい正位の安心は非以の以号だという しかし以が自力なら非以号の以号と言って も自力となるではないかともかく 安心はあくまで私たちの心である信男証人 は救われた体験を諸々で述べているのに この救われた味が分からないものだと方言 する連中は救われた体験のないことを自ら 告白しているのであるとありますこのよう に高森氏は自分の主張は1年各種の意義に 該当しないものであり私の主張を避難する 本願の方こそ正しい安心が分かっていない というん です高森氏は自分の逆心の1年の自覚を実 では語っていないと言いますその文を引用 してみますとではその私にどうして1年 各種の一安心というような的外れの避難が 生じたのかと考えてみますと中略実にこそ 用事はないが網物に絶対の幸福に救い取ら

れた1年の妙味がなければ未だ大神会に 入っていないのだと強調するからでしょう こんなことを知りたいとあるように実時に こそ用事はないがあ物に救い取られた1年 の妙味がなければ未だ大神海に入ってい ないと実に用事はないと断りながら新一年 の自覚は必ずなければならないことをここ でも強調しているんです ねまた検証新聞には一体本幹寺は少女樹の 身になったとはどんな素晴らしい体験なの か分かっているのでしょうかいつどんな時 に少女樹の身にならせていただいたのか 合皮や時間に用事はありませんがまさか 生まれた時から少女の身であったはずは ありませんから少女樹でなかった時と少女 樹の身に鳴らせていただいた後との鮮やか な体験がなければなりませんとあります ここにいつどんな時に症状女にならせて いただいたのか合皮や時間に用事はあり ませんがとあるように合皮や時間が分から ねばならないというような実には用事は ないのだと1年の意義を意識しながらも いつどんな時に症状女になったのであるか すなわち いつどんな時に真を得たのかが分から なければならないと主張しているので あり真1年の時間が必ずなければならない と言ってることに変わりはないんです ね3号ワラの当時のことを期した小派の 事件による事件日記には参号派の主張に つい て頼みとした年月美事を覚えているかまた は年月は覚えていなくても頼みとしたこと を覚えているかいないかもしいつ頼みとし たかを覚えていなければ王城は定まってい ないのだ覚えているように頼りとしなさい と進めるものだから皆驚いて混乱して しまいますこのようなものは知りとけ なければなりませんとありまた次の下の方 に はその奇妙を願ったのは何年何月何日何時 頃だったかと問いただし記憶しているかし ていないかを論じて無知の人々を乱した その説は一時社にいたが論難を防ぐために 年がを覚えなければならないということは ない例え年が事を覚えていなくても5章の 一大児を頼んだことを覚えていないという ことはあるはずがない 中略しかるに執着は宝の論難をはかって 言い方を変えても彼の本意は明瞭に時と 場所年が美事を記憶しておけということで あるとありますこの方から明らかなように 江戸時代の参号派においては物を頼んだ つまり信じた年が美事を問題にされてたえ 念願美事に覚えはなくても頼んだ信人を

いただいたことは覚えているはずであり もしいつ頼んだか新人をいいたか を覚えていないようなら王女はできないと 主張しているんです ね高が年月日事に用事はないがあ物に救い 取られたのがいつであるかが分からなくて はだめであるということと全く同じ主張が 江戸時代にもなされていたということなん です よ そして難を恐れて念願を覚える必要はない と言ってはいるが本意は明瞭に年額美事を 記憶せよというにありとあるんですが高森 市のお尚様である伊藤公然市の著作物的や 高森死のを変換した逆心の記録には入信 体験が国名に述べられてい ます検証新聞などに見られる会員の体験 告白にはほとんど入神の年月日が述べられ てあり高も論難を恐れて年月日時に用事が ないとは言いながらその本意は日次の記憶 をせようというところにあるんだろうなあ と容易に推測されますねまたいつ救い取ら れたかがはっきりわからねばならぬという のであれば当然年月美事の実が問題になる はずですです実に用事はないと言いながら 実は実を問題にしているということですよ ね以上お話ししたように3号和蘭当時の3 号派の主張と高森氏の主張とは極めて似て いるということがお分かりいただけると 存じ ます高森氏は逆心の年が美事の実に用事は ないとはいうもののいつ逆進したかは必ず 分からねばならぬと主張するのですから 信頼証人の見えに照らしてみると1年の実 にこだわり核に集る異義者であると言わ ざるを得ないということです ね高の主張を意義だと避難する本願事の方 こそが異義者の集団であり無安神者の集団 であると逆に避難していますが本願字派は 不確に小じわではありませんよね前回お 話ししましたように義山子や千明士などに おいては覚えていてもよし覚えぬもよしと 言ってるのであり決して深くつまり年が 美事を覚えていてはならないとこだわって いるわけではありませんよ ね 新1年の核は年月美事は覚えていてもいい し覚えていなくてもいいとどっちでもいい のであってしかも身に救われた喜びをよう こそようこそと語るのです から高氏は私たちには助かったやら助から ぬやら分からぬものであるというのが本願 自派であると決めつけます が新人欠場の自覚は部のの心や意識に全く 現れないとはダエ氏同音師もおっしゃって

いないんです ねまた上土真州の新人はたエコの新人 つまり如来様から賜わりたる新人ですので 文部の産号を離れたものだということから 非以号だと言われるん です非以号という意味は文部の私たちが心 で起こす信人ではないという意味であり 文部の心や意識に全く現れないという意味 ではないということだと真人欠場の自覚 つまり真の核は全くないいてことではない 私が頑張って作り出す新人ではなくてこれ はあくまでもたきあ様の真実心なんですね ですから年月日事にこだわらないのであっ て救われた喜びが我々には分かるものでは ないという意味ではないと神林先生は おっしゃるんです ね高森は信頼証人にははっきり真の1年の 尺があると言うんですが信男様の真1年弱 は信行に1年あり1年はそれ信行開発の 地獄のを表し広大難事の強心を表すなりと ある時間に関する尺と1年というは新人 二心なきがゆえに1年というとある真相 つまり心の姿に関する尺とがあります高森 氏は新一年の妙見は必ず自覚できることを 主張しているところ で真の1年の妙見はあらゆる証人の著作に 来されていますが中でも有名なのは教行 新相神官の語問であいましょうそれ真実の 信行を安んずるに信行に1年あり1年とは これ信行開発の地獄の国策を表し広大難事 の強心を表すなりとずばり1年の真を来さ れているからです この文章の意味は真実の多新人には必ず1 年があり1年と言は疑い晴れて大満足の 境地に開発した一思いを言い中略言葉や死 のを及ぶところでない点同地の一切なを1 年というのですと証人はかっぱなされてい ますと述べているのですがが1年を時間の 尺のみで説明して深層心の姿には全く触れ ていないんです ねこのように時間の尺を重視するがあまり に診断証人や連日証人に見られる1年の後 ことごとく時間の意味で解釈するから1年 の時に執着することになってしまうの でしょうしかし小派の事件日記には3号派 の主張を批判してこう書いてあり ます頼んだ時と場所年月までも覚えている ほどでなければ王城は確かではないと思っ て記憶しているかいないかを吟味してもし 記憶ははっきりしないのであれば頼みなせ と言って心を込めて癌を立て体にも口にも 現れてこれで王女が定まったとお住みつき を与えるこんなことは真州商業の中にも ないし通りも語問の証明もでたらめな考え であると述べてい

ます真一年の記憶がなければ真ではない などということは真州商業の中の通りも 紋章もなきも なり信頼証人のご教授には全くないもので あるということなんです ね19世紀アメリカの哲学者ウィリアム ジェームズの宗教的経験の諸相というお説 によりますとエシかこ入神の形には突然的 心 と前時的心の2つがあることが述べられて あります突然的エシをした人として有名な のはパウロオーガスチンがあげられます そして前時的エシをした人としては トルストイが代表的な人とされます新州の 明光人においてもこの2つの形があるよう です突然的エシの形としてあげられるのが 稲葉の権座同業です今回は 山田せつ子さんにこの部分を朗読して いただきたいと存じ ますどかぞして聞かしてもらわと思ってご 本山に上がったい なご本山でありがたい和嬢さんにご縁に 合わしてもらったけど動画しても親心が 知らしてもらえず仕方がなて戻ったいな おらように困って やところががある年の夏でや白谷に牛を覆 て朝草刈りに行っていつものやにロパ買っ て牛の背の右と左とに1ぱずつつけて3場 目を追わせようとしたらふいっと分からし てもらったい な牛や我が大手ごせ たけこれがおたきだわや はあ親さんのご縁はここかいなほらその時 にゃ嬉しいて やあなんダブなん ダブこの稲葉同業の現行録にあるように3 束目を追わせようとした時ふいっと分から してもらったとあり現在同業は入信の時が 自覚されていたんですね また前時 的エシの形としてあげられるのが大和の性 苦労 です5章大事と思い染めしは32さ残るか とは 思わ依頼心を込めて長文しきり氏には今は 疑うべきもなき大悲願力を信じ王女石上の 燃料坂も動くことなし 何年何月何日よりこの年に重視たるやは 知らずと述べています何年何月何日より この年に重視タルヤは知らずとあるように 彼の場合は入信の時がいつであったかは 自覚されてはいないんですねこのように 宗教を心理学の立場から見ても入信には2 つの形がありますし新州の明人にもこの2 つの形が事実あるわけですから必ずいつ真

に入ったかが分からなければならないと 主張することは無理だと言わねばならない でしょうと神林先生はおっしゃい ます結び に今述べたように高森氏は信頼会発足直後 の著作である検証に現の上土真州の同族の 中にはこの世でボブの我々が救われた助け られた大満足できた大安心に晴れたつゆ ちりほども疑いがなくなった逆進した王女 一条になったというようなことにはなれる ものではないしまた言うべきものではない 真を得ておるかいないかは我々文部に 分かるものではないというようなく呆れた ことを思い込み他人にまで教えて共に迷わ せている人が多いので信行が徹底したかし ないかは自分にはっきりせんでどうするか 助かったか助からないか我が身に分から ないような信仰があるかと強調せずには 割れないと高森自身の姿勢を述べています 信証人も新人とは本願に疑い晴れた心で あると述べられていますしまた自分自身が 本願に会うことのできた喜びや眼界に入っ た感激が明確に語られていますから高が 上土真州の救いははっきり事故に自覚 できるものだと主張することはこの点に 限れば間違いはない でしょうしかし高森市の主張は新1年の 自覚は必ずあるので逆進した時がいつで あるかが分からないようなものは真では ないというものですから新一年の自に用事 がないと言いながらそれにこだわり1年の 核に執着するものですですから3号枠 fromの時に1年各地の意義と裁断され たものと同じ類いの意義だ診断証人の教え ではないものであると言われても仕方が ないものであります ねだが気をつけなければならないことは次 の大原生日師の指摘 です各知節の取り扱いに際して特に注意を 換気したい点を期しておきたいそれは真の 各地を否定することと真一年の事実を否定 することとは同じではないということで ある新一年の自スる真相心の姿は新聞類に 示すが ごとく無無料ということであるこの1年の 神想の事実を否定すればおそらくは真前と 信吾の区別は弁名せられないであろうと あるように新一年の覚えがなくてはなら ないという1年の各地と本願に疑い晴れた 無無料の真相とは全く別であり各地を否定 することは決して本願に疑い晴れた新人 欠場王城一条の確信や喜びをも否定する ものではないのですこのことは十分 わきまえてかつ注意しなければならない ことであろうというのが勾配先生のお説な

んです ねはいどうでございましたでしょうか ねま長いんですけどねまあまあこういう ことでございますけどもねさてとこういう ことですね要するにえねええいつ救われた かというねはっきり分からねばならないと いうのはえ自が問題になると自応じはない といな結局実事が問題してんでしょうと いうことですよね ねそして入信の形には突然的エシというの とまだんだんにねえ前時に維新すると2つ のがありますよこれももう世界的に言われ てることでありましてはっきりパッキリ スパッとですねその瞬時に入信しなければ いけないっていうのはこれはその核不覚を 論じている慰安人であるということなん ですよねで結びでございます新一年の実に 用事がないと言いながらそれにこだわり1 年の核に執着するものであります3号爆の 時に1年各地の意義と裁断されたものと 同類の意義であります新1年の覚えがなく てはならないという1年の各地と新人欠場 王城一条の確信や喜びをも否定するもので はありませんというのがこの配先生のお説 でございますねえま長いことかかります ですけどもねえこういうのをずっとお やらしてえお話しさせていただいておる わけでございますけどねでじゃあなんで そうやって一生懸命言ってるけれども実際 どうなんだと本当にそんなことをね今の 人々信乱会さんたちはそのえ言っているの かというねことなんですけれどもこのの コメントねありましたですよこれこういう のこれ何日前ですか1か月前のコメント ですちょっと読みづらいですけどもね 要するに信頼会の教えを誤解しているなと 思いますね信頼会は県議所員の慰安人を 不調していないし1年各地の意義を強調し てるわけではありませんよただえその自覚 はっきりしているという意味えそのねその 王城事情の思いがないものは王城浮上で 真人が得られないと言いない言えないから 注意しなさいと言ってるだけですよそれを オーバーにから誤解されたんでしょうと信 会は1年の新人が切り取ったものではなく て生涯続くというのも理解してるし1年 各地 一刻深層1年があることも分かっています よとねえ確かに広大難治の強心という ところは文部の云々感でありますけれども 全部全部これ否定していくわけですよねで ここですよ ね最後のところはい1年隠しの慰安人の ような誤解して避難するのはやめた方が 良いと思いますこれ私に対してでしょね

問題は本願寺さんにここですたけのこ肘の ようなアジを推奨されてる方があるので それは問題ですよと言っているだけです たけのこひとはだんだんに育つアジを言い ますここです よだんだんに育つアジということは すっぱりきっぱり信じいただければなら ないでしょこれこそイ安心それこそこれが まさに1年各地でしょうたけのこだんだん はダメだとスパッといかなきゃだめだとね だからここをその各不覚を論じてるわけ じゃないですかねこれこそが紛れもなく これがその1年各地もう典型的な1年各地 ですよねそしてこれもですねあのあのねえ んですか あのソさんが来てくださった時のコメント でねありましたねこれあの島さんの コメントですに救われた実は分からない 刑事はわかるって言ってますねこれは本人 のことであればあそれはま体験として オッケーだと思いますけども分からなけれ ば新人は頂いてないという表現であるなら ばさんの言う通りそれは1年隠しです ねということになりますよね ねえ刑事も分からないなどと1度も言った ことはないですそらここは完全に高森さん の主張実さえ言わなければ人な刑事は覚え とかなきゃだめだよというところを特集し ているわけですよねですからもうすでにも 未だにそういう感じであるということです ねそれを1年隠しというという風に主さん が突っ込んでいらっしゃるというところが 面白い動画だなと思いましてねねそうそう これでね猫子猫さんもねえ自力心計いが なくなるとすれば1年の水屋があるという ことでしょうかこの水際という言葉もまた 結局それにまわる言葉じゃないない でしょうかね新人をね私はその新人いいて 喜びがありますかないですかって言うなら いいですけど水着はというのはここだって いう1年各地を問題にしてる言葉じゃない でしょうねたけのこアジねだんだんに育つ のはダメですよってほんで米田アジていう のがありますね米だからこう穴が開いてて ねジロジロジロジロとこうがなくなって いつの間にか全部なくなるというだから その前時的スパットじゃなくてだらだらと かだんだんというのはダメだというのが この信明さんこれさ言うあのそこは生き てるわけですよ結局これも1年各地だと いうことですよねねそこら辺がちゃんと 分かっているのかいないのかねというのが あるわけでございましたねまあいかがで ございましたでしょうか今日は長いこと1 時間30分についてえお話しさせて

いただいてるわけなんですけれどもねです からこれをやりたかったんです実は1年 ほど前ちょうど2月でございましたです けどねでしかし大谷派の1僧侶の方から ですね信頼会は今そんなこと言ってないよ ていう風にえコメントいただきまして そして知り合いの本願自波のお坊さんから ですねえあのね彼はそう言ってるよ元信男 会の彼はそう言ってるよていう風な連絡は ありましてもうもあっちもこっちもそも 大変なことになりましてねもう だんだんやる気があの大変もうあの メンタル的にちょっともう疲れましてね それでも全ての方々のごを切らして いただいてで1年ね器を熟したかなもう もうそろそろいいかなっということでえ1 本の動画として今日は作っていったわけで ございましたですけどもねまだらだらと これ本当はね強みにしましても40分 ぐらいかかる神先生のをね分かりやすく やってますので結局1時間30分以上 かかってしまったわけでございますけども ねええ要するにその核不覚を論じるうん ジロジロとだとかねだんだんとたけのこの ようにというのか水際とかいうものを言っ てるってことはすでにこれが1年隠しで あるということでございましてねえこれ またあの白さんの方々もこの1年隠しと いうのは何なのかっていうのはね多分あの お分かりないでしょうし第1高森先生が こういう発言をしていたっていうことは 多分じゃなくて絶対ご存知がないことで 言うはずがないですからねずらっとまあ 先生のおしゃるようにニるっとこう言い方 を変えるというのがあの方診断会さの特徴 でございますのでねですから過去は間切れ もなく高森氏は1年隠しの慰安人であり ましたここは間違いないとこですでもし この紅林先生がこういう論文出さなければ そのままま1年隠しの慰安人をずっと解き 続けていたというのが歴史的事実でござい ますのでねねそこをお分かりいただきまし てえ本願寺まあのね渡辺さんなんかしまし ても本当の信男様の教えは何なのかって 言ってますけどあなた分かってますかその 前にあなたの過去あなたの全知識様が過去 におっしゃってらっしゃったことていうの は何かご存知ですかというのをまず分かっ ていただいた上で動画を作っていただくと いうのがさ1番大切なことではないかなと 思いましてねえ今日はこういう動画を作ら せていただいたわけでございますけどねね そうですねえそういうことなんですま コメントも色々来ておりますけどもねそう いうことです

えっと稲葉の同業はあ稲葉 稲葉えっと現在同業はスパッとねこの束を わした時にあっと分かったからあの一瞬 水着はあったんでしょうねだけども山本の 聖さんていうのは一層はなしに新人 いただいたっていうことでございますので ですからこのだんだんに竹の子は安心 たけのこひかでジロジロとしたコメである 安心だということになるわけでねえ信頼 さんからするとねそういうことでござい ましたのでね1年各地がこれでしっかりお 分かりいただいたのではないかなというの でね昔高森先生は間違もなく慰安人であり ましたそれは改めて今あ今の信な会がある んですよっていうねありますこのように 先哲型はたくさんの論文を残しておいてで ございますのでねえそういうのもまた皆様 に紹介できればなと思っておりますどうも どうも今日はね長時間ありがとうござい ましたでありがとうございますもんだ ありがとうございますまこれだけ読ました ねえ裏さんこの方本当に貴重なご意見 くださりますね本質的なことを言えば診断 会では物と声が少ない合唱配の時以外 ほとんど声が出ないこれは本当に特徴的 ですこれは新人が分からないことのみなら ず聞きたい新人について打点できていない のですおを聞いたいえ聞きたい気持ちが 足りない分を1年の体験を求める気持ちで 埋めしているように思いますというね貴重 な体験をいただきましたですけどもねと いうことでございましたありがとうござい ましたさんねえ最後まで1時間40分お 付き合いいただきまして皆さん本当に ありがとうございましたよこそでござい ましたまあまあありがとうございましたえ ねえよこそようこそ池田先生まで来て ございましてありがとうございましたよう こそで皆さんね最後までご覧いただきまし てありがとうございましたねどうもどうも ありがとうございますようこそでござい ましたそうで覚えず知らずと言います さすがでそうですよねもう歴史からもう 覚えず知らずというのが本幹寺の歴史で ございますどうぞどうぞよろしくお願いし ますね皆さん今日はね長時間本当に ありがとうございましたじゃ持ちまして これえ終了させていただきます皆さん本当 にありがとうございましたお疲れ様でした 何万多何万多何 万

(お詫び) 紅楳先生は出ませんm(_ _;)m。

紅楳英顕先生が、親鸞会さんとの論争の中で48年前に著わされた、
『一念覚知説の研究』を元に、お話させて頂きます。

今でも!本願寺の信心を揶揄して、
「米俵安心か?」
「水際がハッキリせんとダメ!」等のコメントが来ます。

こんな言葉に、ビク付いていませんか?
これこそ!「一念覚知の異安心」のキーワードなのです!

親鸞会さんとの論争の歴史を学ぶことは、そのまま、
現代の私達の「真宗のご安心」を再確認する、
尊いご縁になります。

ご一緒に、学んで参りましょう🌸🌸🌸❣

〇一念覚知説の研究 紅楳英顕 伝道院紀要19号
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E8%A6%9A%E7%9F%A5%E8%AA%AC%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6_%E7%B4%85%E6%A5%B3%E8%8B%B1%E9%A1%95_%E4%BC%9D%E9%81%93%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81%EF%BC%91%EF%BC%99%E5%8F%B7#.E4.B8.89.E3.80.81.E9.AB.98.E6.A3.AE.E6.B0.8F.E3.81.AE.E5.BC.81.E6.98.8E

【BGM】中谷幸代 即興作曲
    https://youtu.be/rjK3iAYwPus?si=GDrs7vYWOc_nxjZm

#親鸞会 #本願寺 #論争 #ネコ #猫 #歎異抄 #菊谷隆太 #筬島正夫

8 Comments

  1. 枝が一本出来ました。正しい教え、お願いします。布教師の桜嵐坊さんとしては、高森さんの教え、黙って居られないですね、解ります。男らしいですよ。金ですかね?お賽銭じゃやっていけないのかなあー?

  2. )宮田秀成先生、観てますか、群馬・埼玉・一度、阿部さんの法話来ませんか、仲間いっぱい居ますよ。阿弥陀様は、必ず皆、救いますよ。

  3. この動画を拝見して、御法義を多くの先生方が800年守って来られたからこそ私が浄土真宗に出偶うことができたと感謝致しました。また、こうした自由で激しい議論が出来る浄土真宗だからこそ末法残り9200年も多くの方を救い続けるのだと思います。阿弥陀様のお光の中に。南無阿弥陀仏

  4. 何度もコメントすみません😅天台宗の小林先生が来られるとのことで1つご質問よろしいでしょうか?
    天台宗の御修行では西方極楽浄土以外の別のお浄土に往生できるという、み教えがあるのでしょうか?またご修行はもちろんこの世でのお悟りが目標だと思いますが、この世と縁が尽きた後についての教えはあるのでしょうか?浄土系以外のことは何も知らない私なので失礼な質問お許しください。南無阿弥陀仏😊

  5. 最近浄土真宗を学び始めた真宗本願寺派の門徒です。

    いつも動画を拝聴して勉強させて頂いております。誠にありがとうございます。南無阿弥陀仏

    今回は「信楽開発の時剋の極促」につきまして自分では調べても解らない事がありますので教えて頂きたいです。

    「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」

    「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」

    注釈版聖典では「信楽開発の時剋の極促」とは「信心が開けおこる最初の時」と解説されておりますが、

    「時剋の極促」を調べると「極めて短い時間」という意味のようです。

    そうすると親鸞聖人の釈は「名号を聞いて(信じて)から信楽開発までの時間は極めて短いですよ」のような意味になり「最初」という意味はどこにもなさそうに思えます。

    拝見させて頂いた動画では「信心が開けおこる最初の時を覚えているかどうかは人それぞれです」とご説明下さっているのですが、

    自分はそれ以前の「信楽開発の時剋の極促」がどうすれば「信心が開けおこる最初の時」となるのか?という所で躓いております…。

    お時間のある時で結構ですので、もしお答え頂ければ嬉しいです。

    どうぞよろしくお願い致します。

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