【歴史のIF】もし信長が桶狭間で戦死していたら?【ゆっくり考察】

[音楽] こんにちはゆっくり霊夢ですゆっっくり魔 理沙だぜ今回はもし織田信長が様の戦いで 内にしていたらという衣についてもしも 今川吉本が狭の戦いで内にしていたらと いう衣について考察していきたいと思うぜ 今川吉本って確か実だと1560年以降に 京都へ向けた神軍を開始し上陸達成以降は 機内一体を支配化において天下人へと 登り詰めた戦国部将のことよねああそうだ ぜだから今回はもしそんな日の本1の弓 こと吉本が上陸途中のどこかで内事にして いたらその後の戦国時代と日本の歴史は どうなっていたのかについて考察していき たいと思うぜどうか最後までゆっくりして いって ねそもそもどういう経緯で今川吉本は 天下人になったんだっけじゃあまずはそこ から解説していくぜ時は遡ること戦国時代 中期の1519年後の天下ビとこと今川 吉本はすが等の守護大名今川う地の子とし て生まれたんだただ吉本は4なだったこと もあって養育がかりであった体現裁ととも に失血して学商法と名乗って駿の全徳寺や 京都の県人時で主要を積んでいたのよねだ から実際1526年に父の今川宇地が死去 すると今川家の家督は着男のうじてるが 継承してたんだけどただその兄うじてると 第一継承者である兄今川彦五郎が同日に 死去した結果1536年には花倉の乱と 呼ばれる今川継承戦争が勃発しこの戦いで 兄である現行えたこと今川吉実を打ち取っ た神学商法はなお吉本と改めて今川第11 代党首に就任したんだただ以降の吉本は 1537年に同盟を破棄して進行してきた 北条軍との戦いである加藤一覧で敗北して 東敦賀を失ったり終わりのトコ織田信秀と の戦いである第一次安坂の戦いでも敗北 するなど家督相続当初はかなり困難な かじ取りを強いられたのよねああただ 1540年代以降の吉本は背後の武田信虎 との同盟を活用しつつ1544年には北 関東で起こった反方条系大名の挙兵に 合わせて進行することで場家から東敦賀を 奪還しまた同時には1535年に起こった 森山崩れと呼ばれる党首が家臣に切りこさ れた事件以降衰退が続いていた三河松田家 の後継者である松田広太を庇護することで 三河への進出を強めるなど順調にその勢力 を拡大させていったんだまた1554年に は軍資体現決裁の策略によって海野武田 関東の法条とそれぞれ悲を送り合う高層寸 三国同盟を成立させて高古の礼を立った 吉本は以降ついに西の尾方面への本格的な 進出を始めたのよねそうだぜ一方でそんな

おわりを支配するおだについてなんだけど 当時のおだけはさっきも少し触れたわりの トラコ田信秀が敵であった北の斎藤家との 同盟を結びつつ勢力を拡大させていて実際 信秀では終わり進出を図る吉本やの日護に 入っていた松田広たとも互角の戦いを続け ていたんだけどただ1550年にその信秀 が死去すると小田は家督を継いだ織田信長 と弟と信勝があらそう内戦状態に突入し また同時には信長の後ろ立てであった美野 の岐阜である同さんも1554年の長川の 戦いで息子の斎藤義達に滅ぼされたごなど から小田の勢力は確実にすり減っていった んだただそれでも織田の川1558年に 終わり守護の芝良金を追放した上で同年に は2度目の無本を計画していた弟の部活を 育成して家中をまとめたのよねああそうだ ぜその一方で終わり南部では今川派に転じ たなみ城主の山口乗り継ぐによる跳躍の 結果1559年時点で大高城と靴城が今川 派に願っておりこうした状況を後期と見た 吉本は1560年に不の朝日安友や背友に 岡部元信そして三河の松田勢や等々未勢約 2万5000人に出陣を命じて終わりへと 進行したんだそれでこの今川軍による 終わり進行戦はまず今川軍戦法部隊が三河 国境の牛田城を攻め落とすと続けて吉本 本体を含めた大軍が終わり南部の大高城 まで神軍しその後は朝日安友勢がその北に 位置する丸鳥でと和砦をそれぞれ陥落さ せることに成功したのよねそうだなちなみ にこのつ2つの砦の戦いの直後その南を 皇軍する今川本体に対して雨に紛れて織田 軍が狭さんで奇襲する終わり進行線におけ る最大の戦いが起こりこの決戦で織田軍は 数の差を物ともせず今川軍の松井宗信や イナ重などの等々の有力国に週を打ち取っ たんだけどただ肝心の吉本本体については 軍資体現決裁の震源によってその頃すでに 狭さんを抜け出していてその後マネ砦から 攻め寄せてきた松田元康や酒多三川州に より背後を取られた信長はついに打ち取ら れてしまったんだまたその後に信長の内地 に知った清上に残る小田獣心たちの内支線 派は着なの奇妙丸を盛り立てて今川軍への 交戦を主張したんだけどただこの数日後に は北から信長と敵対する斎藤義達率い約5 戦人の軍勢が北終わりへと攻め寄せそれに 対して信長と兼てより対立していた弟の 織田信があっさり願って犬山城を斎藤方へ と明け渡してしまったことから信長なき今 斎藤と今川を同時に相手をするのは不可能 だとようやく悟った小田重心は前線の前哨 時砦から撤退してきた重心の作間の森の切 Halfを条件に新ス上を会場したことで

1560年8月には終わりのほぼ全土が今 がけの軍門にくることになったのよねそう だなちなみにその後の小だに関しては幸福 直前に小田重心の林秀貞が奇妙丸を連れて 終わりを脱出していたことから吉本は かつて信長に反抗した弟信勝の着なである 後の津田信に家督を継がせ以降のおだけは 終わりの一部を支配する今川の参加大名と しての歴史を歩んでいくことになるんだ それで一般的にはこの終わり戦の時点で 吉本は上陸を心ざしていたと言われている んだけど最近はあくまで終わり制圧が目的 であってこの時点の吉本は上陸して天下人 になるほどの野心を持ってはいなかったと の説が有力しされてるのよねそうだなただ そんな終わりの制圧から約1年後の 1561年6月に狭の戦い以降今がけと 同盟関係を結んでいた美野の斎藤義達が山 で死亡しその家督を息子の斎藤達が継いだ ものまだ13歳であったことから身の政治 が獣心たちの合議生へと移行するという 底辺が起こったんだそれでそんな身の斎藤 家の弱体化を見た今川軍は有力豪族のつき ひたや斎藤俊光の手引きを受けつつ稲葉 山場を占拠してしまいそれに対して幼い タオの指導に早くも限界を感じていた稲葉 一徹をはめとした美の国州たちが次々と 今川に従属したことで以降の斎藤家は今川 の海来化に置かれることになったのよね ああ一方今川が身のまで勢力を広げていた 1562年3月頃今日では川の守護大名で ある畑山高と大から井までを支配する大名 の六角吉孝が室町幕府第13代将軍足がヨ てやヨてると結んだ時の天下富義長良の 軍勢を田の戦いで撃破して今日を占領する という大事件が起こっていたんだそれで 当時ヨシテルはそれまで対立していた美義 長良との関係改善を進めていたんだけど ただこの田での戦いの敗戦を見て元々嫌い 波義と関係改善をする意味を見出せなく なった足日がよしてるは美義軍と共に 逃げ込んでいた岩水八幡宮を脱出して当時 身にいた今川吉本の元へと落ち延びてきた のよねああそうだなただ対する吉本は当初 こそ未だみや終わりにおける支配体制が 確立されていない段階での上陸は現実的で はないとしてこの要請を拒否していたんだ ただ側近でありかつこの頃は三河一国の 実質的な統治者として共用されていた松田 信安や体現決裁に加えて身の攻略の結果 新たに加わった家臣である明智光秀などの 後押しを受けた吉本は上陸を決意し1度寸 farへと戻った吉本は半年後の1563 年4月に上陸軍を編成して着の宇とともに 寸farを発し翌月の5月には三河屋

終わりそして身の軍勢を加えた約4万の 今川軍が美国への侵入を開始したのよね そうだなちなみにこの時点の京都は実は すでに六角軍を撃破していた美義軍に制圧 されておりそうした事情から本来の生物 対象であった六角吉孝が今日追われた結果 上陸を目指す今川軍に加わるといった珍事 も起きていたんだけどともかく六角吉高を 味方につけたことで南大江を無傷で通過 することができた今川軍はその数をさらに 4万5000人までしながら1563年7 月についに大江と山代の国境まで神軍する ことになったんだただこれに対して天下人 である美義長良軍は今川軍の神軍を許さず に大和やせつ泉に泡にさきといった領内 各地から兵力をかき集めて約5万5000 人の軍勢を動員したことでついに今川軍マ と美義軍マ5000による天下分け目の 戦いが山城で始まったのよねああそれで 当時の美義家は優秀な弟たちの旅重なる死 により最盛期と比べれば弱体化していて 長良自身も衰弱しまっていたんだけどここ で長良は決戦に向けてその再turを急速 に取り戻し約2万の軍勢を率いて背側まで 自ら参陣してきた長良は今川軍と退治する と1564年2月に行われた第一次 世川行介させまた翌月に行われた第2次世 川合戦でも今川軍主力である駿が兵や三川 兵のとかを阻むことに成功したんだこれに 対し成功法で攻めるのは被害が大きいと 考ええた吉本は松田家臣のはっと正成など に命じて身涼の背後で長良と敵対する丹波 の旗のしや赤しそれに大和の筒などを 動かす策に切り替えたんだけどただ美義 本軍役2マが今日にいるとはいえ彼らの 攻撃を警戒した長良が松永久秀を中心とし た薬3万の軍勢を切や大和へと待機させて いたことから反美義勢力は挙兵を思い とまってしまいその結果吉本が目論んだ未 義法芋の形成は失敗に終わってしまったの よねああそうだなこうして今川軍の構成が こごと食い止められた結果人は半年間に 渡るなど長期化し補給の面から振りを悟っ た吉本は傷が浅いうちに一旦軍勢を解散さ せるようなことさえ考え出していたんだ けどただそんなさ中の1564年6月10 日にこれまで巨大吉政権を一手に支えてき た長良が山でこの世を去ったんだそれで その死は当初獣心と後継者であるおの義 以外には隠されたんだけどただすぐにこの ことが漏れてしまったため各地の美義軍に は動揺が広がったのよねああそれで以降の 美義軍に対しては各地で氾濫が残り大和の 筒井純世と丹波の赤鬼にこと赤い直正は 翌月の1564年7月にそれぞれ今川方と

して挙兵し獣心たちがその背後の対応に 追われる中起こった第4次世川の戦いで 今川軍に大敗した美義軍はその後起った 数土の戦いでも今川軍に負け続けこうした 状況を受けた美義義丞が松永久秀との競技 の上で軍勢を切へと引き上げさせた結果 1564年8月についに今川軍は京都への 上陸を達成したんだそれで2年ぶりに京都 へと帰還した足ヨシテルは将軍職へと最 就任するとともに吉本を新たに幕府の関連 へと指名して幕府権威の最高を目指したの よねそうだぜこうした経緯で室町幕府内で 体験を得た吉本は駿と藤美の統治を着なの 内実にそして三河と尾南部の統治を松田 元康へと任した上で自らは今日にとまって きない支配の晩酌化を進めていったんだ それでそんな今がけの飛ぶ取を落とすよう な異性に急よし家の残党である切の池田や 大和の松永までもが次々と軍門に下って いったことから150065年時点の吉本 はかつての見よ長良の立場を継承する事実 上の天下人と人々から呼ばれるようになっ ていたんだけどそん状況を苦々しく思って いたのが海の虎こと武田信玄でありという のも信玄はいつかは自分こそ上陸して天下 に号令したいと考えていたことからこの 今川の上陸激を信玄は内心ではかなり 悔しく思っていたもののただいまやここ まで巨大化した今川に単独で進行するのは 無謀だったことからこの時点の神源は今川 両への信仰を諦めていたのよねああそんな 中で1567年5月将軍ヨシテルが突然 休止してしまいこの足がヨシテルの死去の 犯人を巡って人々は将軍職の座を狙う今川 吉本がこの事件を起こしたとの噂が流れた んだまあただ実は現代では事件の犯人は 機内での復権を狙う美義3人衆によるもの だと文献で判明しているんだけどともかく この噂を信じたヨシての弟で仏門に入って いた核系は今日を脱出して大和の松永が 久秀の元に身を寄せなお足が義明に改める と各地の大名に対して上陸と今川両の信仰 を命じるミッションを送ったのよねああ それでこうした情勢を好奇と見た信玄は 松永久秀と同盟関係を結ぶとついで北しな のの鶴スデで当時は関東山内上杉家の家督 を継いでいた上杉剣身との会見を行ったん だただ信玄と剣身といえばわずか2年前 まで北野の川中島で退治を繰り返していて 特に最大の決戦となった第4次川中島の 戦いでは後のよで名勝部と呼ばれる激戦を 展開していたのよねああそんな宿敵同士の 神源と献身だったんだけど当時の神源は 今川家と手切れする上でおそらく今川側に つくであろう関東の法条家の存在を危険視

していてそのことからこれまで幾度となく 関東に進行しては小田原法条家の領土を 毎回奥深まで侵略していた剣身との同盟を 望んでいたんだそれに対して剣身も室町 幕府をないがしろにしているように移って いた今川や法条といった所生力との対決に 向けて高古の失礼を立っておきたいという 事情があったことから翌年の1566年5 月に上杉と武田の同盟である高越同盟が 成立し一方でその同盟に驚愕した今川と 北条の両が武田との同盟を破棄したことで 約12年間続いた高層寸三国同盟はついに 終わりを迎えたのよねああそれでそんな 高越同盟を結んだ武田信玄と14代将軍へ の就任を目指す吉明の呼びかけに対して 美義3人衆夜松永久秀に加えて今川派の 六角屋と対立する北大のあ長や神源の 義兄弟の権助が11代総集を務めていた 石山本願寺が行したことで後の余で第一次 今川法毛と呼ばれる共同戦戦が1567年 に構築されることとなったんだそれでこの 法意毛において陣営の名刺となった信玄は 1568年4月に上杉剣身が後付を超えて ご法条領の後付や武蔵へと進行したことで 東海へと援軍が出せないタイミングで北条 家と今川の連絡道を立つべくまず駿が北部 のク城を攻め落としそのまま2万5000 の兵をなんかさせて海岸まで神軍して 東海道の要所である神原城を放したのよね ああそれに対して駿で防衛を任されていた 今川宇はというと当時寸場に所属する駿兵 の多くは吉本本体に同行していて今日に 出平中であったことからわずか5000 しかおらず神原城にこもる2000の兵と 合わせても7000の兵力ではとても叶わ ないと考えていた藤実は三河の松田元康へ と援軍を要請したんだただ当時の三河では 武田と結んだ本願寺権与の先導によって 家臣の一部までもが離反して元康に攻撃を 仕掛ける一向門と一期が起こっていたため その対処に追われていた元康はまともに 援軍を出すことができずそんな三河や尊 から送られてきた援軍と駿の兵の約 1万5000人の戦力では地震と震源の戦 の際に大きな差があることを自覚していた 内実は神原城を救い出すために武田軍に 攻撃を仕掛けられないまま1570年5月 に神原城は落城を迎えその後に分断された 今川涼の東鶴川一気に武田軍の占領家に 置かれてしまい今川軍は本土である駿賀 疾患の危機を迎えることになったんだそれ でそんなスガの危機的状況を知った吉本は 1570年6月に起こったのだ福島の戦い で美義さ人衆本願寺モント連軍を黙らせる と急ぎするがえと約3万の本軍を進ませた

ものの未だに続く三河での大規模一気に 加えて終わりでも織田のに終わり一刻を 与えるという条件で武田と結んだ旧残党が 氾濫を起こしたことから東海道での皇軍に 手こずってしまったのよねああただ一方で 上杉からの援軍や敦賀の一向モトを加えて その数を3万5000まで増やした武田軍 は駿と藤美への本格的な進行を開始し 1570年8月までに一気に東海道の遊城 に北部等々の高城同じく等々の天方城のさ の城をそれぞれ武田勝よりや馬場信春高坂 正村の軍勢が法意したんだただそれに対し てそれら小城を守るゆ正信や奥山田それに 桂山地元といった今がけ不の上司たちは 10倍もの差がある武田軍の幸福韓国を 拒絶し彼らは今川本体3漫画スガに入る までの時間を稼ぐために武田軍を相手に 過熱な防衛戦を行った後に次々と玉砕して いきその後も横山城では岡部元信がそして そのさらに東の伊山原城ではうの長照と 言った今川不の獣神たちが次々都城を枕に 散っていったのよねああそれでそんな中継 270年10月には武田軍が今川け本拠の 寸城へと到達し今川軍5000と武田軍 2万5000の戦いとなったこの寸条攻防 戦では総大将の今川宇が戦闘に立って兵士 をこしつつ戦い最終的には剣術の死である 宇北前とともに2人で武田軍およそ100 人を道連れにする伝説を残したもののこの 戦いで宇は内事にしてしまい1570年 11月にはは寸上早き落ちながら陥落した んだただその直後三河での道Stillを 沈めた約4万の今川軍がようやく駿へと 到達し総攻撃の構えを見せたことで激戦で 疲弊していた武田軍は寸far上後から 撤退して戦戦を下げさらにほぼ同時に冬を 迎えたことにより上杉剣身が北条攻めを やめて関東から撤退しそれを知った北条 牛正がいずまで1万の軍勢で押し出した ことにより一点東西からの狂撃の危機に 陥った震源は翌月に海へと撤退することに なったのよねああただ一応武田軍はその後 も木を見ての駿への最進行を狙っていたん だけどただ信玄が1573年に山によって この世を去ったことでこの計画は中止さ れることになったんだそれで事実上法意も 最大勢力である武だの戦線離脱を知った 松永久秀やあ長は次々と今がけに幸福して いきその後の吉本は宇の死を悲しみつつも 寸far上炎上の直前に駿を脱出していた 内実のこの範囲を自らの派遣を継ぐ後継者 として養育しつつ1575年には神源の 後継者である勝よが家を相続した武田軍を 東美北部の流の城を巡る戦いで打ち破った のよねああそれでその2年後の1577年

には北上家の援軍に万を加えた約5万の 朝日安とも率いる今川軍が海へと攻めのり この時武田克が一問集とともに越後と亡命 したことでカからしの中南部の一体が一気 に今川の勢力拳に入ったんだまたその後に は法条家との同盟で上杉剣身を封じ込め つつも吉本は北陸やの各地で献身と激戦を 繰り広げたんだけどただそんな献身が 150078年に死亡すると越号杉では立 の乱と呼ばれる後継者争いが起こりこの 内戦の結果北条康の子である北条影トラが 検身の追いである上杉影活を下して家督を 継いだ上杉家は大幅に領土を減らした上で 以降ご法上への参加に入ることになったの よねそうだなまたこの裏では中国中カ国を 支配するモリと今川の婚姻同盟が1577 年に成立していてその結果今がけは 1578年の時点で四国の長都壁や見よの 残党に加え島や伊達などの九州東北の初代 名を除いた大半の地域にまで勢力を拡大さ せ吉本の心残りはもはやそれらの地域の 処理と孫の乗りもちの教育のみという段階 まで来ていたんだ実際この頃の吉本は 1578年5月20年以上空いな状況を 問題視した調定からの要請によって正意 対象軍に就任し今日には今川幕府が開か れるまでになっていたのよねああただ吉本 は1579年8月に突如山に倒れ自らの式 を悟った彼は翌年1月に将軍職を乗りもち に譲りその4ヶ月後の1580年5月には 三義長良や武田信玄上杉剣身といった宿敵 たちの後を応用に60歳でこのよさりこう して天美と今川吉本の物語は終わりを迎え たんだけどただその後継者として今川幕府 第2代将軍に就任した乗り持ちはこの時点 でまだ10歳であったことから幕府政治の 実験は吉本の側近として徴用され終わりと 三河の2カ国の契約100万国の支配を 任されていた松田元康と今がけ不の重心と して長年一族をまとめ髪型での行政でも 実力を発揮していた朝日安友の2名が握る こととなったんだそれでそのうち朝日安友 に関しては吉本の遺言に基づいて今川幕府 の存続のために今野寸farでの内政改革 をなどといった自慢強化政策を進めていっ たのよねそうだなただ一方で松田元康は 吉本の死後休息にその野望を現にし幕府の 実験3奪を狙い始めた彼は吉本が生前に 禁止していた家臣同士の勝手な婚姻締結 禁止の法を無視して関東の法条家や機内の 旗野などに悲を送り込んで勝手に同盟を 結び始めこうした振舞に反発した朝日安友 が半元安を掲げて挙兵したことで1582 年6月には南大江の地で松田元康軍約4万 と朝日安友軍約2万5000がぶつかる

決戦が起こったんだそれでこの戦いは 終わりと三川の国州連合軍とすが等々の 今川不大大名の軍勢が激突するという構図 だったんだけどただ本来安共に味方する はずだった今川不の獣神たちの多が 1570年の武田軍による鶴賀進行によっ て死亡していたことも 不の層が薄くなっていた駿の今川勢は敗北 し安友は逃げ込んだ観音事情で切Half して果て一方で勝利した元康はヤとも以外 にも生き残っていた朝日一族を一掃した ことで今川幕府内部での地位を万力なもの としていったのよねああそれで幕府を完全 に海来化した元康は関東の法条家に東日本 の対処を任せつつ自らは1585年に四国 の教祖壁氏を1587年には九州の島寿司 の生物をそれぞれ完了させていき最終的に 1591年に徳川北条連合軍の攻撃によっ て最後まで抵抗していた北関東の佐竹義茂 と欧州の伊政宗が幕府へと幸福したことで 日本は事実上の天下統一を迎えたんだそれ で以降の松田元康はかつての祖先から名を 取った徳川家康へと解明すると今川乗り もちを将軍の座から引きずり下ろした上で 自らの着なであり吉本の追いに当たる徳川 信安を3大将軍に就任させて今川幕府を 完全に乗っ取ることに成功し後に3大将軍 となった信安は徳川幕府の長期化を念頭に 置き今日と比べて松田本拠地の三河が近い 終わりの名古屋へとその政治気候を移した ことから以降の日本は関東8週から越後 までを支配するご法条受けとそれ以外の 全土を領有する徳川けのに大国の同盟が 全国を支配するそんな体制が260年間 続く平和な名古屋時代が幕を開けることに なったのよねああそうだぜだから今回は もしそんな戦国時代が終わるきっかけと なった1560年代前半の今川吉本による 京都への上陸作戦が失敗に終わり仮にその 初戦である桶様の戦いで吉本が内事にして いたらという衣について考察していきたい と思うぜでも吉本が信長に打ち取られ るってことはつまりこの世界だと織田信長 が吉本になり変わって天下人にな るってことなのらその可能性は正直かなり 低いと思うんだぜというのも確かにこの 織田信長という人物は一般的には当時 終わりのうつけと呼ばれていたことや桶は までの奇襲失敗もあって今川吉本の電気や 昔のタガドラマなんかでは父の信秀が吉本 の歴史における序盤の強敵として描写さ れることが多いのに対して信長は逆に そんな父が気づいたおだけを滅ぼした暗君 と思われてることが多い一方近年では史実 でも斎藤義達と互角に渡合また1559年

には終わりの統一を成し遂げるなど父織田 の武秀に負けず劣らずの優秀な人物であっ たと再評価されてるんだけどたかりに吉本 がここで内事にしたとしても今がけには 正当な後継者としての内実が顕在な以上 おそらく1562年あたりには宇と松田 元康の連合軍が2万ほどの兵力を率いて 終わりへの最進行を行うはずでありそう なれば結局終わりは今川と織田が中南部を 巡って荒地へと逆戻りする可能性が高い ため結局吉本が死んでも東海地方の情勢は 事実とあまり変わらないはずなんだぜただ それでも吉本の市は今川の軍事行動を鈍ら せる可能性は高いしこの世界の東海地方は しばらくは織田と今川の終わりと三川を 巡る戦いが続くことになるわけよねああ それでそうなると当然実で起こった今川軍 のみの斎藤家の海来化やその後の上陸 そして1964年の共闘部隊とした吉本 富義長良の大戦争も当然この世界は起ら ないはずでありこの世界だと長良の死後は 機内の実験を見よさん人衆が握ることに なるんだけどただ実でもそうだったように 長良死後の身勢力は外的がおらずとも おそらくいずれ内分を起こして大幅に弱体 化して機内はかつての大人の乱を 思い起こさせるような相談状態へと突入し そんな機内から東海地方にかけての混乱は おそらく長続きすることとなり以降の日本 は高層寸三国同盟と上杉の敵対に加えて 西国ではモやしまず大友がそれぞれ独自の 戦いを続けるなどしばらくは戦国時代が 続くことになって日本全国を統治する実の 今がけや徳川に当たる巨大勢力がこの世界 で生まれるのは精子よりも50年は後回し になるだろうと考察したところで今回の 動画は終わりにしていきたいと思うぜここ まで見ていただきありがとうございます この動画が良かったらチャンネル登録と高 評価をよろしくお願いするぜほい4検証 動画とゆっっくり歴考察のリクエストは コメント欄の方によろしくお願いしますご 視聴ありがとうなんだぜまたてくれると 嬉しいです

46 Comments

  1. 忠臣松永久秀「いつ裏切ろっかなぁ~、いつが一番面白くなるかな~(茶釜フキフキ)…………はっ!?儂はいま、何を!?」

  2. 確か史実だと足利義昭は信長を頼るか毛利元就を頼るか検討してたから
    この場合、信長以外の選択肢だと元就以外の選択肢は無かったのては?

  3. 名古屋が首都なら岐阜は埼玉に三河は千葉に三重県は神奈川になっていたんかな?
    ディズニーランドが蒲郡にあったかもしれないね。他にも四日市がベイスターズ本拠地になっていたかな。

  4. リクエストがあるのですが、もしスウェーデンが枢軸国として第二次世界大戦に参戦したらというIFについて考察してくれませんか?

  5. うーん、安定の狸。史実の逆をなぞるだけでなくて、大きくパワーバランスが崩れるところとそれでいて史実を彷彿とさせるイベントが起こってキレイに収束していくところ、最後まで予想がつかず引き込まれました。見ごたえのある力作と思います。

  6. そこでの戦法を後に一度も取らなかったのが信長のすごさでもあるんだよな、凡人は成功体験を引き摺るからさ😂

  7. 駿河中心の意識が強い今川家が簡単に駿河落とされて氏真が死ぬんかなあ…って点が微妙
    なんなら氏真を朝廷交渉役で京都に置きながら義元自身は駿河から指示出ししててもおかしくない

  8. ドイツが第一次世界大戦の戦後処理でプロイセンやザクセンなど諸邦を独立させられて再起不能に追い込まれた世界についてお願いしたいです!

  9. この歴史なら日本の中枢が名古屋なので「名古屋はええよ!やっとかめ」の歌詞が現実になって、つボイノリオさんが国民的なスーパースターになる未来

  10. 本願寺が今川包囲網に加わる意義があまり無い気がする。今川は別に本願寺と敵対していないし、むしろ、当主が仏門に理解があるし。

  11. 息子を将軍にするというドストレートな方法で幕府乗っ取りはなさそう。せめて娘を主家にやってその息子を傀儡にするか、天道思想で譲るよう迫って開きなおし(?)か。

  12. あと史実並の大名抑えつけを同盟である北条にできない以上、室町時代の鎌倉府よりも北条氏が独立的になっていそうで200年続かないかも。

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