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豊臣秀吉に忠義を尽くした片桐且元の生涯とは

片桐且元は豊臣家の直参家臣で賤ヶ岳の
七本槍の一人に数えられる武将です
父は浅井長政の家臣・片桐直貞
近江国(滋賀県)に生まれ、
名は初め助作といいました
豊臣秀吉に仕え、天正11年(1583年)
賤ケ岳の戦いで七本槍のひとりに
数えられる戦功をあげ、
3000石加増となり東市正 に叙任されます
文禄1年(1592年)朝鮮に渡海
戦だけでなく軍船の調達・街道整備・
物資の補給などの兵站も担いました
また武将よりも奉行としての活動が増え、
諸国の検地奉行や
方広寺大仏殿などの作事奉行を勤めます
慶長3年(1598年)8月、秀吉の死の直前に
子の豊臣秀頼付きの家臣を監察する
地位につくことになります
関ケ原の戦い後の慶長6年には、
大和平群郡で1万8000石を加増されますが
これは徳川家康が豊臣政権の
五大老としての立場で与えた
ものと考えられています
且元は純粋な秀頼の老臣ではなく、家康の指示を受ける立場になっていました
慶長10年頃には、秀頼の名代や豊国祭の奉行など豊臣家の老臣とみられる活動のほか
摂津、河内、和泉の国奉行という徳川幕府の吏僚としての活動もしていました
幼い豊臣秀頼に代わり、徳川家康の政権を協力する立場となった片桐且元は
「大坂総奉行」と呼ばれるようになります
慶長19年(1614年)、方広寺大仏殿の鐘銘をめぐり、徳川家康は銘文が
徳川家を呪い豊臣家の繁栄を願っている
ものだと嫌疑をかけてきます
これにより片桐且元は、釈明のため
徳川家康のいる駿府城に赴くものの
徳川家康とは面会できませんでした
代わりに徳川家臣・本多正純から
「淀殿が人質として江戸に移る」
「豊臣秀頼が大阪から他国に転封する」のどちらかを選べば
方広寺の銘文については
許すと条件を出されてしまいます
大坂に戻った片桐且元は条件を
淀殿に伝えましたが
なんと同時期に駿府城へ向かい
先に戻っていた淀殿の乳母「大蔵卿局」が
徳川家康と対面し、
特に何の条件もなく
許してもらっていたのです
徳川家康の策略にはまった淀殿は
片桐且元を裏切り者と決め付けます
こうして片桐且元は一族と家臣を連れ
大坂から逃げ延びました
その後大坂夏の陣が終わった数週間後、
以前より患っていた病により京都にて
亡くなっています

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